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「召使いがお姫様になった」のではない 「お姫様が召使いをやっていた」のです

 不思議なことに、児童文学というのは、子供の頃のわたしより、大人になったわたしのほうに、強く、やさしく、大切なことを語ってくれます。
 
 何をでしょうか?
 
 幸せになる方法です。
 もしくは、人生に対する姿勢でしょうか。
 『モモ』はわたしに大切なことを教えてくれました。十年後、二十年後に、またわたしが本を開いても、新たに大切なことを教えてくれることでしょう。
 
 そして、それは『小公女』も同じです。
 小公女という児童文学は、わたしに大切なことを教えてくれました。
 できれば、その大切なことを、あなたと共有したいとわたしは考えています。


 それでは、小公女の簡単なあらすじから解説していきましょう。
 どうかお付き合いください。
 
 物語の主人公の名前は、セーラ・クルー。
 美しく、ユーモアがあって、賢く、正直で、何より慈愛深い少女でした。
 セーラは早くに母を亡くしましたが、父は金持ちでセーラを宝石よりも大切に愛し、そしてセーラ自身もそんな父を深く尊敬していました。
 
 暗い冬の日に、セーラは父と離れて、ロンドンにある寄宿生女学校に通うことになります。
 そこで、セーラはその在り方から、多くの生徒に慕われることとなり、プリンセスとまで呼ばれていました。
 
 しかし、そんな絶好調だったセーラに、突如、暗雲が立ち込めます。
 
 父が亡くなったのです。
 それも父は、全財産をダイアモンド鉱山の開発に投資していたので、セーラに残った財産はひとつもなく、学校に通うどころか、明日ご飯を食べるお金すら残っていませんでした。
 
 それから、セーラは父が亡くなった悲しみに浸ることもできず、生きるために、女学校の召使いとしてこき使われることになります。
 
 セーラは今まで着ていたドレスを取り上げられて、着古した布切れのような服を一着だけ与えられ、召使いに従事します。
 誰もやりたがらない仕事をやらされ、子供なのに重いものを持たせ、雨の中に買い物に行かせて、それなのに与えられた食事はほんのちょっと。
 
 そして、今までセーラを慕っていた生徒たちは、初めはセーラにどう触れたものか分からなかったのですが、彼女たちはどうも想像力に欠け、セーラの痛みに寄り添うこともせず、召使いのように扱うようになりました。
 
 そんな生活を送るセーラだったので、どんどん心身が痩せ細り、みすぼらしい乞食のような姿になってしまいました。
 
 まさに大人ですら音を上げる生活です。
 いえ、そもそもどんな人間が、こんな生活を乗り越えられるというのでしょうか。
 たとえ、周囲から聖人と慕われるような人間だとして、一ヶ月セーラと同じ生活を送らせてみるとしましょう。
 たちまち心は荒み、他者に優しくすることを忘れてしまうことでしょう。
 
 しかし、セーラは気位を忘れませんでした。
 常に自分に誇りを持ち、弱い者へのいたわりを忘れませんでした。
 
 なぜ、そう在り続けることができたのでしょう?
 
 実は、セーラには卓越した想像力があったのです。
 あの想像力?
 はい。あの物語をつくり出す想像力です。
 
 人は誰もが、胸のうちに、素晴らしい想像力を抱いています。
 少なくとも、わたしはそう思っています。
 
 なぜなら、わたしたちは、みんなそれぞれ物語のなかに生きています。
 そうは思いませんでしょうか。
 たしかにわたしたちは、この世界が、現実が、物語ではないことを知っています。
 なのに、わたしたちはなんとか現実を辻褄合わせして、現実を物語のように解釈してしまうのです。
 
 たとえば、わたしたちが小説や映画などのフィクションを好むのは、物語が現実以上にリアリティーがあると、そう心のどこかで思っているからではないですか?
 
