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真実よりも整合性の高い“虚構”

 最近、虚構推理というアニメにハマっています。
 虚構推理とは、シリーズ小説が原作のアニメで、怪異たちの知恵の神となった少女岩永琴子と、不死身の男性桜川九郎の二人を中心にしたミステリ恋愛物語です。
 


 数年前に、アニメ一期を見ていたのですが、二期も現在出ていると知り、一気見してしまいました。
 このアニメの主人公、岩永琴子は妖怪から、時には人間から頼られて、妖怪にまつわる問題を解決していきます。

 彼女は幼い頃に、妖怪たちに「我らが知恵の神となっていただきたい」と懇願されました。
 琴子はそれに了承し、片目と片足を捧げ、一つ目一本足の知恵の神となったのです。
 そうして、琴子は、妖怪と人間の世界の秩序を守るために、尽力することになりました。
 


 秩序を守るために、岩永琴子は妖怪がらみの問題を解決していきます。
 しかし、その解決方法がユニークなのです。
 一口に妖怪絡みの問題と言っても、人間が原因であることがよくあります。
 そもそも、妖怪が知恵の神に頼るのは、人間が妖怪の領分を侵したから、と言ってもいいほどです。
 
 ならば、琴子のやるべきことは、いかに人間を説得し、妖怪の領分から立ち退かせるかです。
 琴子は推理によって、他者を説得するのですが、この作品の肝は、その推理が“虚構”であることなのです。


 とんちというのも言い当て妙ですね。
 しかし、とんちのような虚構を用いなければ、琴子は問題を解決できないのです。
 たとえば、琴子がある殺人事件の犯人を知りたいと思ったとき、事件現場の周囲にいた妖に話を聞けば、一発で犯人が判明します。

 しかし、一体誰が琴子の言葉を信じるでしょう?

「そもそも、殺人事件に犯人はおらず、ただの事故だった」ことが真実とします。
 しかし、その根拠が「妖怪が言っていたから」と言われて、その戯れ言を証言として受け入れたなら、それは、もはや警察組織として機能していないでしょう。
 
 真実というのは、実は、このようにとても儚きものなのかもしれません。
 わたしたちは、常に、真実とは強固であり、決して侵しがたい聖域のようだと感じています。
 


 しかし、この世にアプリオリな真実は存在しません。
 それを教えたのは、およそ2500年前に生きた釈迦であり、それを「縁起」と言います。
 
 縁起とは、関係によって存在が起こる、という考え方です。
 これは、たとえるなら、親は初めから『親』なのではなく、子供が生まれることによって、初めて親になれるということです。
 
 もう少し詳しい解説は、苫米地博士の書籍から引用して説得させていただきます。
 
(引用開始)
 
 例えば、あなたは森の中にいたとします。では、その「森」というものは本当に存在するのでしょうか。

 「森」と言っても、ただ「木」がたくさん生えているだけです。木はあっても森は「ある」と言い切れるでしょうか。もしかしたら、「森」ではなくて「林」かもしれません。その区別すら、明確にはできないはずです。
 
 「木がたくさん生えているのが森」だとすれば、その「たくさん」というのはどの程度を言うのでしょうか。どこからが「木」で、どこからが「林」で、どこからが「森」なのでしょうか。
 
 そんなふうに考えていくと、「森」だと思っていた場所も、実は「森」ではないかもしれないと思えてきます。実際、「森」という存在があるのかないのか、なんとも言い切れなくなってきます。
 
 こんなふうにすべてのものは、よくよく見てみると、「あるとも言えるし、ないとも言える」ものだということがわかります。
 
 「でも、『木』はあると言えるんじゃないか」
 
 そう思う人もいるかもしれません。木が集まって森になる。だとすれば、森があるとは言い切れないが、木はあると言えそうだという主張でしょうか。
 
 しかし、「木」という存在も「森」と同様に怪しいのです。そもそも、「木」という言葉があるから「木」と認識しているだけであって、「木」という言葉を知らない人が「桜の木」と「つつじの木」を見たとき、同じ「木」だと捉えるかどうかははなはだ怪しいと言わざるを得ません。
 
 また、木は細胞からできています。細胞がたくさん集まって、「木」と呼ばれるものを形作っているわけです。だとしたら、「森」と「木」の関係と同様、細胞はあっても、「木」というものが「ある」と言えるのかどうか怪しいということになります。
 
 細胞ももっと細かく分けることができます。核とか、細胞質とか、もっと言えば、分子とか原子とか、素粒子レベルまで分けることができます。
 
 では、素粒子はあると言えるのかと言うと、量子力学の世界をご存じの読者はおわかりのように、ある確率でしか、その場所に存在していると言えないのです。例えば、原子の中の電子の位置を正確に測定することはできません。
 
 こんなふうに「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」というのが「空」という概念です。
 
 存在というのは、実は実体として「ある」とは言い切れず、常に他のものとの関係性の中でしか定義できません。どんなものであっても、「あるともないとも言え、またあるともないとも言えない」のです。
 
 こんなふうに、「すべてのものは『空』である」としてものごとを見る見方を「空観」と言います。
 
 これに対して、「すべてのものは『空』であるとしても、関係性(縁起)によってそれぞれの役割があり、たとえ仮の存在であっても、その存在や現象の役割を認めて見てみようという見方が「仮観」です。
 

