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洗礼も受けてないのに12月24日深夜にクリスマスミサに参加してみた。

この文章は25歳男性が、12月24日夜にクリスマスミサに参加した模様を、極めて失礼な文体で書き綴ったものである。

この男性はクリスチャンではなく、またクリスチャンになる予定もない。クリスマスミサに参加したこと自体は完全なる「冷やかし」である。

以下、信心深くクリスマスを楽しまれている、すべてみなさんにとって、不快に感じる文章があるだろう。この時点で速やかにブラウザバックすることを推奨する。私は忠告した。

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昨晩は12月24日。めでたいクリスマスイブである。クリスマスとはもともとキリスト教のイエス・キリストの降誕を祝う日である。(ひらたくいえば誕生日パーティだ)

クリスマスは英語で「クリストゥス・ミサ」の略。「Christ(キリスト)+mas(礼拝)」を意味する。クリスマスのことを「Xmas」と表現することがあるが、この「X」とはギリシア語で「Xristos(クリストス)」=「救世主」を意味する単語の頭文字である。

毎年クリスマスの季節が近くなると、竹内まりやは「クリスマスが今年もやってくる」と歌い上げる。

私たちは「素敵なホリデイ」のメロディに合わせて、ケンタッキーフライドチキンを貪り食う。

今の日本社会において、クリスマスの「真正面」の楽しみ方はケーキとチキンとイルミネーションだ。

生来のひねくれ者である、私としてはたまには「裏側」に回ってみるのもいいだろう。

そうして思いついたのが「洗礼も何も受けてないけどクリスマスミサに侵入する」という企画である。

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12月24日。日中の予定(研究)を終え、帰宅した私が気づいたこと、それは「やべえ、予定がない」である。

かと言ってなんとなく部屋で本を読んでいる気にもなれない。ここは前向きにクリスマスを自分なりに楽しんでやろうと思った。

寒い部屋で凍えながらコージーコーナーのモンブランを食べるのでもなく、二つ目のサラダチキンを食べるのでもなく、何かこれまであまりしたことのない過ごし方をしてみようか。

ギャラリーに出かけるのでも、気になるバーに初めて一人で行ってみるのもいいなと思った。でもなんだか気乗りがしない。きっと他の日でもできると思ったからだろう。

それならネタに走ってもいい。クリスマスがキリスト教の儀式なのだから、あえて他の宗教の施設に足を運んでみてはどうか。

そこで日本で最も大きなモスクである「東京ジャーミー」をGoogleで検索してみたが、すでに閉館時間を過ぎていた。

であれば神社仏閣にでも行ってみようかとも思ったが、どうせ来週行くし、暗くて寒くて気が乗らない。

というかクリスマスってそもそもキリスト教のお祭りなんだから、教会に行けばいいじゃないか。そう思った私は「東京   クリスマス 教会」で検索してみた。

すると、12月24日の教会ではクリスマスミサなるイベントをやっているというではないか。これこそ「王道」だ。面白そう。行ってみよう。

ただ検索しながら、ふと気になることがあった。そう私はクリスチャンでないのである。

洗礼も受けてないし、使徒でもない。マリアでもパウロでもないのに、本当にクリスマスミサに行って大丈夫なのだろうか。

確かに普段のミサは信者だけを対象とする教会も多いらしいが、(少なくとも私が訪れることにした教会は)クリスマスミサは、信者でなくとも参加が許されるらしい。これで安心。やっぱり神であろうと誕生日は多くの人にお祝いされたいものなのだ。

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さて、早速出かけることにした。今回訪れたのは「神田カトリック教会」である。1874年に開設された東京の中でも有数の規模と歴史を誇る教会である。

開門は20時。5分前に到着したが、すでに30名ほどの人が並んでいた。どの人が信者でどの人が信者ではないのかはまったくわからない。信仰が私的な領域であることがよくわかる。

それでも本来的なクリスマスに触れているようでなんだか不思議な気分になる。というかそもそも本来のクリスマスってなんだ。

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思い返すと2022年は多くの人が宗教について考え、恐れる一年でもあった。

7月に発生した元首相の銃撃事件の犯人は、カルト的な新興宗教の「宗教二世」であった。事件をきっかけに政治と宗教の関係について、世論やマスコミから統治者に対して厳しい目線が注がれた。

それでもハロウィンやクリスマスといった宗教イベントが生活の中に溶け込む構図自体に変化はなかった。

信仰せずとも、宗教儀礼をイベントとして楽しむ日本社会の特徴はかねてより指摘されていた。

2022年は私たちが「楽しむ宗教」と「怖がる宗教」の間に明確な線を引いていることを知った年でもあった。

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私はミサは初体験である。長崎を観光旅行で訪れたとき、浦上天主堂に足を踏み入れたことはあるが、儀式まで参加したことはない。

教会に入ると正面にイエスをかたどったステンドグラスがある。シンプルに鮮やか。そのステンドグラスの下側には磔にされたイエスの像、宗教的な宝物、蝋燭などが設置されている。

非信者であることに加え、はてしなく俗物的で近代合理主義的な私は、直感的にこの空間に来てはいけなかったのではないかと思った。

宗教は人が静的であることを許す。宗教儀礼を通じて、何かを感じ取ったり、理性を働かせたりするのではなく、ただただ祈る。神に祈る。

そのような空間に存在してよい要素が一切ない。これは困った。ただただ恐縮するばかりである。

ただそのような個人も許してくれるのが神と呼ばれる存在にふさわしいような気もする。

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さて儀式が始まった。入り口で手渡されたパンフレットがミサの工程を教えてくれる。