 それを裏付ける文章をまといのばのブログで見つけたので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
僕らは奇妙な世界を生きているのです。
 
僕らの小さなの視野では、物理空間と情報空間が地続きだとはなかなか思えません。地球が球体だとなかなか直感的に思えないように。

だから、僕らはフィクションを必要とします。
物語を必要とするのです。
物語だと安心して、その臨場感にひたれます。
その臨場感にどっぷりと浸ったあとに、その奇妙な世界が、実は僕らの現実だったと知らされるのです。

 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12759534928.html

 
(引用終了)
 
 わたしたちは、無意識に、現実を物語だと感じて、そのように解釈しています。
 けれど、それは、とても想像力のある行為だと、わたしは思うのです。
 なぜなら、イメージと物語は同一のものだからです。
 
(引用開始)
 
イメージがとても重要で、理論はあとから来ます。

イメージを言い換えれば物語です。宇宙創生の物語が神話と呼ばれるのであれば、シン・TENETは神話なのでしょう。

神話を理解するのは、理論でも理性でもなく、無意識であり心でありビジョンです。
 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12743732745.html

 
(引用終了)
 
 つまり、わたしがあなたに伝えたいことは、人は無意識に物語をつくり出している、ということです。
 そして、セーラはそれを意図的に、自分の意思で物語をつくり出していました。
 それが、セーラを幸福に導いたのです。
 
 どういうことでしょうか?
 
 つまり、セーラは父親を亡くし、ひどい生活を送らせているという可哀そうな私、という物語ではなく、別の物語を選んだのです。
 その物語では、彼女はただの召使いではなく、身をやつしたお姫様でした。
 
(引用開始)
 
「何が起きても、変えられないものがひとつある。私がボロをまとったプリンセスでも、気持ちはいつだってプリンセスでいられる。黄金の布の服をまとっていたら、プリンセスでいることは簡単だけれども、誰にも知られずにずっとプリンセスでありつづけるほうが、よっぽど大きな勝利だわ。マリー・アントワネットは牢屋に入れられた時には王座はなくなっていて、着ているのは黒いドレス一枚で、髪は白くなって、民衆はばかにして寡婦カペーと呼んだ。でも、もっと派手で何もかもが豪華だったころよりも王妃らしかった。私はそのときのマリー・アントワネットが一番好き。わめいている群衆におびえなかったのよ。群衆よりも強かったのよ。首を斬られたときも」
 
(引用終了)

 
 わたしは、このセリフを読んでいると、まといのばのブログのある一説を思い出します。
 
(引用開始)
 
 ちなみに誤解されがちですが、天職とは職業のことではなく、意識状態のことです。レンガ積みであり、マックジョブであれ、それは天職になりうるのです(あるホテル王に対して「あなたはドアマンからはじめて、ついにはホテル王になりましたね」というインタビュアーに対し、「ドアマンがホテル王になったのではない、ホテル王がドアマンをやっていたのだ」と答えたことを思い出します)。

 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12227077340.html

 
(引用終了)
 
 優れた人間は、まるで時間が逆行しているようです。
 彼らの頭の中では、「ドアマンがホテル王になった」のではなく、「ホテル王がドアマンをやっていた」のです。
 
 セーラもまた、そうでした。
 彼女は自分がお姫様だと、そう思い込みました。
 本気でお姫様のふりをしていたのです。
 
 本気で思い込んだ結果、自分ですら本当は私はお姫様だったんじゃないか、と勘違いするほどです。
 そして、その時の彼女の心境が、またユーモアなのです。

(引用開始)
 
(ご存じないでしょうけど、プリンセスにものを言っているんですよ。その気になれば手のひと振りでわたくしはあなたの処刑命令だって出せます。大目に見ているのは、わたくしがプリンセスで、あなたはあわれで愚かで薄情でいやらしくて、分別がないからです)

(引用終了)
 
 セーラは完全にお姫様になりきっていますね。
 でも、それで良いのです。
 それが良いのです。
 
 もしかしたら、あなたはセーラのことをバカみたいだと思うかもしれません。
 「こんな大変なときに、ごっこ遊びをしている場合か」と叱りつけたくなるかもしれません。
 
 しかし、コーチングでは、セーラこそが正しいのです。
 
 なぜなら、「私はゴールを達成した」と、本気で思い込むことができれば、それは既に達成したも同然だからです。
 苫米地博士は、まだコーチングの書籍を出していなかった時代に、ゴールのことを「大いなる勘違い」と呼んでいたことをあなたは知っていますか?
 
