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溺れてるみたいな日々

メンタルの調子がすこぶる悪い。

そもそも、抗不安薬でギリギリ生きれてるレベルなので、日ごろのパフォーマンスも常人の「マヂゃみ卍(´;ω;`)」みたいな感じを少し超えた状態がずっと続いている感じ。

数値化すると精神的生命力が常人の35%くらいで稼働しているような感じだろうか。0%になりそうなのを、抗不安薬で心の痛みを散らして目を背けることで体感35%、周囲が感知する振る舞いは60%って感じだろうか。

0%は言わずもがな、何のブレーキもなく恐怖を超えて閉幕まっしぐら状態。

知識を蓄えて半強迫的に完璧主義の理詰めでリハビリの対策を練っている状態なのだけれど、それでも2~3か月に1回以上はこの5%届くか届かないかくらいの混乱メンヘラ状態に足を取られることがある。

生い立ちや遺伝子や諸々ひっくるめて「自分の人生の責任を取れるのは自分だけ」ということで、低くない情報収集や精査のスキルを余すことなく注ぎ込んでいる。なので、人に指摘されるような「精神リハビリ系」は自分に負担をかけないような方法を選び抜きつつも頑張っている。

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だからこそ、正直この発作みたいなやつの飼いならし方が全くわからない状態だ。会話も了解ですメールすらも居留守して1人歩いたの歩けないバージョンみたいな感じだ。

失踪もしたいし、泳ぎたいし、しょぼくてもプラネタリウムだったり香水だったりショッピングに出かけたい。行きたい場所が沢山あるけれど、身体がどうにも動かない。

気分転換というのは恐ろしいというのは人には良く話す。それは取り返そうとして焦って、気分転換できなかった時の自分に余計に焦るからだ。わかりきっているのに、今の私は藁にも縋る気持ちで自分を切り替えなければいけないのだ。

焦りが一番いけないのはわかっているし、一番理解しているであろう友人も、今の私にはもう少し「解放された休息」が必要であるということを熱弁される。

とはいえ、物質主義的に困難が立ち込めているので、そういう(本来こういう言葉は使いたくないのだけれど)「甘えたことは言っていられない状況」なのだ。

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そんで実際どんな感じかと言えば、上手く呼吸ができない。泣けばすっきりするというのは感覚的にわかっていても、涙の一つを流すのにも苦労して、精神が苦しいなかで肉体を上手くコントロールできていない状態に近い。

昨日今日で急に始まったような感じだけど、正直一週間以上はラインの返信も億劫になって、物によってはきっかけもなく昨年の夏とかで業務連絡を止めていたりもする。

優先順位が高すぎるものは返信するように心がけているようにしているのだけれど、5%だと自分でも何が起こっているのかわからないし、どう説明したらいいのかわからないから困るのだ。

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2021年は本当に鬱の年だった。記憶は朧気だし、部屋に籠って(内省的に)狂い散らかしてた記憶しか思い浮かばない。

家族の問題が一番大変だったとはいえ、それに関しては長い長い問題であり、労力と消耗であり諦めに近かったと思う。ダメージが入らないわけじゃないけれど「まあ今までの人生に比べたらまだ希望ある方じゃない?」って感じ。

その間も、コロナで精神を病んだ友人たちの相談に乗っていた。精神病をやることで知識を得ながらも、自己をコントロールして感情論にならず、必要な情報や適切な扱いを与える存在はさぞ便利だったろうなと思う。

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彼らには家族がいた。みんな諸手を挙げて幸せな家庭なんてないし、それぞれの問題があるけれど、シングルマザーでも母性や友人関係としての信頼であったり、帰る場所や居場所があった。

社会で使役されて視野狭窄に陥っているだけで、人間としてみれば周囲のフォローアップの環境は整っていたというわけだ。

それが現在、結果として襲い掛かってくる現状がしんどいのだろうなと思う。私は必死に寄り添ったし、その結果、彼らが自死しないように彼らの代わりに遁走し必要以上の労力や心労を負った。

それは「自分はもう解決できない問題であり、自分が頑張るしか解決策がない」というのがわかりきっているから、せめてほかの人の視野狭窄や認知の歪みなんかの単純な問題は解決したいという意地で、多分今も変わらん。

それは哀しきかな考えまくった結果なので、親が異次元のモンスターだった段階でしょうがないんだけれど。

私としては悩みに悩んで死をなんども考えて、他者のために使うしかないという背水の陣なのだけれど。彼らは私をいつも「冷静で強い人」或いは「死にたがりのメンヘラ」という認識で、自分がしんどい時期が過ぎれば、私は再びただの利用されるアイコンへ変わる。

戻る場所がある人々を、立て直せる人々を、その人たちをサポートしたという自分の記録が消えていくことを、飲み込んだはずなのに苦しく思う。

私はずっとこうやって深海の中で呼吸も出来ず藻掻いてる。

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情動的な話は誤解を生みやすいし、主観に飲み込まれて自己憐憫に浸りがちだ。

