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最初から何も持っていなかった


 ゴールに生きるというのは、現状の外側を歩いていく、ということなのでしょう。

 たとえば、まったく興味を持っていなかったことに挑戦することもあるでしょうし、
 自分が想像もしなかった新天地に向かうこともあるかもしれません。
 なので、ゴールに生きる以上、まったく未知のものと出会うのはすでに確定している、と言っちゃった方が楽かもしれません。
 
 でも、素直に、そういう未知は怖いものです。
 なにが怖いのでしょうか?
 わたしは失うことへの怖さだと思っています。
 
 たとえば、企業をして失敗した場合、これまでかけてきたお金や時間、社会的信用を失ってしまいます。
 たとえ、そこまでいかなくても、新たなことに挑戦することは、同時に失うことのリスクを想起させます。
 
 わたしも失うことは、やっぱり怖いです。
 でも、そんなときこそ、わたしは藤井風さんの「帰ろう」を聴いて、心を慰めています。


 歌詞の一部を引用します。
 
(引用開始)
 
 ああ 全て与えて帰ろう
 ああ 何も持たずに帰ろう
 与えられるものこそ 与えられたもの
 ありがとう、って胸をはろう
 待ってるからさ、もう帰ろう
 幸せ絶えぬ場所、帰ろう
 去り際の時に 何が持っていけるの
 一つ一つ 荷物 手放そう
 憎み合いの果てに何が生まれるの
 わたし、わたしが先に 忘れよう
 
 あぁ今日からどう生きてこう
 
(引用終了)

 
 わたしたちが何かを失うことを極端に恐れているのは、その何かを所有しているからでしょう。
 
 その何かとは、
 お金かもしれません。
 住居かもしれません。
 家族かもしれません。
 社会的信用かもしれません。
 きっと、それは人ぞれだと思います。
 
 でも、わたしがあなたに伝えたいことは、それはすべて、あなたの思い込みだということです。
 率直に言わせてもらうと、わたしもあなたも、本当は何も持っていません。
 世の中に「所有」という概念は、本当は存在しないのです。
 
 それを理解するためには、釈迦が発見した「悟り」である縁起について知らなければなりません。
 縁起について知るために、苫米地博士の本から一文を引用させてもらおうと思います。
 
(引用開始)
 
 「縁起」とは「縁」によって「起」こると書きます。
 一言でいうと、縁起とは「すべての存在は関係で成り立っている」ということです。
 どういうことかというと、世の中には個で成り立つものは存在せず、他のものとの関係性によって成り立っているという思想のことです。


(引用終了)

 
 縁起について体感したいのなら、自己紹介をしてみるといい、というのは苫米地博士の提案です。

「私は〇〇家の子供です」
「私は日本に住んでいます」
「私は17歳です」
「私が好きなのは野球です」
「私には妹と弟が一人ずついます」
 と。
 
 なぜか、わたしたちは自分を紹介しているはずなのに、語っている内容は、わたしたち以外のものになってしまいます。
 
 家のこと。
 出身地。
 年齢。
 好きなもの。
 弟妹のこと。
 
 どれも、わたしではありません。
 つまり、わたしという存在は、わたし以外の何かで形作られている、ということです。
 もっと言えば、“わたし”なんてないのです。どれだけ自分を探ってみても、自分自身の情報なんてどこにもないのですから。
 
 それが、お釈迦様の言う「無我」です。
 
 縁起でいうと、わたしたちは関係性の上に成り立っているので、関係が変化すれば、自然とわたしたち自身も変化します。
 
 もし、あなたが銀行員になれば、「銀行員のあなた」になるでしょう。
 銀行員を辞めてミュージシャンになれば、「ミュージシャンのあなた」になるでしょう。
 そして、誰かと結婚すれば、あなたは「夫(妻)のあなた」になります。
 
 環境が変われば、あなたは変わります。
 そして、永遠に変わらないものはありません。
 あなたが同じ日を生きられないように。
 これを人は諸行無常と呼ぶのだろうし、もしかしたらホメオスタシスの本来の機能とも呼ぶのかもしれません。
 
(引用開始)
 
ホメオスタシスは実は変わらない理由になりません。
ホメオスタシスの機能とは、環境にあわせて実は生体が「変わる」機能です。
熱いと汗をかくように生体が変わり、寒いと筋肉を振動させるように生体が積極的に変わります。
汗や震えによって、たしかに体温は維持されますが、他は大きく変化します。
体温という台風の目は確かに無風に見えますが、周囲は豪風雨なのです。

それは本来のホメオスタシスの有り様です。
 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12342994314.html

 
(引用終了)
 
 なにごとも変化するのが正しい在りようですし、それに適応できるのが、本来の人間です。
 そして、なぜ変化してしまうのかと言うと、それは縁起があるからです。
 だから、永遠に変化しない、つまりアプリオリなものはこの世界には存在しないのです。
 
 それを前提に、わたしはあなたに問わせていただきます。
 
 いつか消えてなくなってしまうものを、あなたは本当に自分のものと言えるのでしょうか?
 