(引用開始)
 
 「ハッタリ」と「勘違い」の差は自分自身もだまされているということ。
 「ハッタリ」をやっているかどうかは、自分が一番知っているわけですから、自分はだませない。だから、ダメです。
 でも、「勘違い」は自分自身もだまされている状態です。だから、効くし、多くの人を巻き込むことができます。 「ハッタリ」というのは単なるウソだから必ず破綻します。しかし、「勘違い」は死ぬまで勘違いが続けば絶対破綻しません。
 だから、皆さんには「大いなる勘違い」をしてほしいのです。そうすれば、現実が必ずついてくるからです。
 


(引用終了)

 
 この文脈で言えば、セーラはまさしく「大いなる勘違い」のなかにいたのです。
 そうすると、先ほどの「天職とは職業のことではなく、意識状態のことです」という言葉の意味が、ほんのちょっとだけ掴めてきます。
 
 つまり、自分はプリンセスだという「大いなる勘違い」のなかで生きているセーラにとって、苦難や理不尽は、自分がお姫様であり続けるための試練に変わっていたのです。
 言葉や所作、行動のひとつひとつに至るまで、セーラを自分で自分を問い続けていました。
 
 今の自分はお姫様だろうか? と。
 
 つまり、「大いなる勘違い」のなかで生きる人間にとって、苦難や理不尽、行動はすべて、自分がゴールを達成するための意味ある行為なのです。
 すべてが「want to」なのです。
 
 この状態はある種の救いだと、わたしは思います。同時に、新たな地獄の始まりだとも。

 セーラは自分がお姫様だと思い込むことによって、あらゆる苦難や理不尽を切り抜けることができました。
 しかし、自分がお姫様であるということは、お姫様らしからない行動を取ることはできないということです。
 一度でも、そんなお姫様とは正反対の行動を取ってしまうと、たちまち彼女の物語は崩壊してしまいます。
 
 たとえば、もし、猛烈にお腹を空かしているときに、たまたまパンを買うお金を拾ったとして、
 そして、もしかしたら自分よりお腹を空かしているかもしれない、可哀そう子を見かけたとして、
 あなたはその子に、運よく手に入れたパンをあげることはできるでしょうか?
 
 普通はできないと思います。
 しかし、お姫様ならできるのです。
 お姫様とは、自分がお腹を空かしているときに、自分より空腹な人に、パンを分け与えられる人間のことだからです。
 少なくとも、セーラはそう信じていました。
 だから、分け与えたのです。
 
 しかし、あなたも想像できるでしょうが、それはセーラにとって、身を斬るほどに辛いことでした。
 本当はセーラだって、久しぶりに、腹いっぱいになるほどパンを食べたかったのです。
 それでも、そんな自分が叫び出すのを必死に我慢して、セーラはパンを分け与えました。
 それが、セーラというお姫様なのです。
 
 このように、「大いなる勘違い」のなかに生きていることで、普通の現実に生きている人であれば、経験するどころか想像もしない苦難に遭います。
 
 「勘違い」から覚めさせるために。
 
 たとえばそれは、自分のエゴかもしれませんし、外部の人間からの言葉や態度かもしれませんし、自分の弱いところからささやいてくる言葉かもしれません。
 
 そんな内なるドリームキラーや創造的回避に負けず、「大いなる勘違い」を続けた者にこそ、ゴールを達成できるのだとわたしは思います。
 
 小公女という物語では、セーラはどんな時でもお姫様であり続けることで、最高のハッピーエンドに至ることができました。
 多くの人にとって不思議な物語でしょうが、わたしたちにとって、それは不思議な現実となります。

 セーラのように生きましょう。
 わたしもあなたも、自分が望む物語の中に生きて、死ぬまで勘違いし続けましょう。

 それこそが、幸せになるための所作だと、わたしはそう思うのです。
 
 長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 
 
 



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