 
(引用終了)

 
 この話を先ほどの真実の話に引っ張るのであれば、真実もまた虚構であり、「あるかもしれないし、ないかもしれない」ということです。
 あるのは、より整合的か否かで、両者を比較して、より整合性が高いものを真実と呼ぶだけです。
 

 
 それは、たとえるなら、子供がケンカして、親がどちらの子供が悪いかを、本人や周囲の証言を聞いて判断するようなものです。
 そこに絶対の真実はありません。
 
 だから、極端な言い方をするのであれば、この世に真実など無いというのが「空観」と言えます。
 逆に、アプリオリな真実なんてないけど、より整合性が高いものを真実と呼ぼう、というのが「仮観」です。
 
 しかし、問題となるのは、この整合性が高いかを判断するのは、本人の重要性関数である、ということだと思います。
 重要性関数が違えば、その「真実」を共有することはできないのです。
 
 まといのばのブログでは、それを分かりやすく教えてくれていますので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
「能力の輪」が異なる人同士はどんな風に会話をするのでしょう?


お互いに基本的には分かり合えないと言っても良いと思うのですが、それを戯画的に描いたのが、今回の寺子屋「リーマン幾何学」でも取り上げるこんな小話です。

スコットランドを走る列車に、天文学者と物理学者と数学者が乗っています。

窓からこんな風景が見えました。
 


それに対して、天文学者は

「なんと奇妙な。スコットランドの羊はみんな黒いのか」

と言います。

天文学者というのは、宇宙全体を観ることはできませんので、小さなサンプルで全体を推定する癖がついています。

それに対して、物理学者は鼻で笑いながら、

「だから君たち天文学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だろう」

と言います。

物理学者はそれに対して、我々の感覚に近いかもしれません

天文学者と物理学者の会話を聞いて、数学者が2人をあざ笑いながら、

「だから君たち物理学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』だ」

と言います。

数学者の厳密性が良くあらわれたコメントです。

ここに三者の世界観の違いが見て取れます。

同じものを見ていても、ブリーフシステム(信念体系)が違えば、違うものが観測されるのです。

これはきわめて重要な視点です。

同じものを見ていても、同じものは見ていないのです。
 

 
(引用終了)

 
 つまり、アプリオリな真実なんてないということは、人それぞれの真実がある、ということです。
 虚構推理では、それをストーリー仕立てで分かりやすく伝えてくれます。

 論理が使えない人間に、論理を用いて説明したとしても、なにも通じないように。
 人間が生きる社会では、妖怪の証言付きの真実とは“真実”となりえないのです。
 ここに、わたしは、真実の儚さというか、脆弱性を感じさせられます。

 だから、琴子は真実をありのままに伝えようとはせず、真実を踏まえた上で、真実として受け入れられやすい“虚構”を作り上げます。
 
 真実より整合性の高い“虚構”を作り上げて、クライアントや対象を騙して、問題を解決します。
 まさに真実は“藪の中”です。
 

 
 それで良いのか?
 という疑問も湧いてきますが、それは、もしかしたら観点が違うのかもしれません。
 琴子の仕事は、べつに真実を明らかにすることではなく、問題を解決し、人妖の秩序を保つことです。
 真実が使えるのなら、そのまま使いますし、使えないのなら、虚構でもなんでも作り上げます。
 嘘も方便ってやつです。
 
 この琴子の在り方は、わたしたちにも転用できるのではないでしょうか。
 というより、そう生きるべきかもしれません。
 方法や手段はさして重要ではなく、泥縄式でもでっちあげでも、問題を解決しよう(ゴールを達成しよう)とするなりふり構わなさが、今わたしたちに足りないものかもしれません。
 
 まといのばのブログでは、わたしたちにそのようなことを伝えてくれるように思います。
 
(引用開始)
 
クリプキの可能世界意味論にも絡めて、おそらく寺子屋などでも話していますが、望ましい可能世界へ移動するための移動関数が「知識」です。その「知識」が移動させてくれるのです。そして移動して始めて、その知識が本当の「知識」であったことが分かるのです。逆に事前には分かりません。
もっと突っ込んで言えば、嘘であっても、間違いであっても、移動してくれれば、良い知識なのです。我々が求めているのは、知識のコレクションではなく、情報空間の移動です。ですから、その切符が欲しいのであって、切符のコレクターではないのです。移動したいのです。
そして移動していくためには、抽象度もまた必要です。
羽ばたくためには軽さが必要で、捨てていく情報が多い方が軽くなれるのです。
 

 
(引用終了)

 
 琴子は、真実よりも整合性の高い、つまりリアリティーの高い“虚構”を作り上げますが、
 わたしたちは、現実よりも整合性の高い、つまりリアリティーの高い“ゴール”を作り上げていきましょう。
 
 そこで、嘘はいけないことだとか、本当にいけるのか、と余計な情動に惑わされることなく、淡々とその作業に従事していきましょう。
 
 わたしたちはみな、儚い虚構の世界に住んでいるのですから、書き換えることは可能のハズです。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 

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