 わたしもあなたはいつか死んでしまいます。
 それは五十年後か、二十年後か、はたまた明日という可能性も捨てきれません。
 少なくとも確定しているのは、わたしたちの人生には必ず「死」という名のゴールがあるということです。
 
 いつか死ぬわたしたちは、「命」を所有できていると本当に言えますか?
 わたしは言えないと思います。
 
 たとえば、手のひらからこぼれ落ちる砂を、わたしのものとは言えないように。
 いつか消えてなくなってしまうものを、自分のものとは言えないのです。
 
 あなたは今なにを持っていますか?
 きっと数えきれないほど、たくさんのものを持っていると思います。
 でも、死ぬときにあなたは何も持っていくことはできませんよ。
 たとえあなた自身の記憶であろうとも、あなたが死ねば脳の活動は止まり、すべては消去されます。
 
 まさに藤井風さんの「去り際の時に 何が持っていけるの」です。
 解答は、何も持っていくことはできません。
 
 そもそも、何も持っていないのです。
 ただ持っていると、思い込んでいるだけなのです。
 持っていると思い込んでいるから、どうしても失うことを恐れてしまいます。
 
 失うことを恐れないために、そもそも何も持ってなどいなかった、と諦めることが重要です。
 だから、わたしたちは、ストア哲学者のように生きたいのです。
 たとえ、中々そうは在れなくても、そう在ろうとし続けることが大切なのだと、わたしは思います。
 
(引用開始)
 
国王であったのに、国を滅ぼされ、妻子を殺されたスティルポーンに、「あなたはどんなものを失ったのですか?」と残酷な質問がなされます。


それに対して、スティルポーンはこう答えます。

何も失ってはいません。

私のものはすべて私の中にあります。

と。

ストア派の用語で言えば、アパティアです。
(ἀπάθεια/apatheiaとは、pathos(情動)の否定です。まさにストイックw)

これを言い換えて、タレブいわく「彼は奪われるかもしれないものは自分のものだとは考えない」と言います。

奪われるかもしれないもの、失うかもしれないものは自分のものでは無いのです。
 

 
(引用終了)
 
 この世にいるすべてのものは、いつか風化します。
 わたしが好きなものも、
 わたしが大切に思うものも、
 わたしが命より大切にしている人も、
 いつかはこの世から消えてなくなってしまうのです。
 
 それは、どうしようもなく切なく悲しいことですが、なのになぜか、泣きたくなるほどの喜びもそこから生まれてくるのです。
 
 春に咲いて散る桜を日本人が愛するように。
 不思議なことですが、いつか消えてなくなってしまうものにこそ、わたしたちは深い喜びや情熱、美しいと感じる心が生じてしまいます。
 
 なんというか、わたしはその度に、神様が、この諸行無常な世界を生き抜くために、与えてくれたギフトなのだろうか、と感心するのです。
 
 失うことにただ怯えるのではなく、そこに美しさを感じることができるように、どうやら人間はつくられています。
 
 いつか消えてしまうからこそ、今この瞬間出会えたことを“奇跡”だと人は喜ぶことができるのでしょうか。
 
(引用開始)
 
東洋の神話というか物語だったかと思うのですが、ある聖人のお気に入りのグラスがありました。
バカラみたいなものです。
ブルーのすこぶる美しいグラスだったように記憶しています。訪ねてくる人に見せるくらいに好きなグラスだったそうです。

それをある日、使用人が謝って割ってしまいました。

そのとき聖人は怒りもせず、こう言ったそうです。
「わたしは、そのグラスを日にかざしてその美しさを眺めているときですら、私の心の中ではすでに割れていたのだよ」と。
 
(中略)
 
グラスであっても、原稿であっても、Nihil Perditi(何も失ってはいません)というマインドセットが重要です。

富も地位も名誉も原稿もバカラのグラスも失われるものは、そもそも所有していないのです。だから失うこともない。

もしくはその美しさを堪能する瞬間も、心の中ではすでに砕けているのです。
そして心の中で無残に砕けているからこそ、いまこの瞬間のグラスの美しさを奇跡として味わえるのです。

 
 

(引用終了)
 
 失うことはきっと、誰もが恐ろしいのだと思います。
 たとえ、本来は何も持っていなかったとしても、そういう情動を消すことは難しいですし、そして必ずしも、消さないといけないものでもないと、わたしは思います。
 
 なぜなら、美しい花が枯れてしまうことを、誰かが残念に思ってしまうことと同様に、それはきっと人として自然な感情だと思うのです。
 
 でも、その上で、その恐怖に怯えながらも、わたしたちは「何も持ってない」と言うべきなのだとも思います。

 ゴールに生きるために。
 現状の外側から飛び出すために。
 
 あなたもわたしと一緒に「最初から何も持っていない」と呟きながら、人生を生きてみませんか?
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。

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