きっとこの問題というのは、私の処理速度や言語理解の低さが故に招いていることなのではないかという事にたどり着く。

診断を下ろさない自費診療のクリニックで受けたWAISで処理速度が著しく低いことが判明している。

知覚推理との差は27であり、言語理解はIQだけで言えば知的障害のラインに近く、言語理解とワーキングメモリは先天的なものであり改善することが出来ない。

とはいえ、ADD気質なのはわかっているけれど、ASD気質は表出していないし、友達もすぐ作れるし、どんな人とでも会話を弾ませられる。ただ、それはACからなる経験則や法則論であり、自己開示のできないコミュ障なのではないかという話だ。

カウンセリングでも通院でも「眠れてます」「ご飯を食べようと頑張ってます」「金銭的に不安です」「希死念慮に殺されそうです」とかそんな話しかできない。

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例えば今みたいに、壊れているのには原因があり、その途中式に解法があるわけだと思うのだけれど。

その途中式が、知覚推理で膨大なデータを扱っているものの処理しきれないし、言語理解が長けているわけでもないので言語化する労力もあるわけだ。

なんつーか、詰み?

まあそんなことは遥か昔よりわかっちゃいるんだけれども。ベンゾ系を最大火力で処方し続ける医療体制がよろしくないのもわかった上で、現状ベンゾ系の軽いOD(耐性の問題で救急搬送されるような馬鹿な摂取はしない)で凌ぐしかないんだよなあ。

でもその凌ぐだってどこまで持つかね。

今回の件で脳内のキャッシュが爆発しそうで、言語化できないことへの対策を調べてたんだけど、発達障害に共通しているのが、処理速度だけガクッと低いということらしいので。やっぱちゃんと発達障害専門に転院しなきゃなんすかね。

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発達障害が有名になってさ、自称発達障害とか言い訳や開き直りに使う人たちが増えてさ、そういうのを見るたびにエアプエアプと思ってしまうんだよな。

だって大真面目に生きづらいし、自分自身が自分の人生の「障害」にどう対策していくか必死にならざるを得ないんだよね。傾向と対策を把握したうえで、そこを補填する工夫を入れていってやっと常人と同じスタートラインなんだよな。

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まあなんつーか、可哀そうな奴なんだよな、ただの。

「無知の知」というか、どうにもならないことって世の中に沢山あって、私が抱えてる問題ってわかりきったしょうがなさなんだよな。

そのしょうがないを本心から受け入れて、元気に生きれりゃ良いけど、フラッシュバックやPTSDはどうしようもないくらい拭えなくて、「しょうがない」に未だに縛られている自分がうんざりするほど嫌だし。

自分でこのレベルなんだから、誰かと関わるのは、有難がって飛びついて期待して「そのレベルでしか話せないか」という絶望感と「一般的にはそれが当然なのに期待してしまった自分への罪悪感」に満たされるんだよな。

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今もレキソタンの5mgを5錠以上は飲んだと思う。処方上限を超えているので立派な過剰摂取ではあるのだけれど、薬関係の致死量も調べた。

救急搬送されたときは、寝不足や鎮痛剤や酒の組み合わせがショック症状を起こしていたと思っている。ベンゾ系は、抗うつ剤等と比べると安全性が高いものの耐性がつきやすく依存性が高いのが難点だよね。

その為に今のほぼ処方量だと何の変化もない私にとって、過剰摂取はある意味では適正量なんじゃないかなと思ったりもする。少なくとも救急搬送されたときみたいなショック症状は出ていない。

まあ脳にダメージは確実に入っているし、健忘とか色々後悔するのはわかりきっているんだけど、それでも死ぬよりかは良いよねって今を凌ぐしかないんだよね。

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君のように何気なく『自由』に僕も飼われたい。

羨ましいって言葉は中学くらいから封印しているけれど、色んなものが見えてくると、どうしても羨ましいとしか思えなくなってしまう。母性とか父性とか喉から手が出るほど欲しかった感情。

親という存在に、自分が子供であることを赦される環境。病んだ人間は特に大人になってもその関係性が崩れる事ってあんまりないんだなって思う。

プライドとか捨てれば別にみんな迎えてくれる場所あるじゃんね。生まれてからずっと存在することを否定されてきた私は、両親ともに揃った状態でその冷静な冷たい感情を突き付けられてきて。

いっそ捨ててくれれば、まだ「もしかしたら事情があって捨てたのかもしれない」という理想や希望や幻想を抱いてこれたのだから、今ほど打ちひしがれてはいなかったと思うよ。ネガティブへの認知の歪みは非生産的だ。

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物質主義で悩みを認識することなく、トロフィーを獲得するゲームに勤しむ人々が時々羨ましいと感じる。

でも自分がそちら側に戻りたいかと言えば、そうは思わないし、そうは思わなくなったこと自体に意味があるのだと思う。だから大事にしていきたいのだけれど、物質主義で塗り固められた固定観念義務教育の世の中では、私みたいな言語化が難しい奴がその必要性を説明するのは難しいよな。

そんな挫折と焦りと色々総合していくと、ああ人間疲れたな、呼吸が苦しいっていう現在。

バリ島のヴィラのプライベートプールで自由に泳ぎたい。こういう馬鹿みたいな病んでる時間を忘れて捨てたい。

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