讃美歌が鳴り響き、何か芳しいお香を炊きながら、聖職者が教会後方より入場してくる。

聖職者の一人が磔にされたキリストの像を持っている。どうもその像の方向に体をむけ、手を合わせるのがルールのようだ。

聖職者の列は後方より入ってくるので、体をぐいと後ろに向けなければいけない。

私は体を動かすタイミングを逸したので、そのまま前方を向いていた。

たくさんの人の目線が怖い。みんなキリストを向いているはずなのに。自意識過剰である。

聖職者の列の最後方に「神父」がいる。(この教会はカトリックなので、断じて「牧師」ではない)

神父がミサのMCであり、メインゲストである。最初に行われるのは聖書から抜粋した箇所の朗読である。

神父が朗読した箇所を、参加者が後について再度読み上げる形式で進む。中学校の英語の授業では存在した「リピートアフターミー」のような掛け声がないので困る。

最後に「アーメン」だけをリピートするパターンもあるので、なかなか展開が読めず反応しづらい。結局ずっと黙っていた。

お誕生日前夜なので、取り上げられた聖書コンテンツの中には「生まれてきてくれてありがとう」的なノリが多いっぽかった。

ただキリスト的には、信仰もない人間に祝うフリをされても心外なはずだ。信者の方へも大変失礼なのでとにかく神妙な心持ちでこの場を観察しようと思った。

一通りの聖書からの抜粋や讃美歌の合唱が終わると、神父からの説教が始まる。聖書の特定の箇所から、神父が感じ取ったことやキリストからのメッセージを伝える部分らしい。

神父「この一年、マスコミからは洗脳に関する否定的な言葉がたくさん投げかけられました」

私「ほう」

ここで他の新興宗教批判が来るのか、もしくはマスコミ批判が来るのか、次の展開が読めない。

神父「では洗脳と信仰の違いはなんでしょうか」

私「そうきたか」

さすが神父様である。議論の立て方が極めて聖職者っぽい。

私の展開予想は情報社会に飲まれた、迷える子羊の発想であり、罪の意識が芽生える。

神父「洗脳と信仰の違いは、実際に信じる深さを体得するまでに時間的な猶予や選択の余地を残しているかだと思うのです」

なるほど、それは確かにそうかもしれないと思った。

神父「キリスト教はその意味において信仰を大切にするのです」

なるほど。世間を賑わす新興宗教から距離を取り、「信仰」の概念によってポジションどりを確保した上で、キリスト教の懐の深さを訴える。まさにマーケティングとして完璧ではないか。

説教が終わると会も終盤である。聖職者から神からのご加護を受けられるボーナスタイムのようだ。

なんと「洗礼を受けていなくても神のご加護を受けられます」とナレーションがかかる。

誕生日だとテンションが割と緩めになってしまうのは神も同じなのかと思いつつ、救済してもらいたいので列に並ぶ。

救済されるための心構えや具体的な身体的ポーズがわからない。そのヒントを得ようと周りをキョロキョロ見渡す。我ながら小心者である。神から「救いようがねえな」との声が聞こえる。

神か神以外か的なノリがたくさんあったが、そんなこんなでクリスマスミサは終了となった。

出口で教会の方々が献金箱を持ちながらお見送りしてくれる。(ボランタリーな献金なので寄付と言った方が正確かもしれない)

なかなか面白かったので、1000円を入れた。献金の相場がわからないので、こんなもんでいいのかなと思って少し怖い。

献金箱をチラ見すると、さすがに100万円の札束がボンボン入ってる状態ではなかった。安心した。

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教会から水道橋の駅の方へ向かい、帰途についた。宗教儀礼の中に信者ではない人間が侵入するという試み。

それは信者の方々の信心を侮辱する危険性を孕んでいる。失礼な言動があったら大変申し訳ない。

しかしそれでも参加してよかったと思う。

「チキン」と「ケーキ」という正面からの楽しみ方ができなかった私に与えられたクリスマス体験は「宗教儀礼の中で圧倒的マイノリティとして過ごす」時間であった。

それはおそらく私が何を信じて生きているのかを問い直す時間でもあっただろう。あの空間ではみなが神の存在を信じ、その降誕を祝っていた。みなが身体の前で十字架を描く時、私はポケットに親指を入れることしかできなかった。

私は神の存在を祝うでもなく、信じるでもなく、ただただその空間への違和を感じていた。

もちろん信者ではないのだから当たり前だ。そう言ってしまえば終わりである。

では神の代わりに私はこの一年、何を信じて生きてきたのだろうか。

金か。友情か。理性か。私自身にとっての「神」とはなんだろうか。これからの人生、私にとって「神」が現れるのだろうか。そもそも「神」がいなければ私は生きていくことができないのだろうか。

クリスマスイブの「裏側」に回った私は、何かを「絶対的に」信じる人たちに囲まれた。(もちろん信仰の深さは個人個人グラデーションがあるだろうが)

信者の方々と自分を比べ、相対的に揺らいだのは自分のアイデンティティであった。自分のありようについて問い直しを迫られた。

しかし、そのような体験をしなければ私たちは「宗教」を自分たちの中で消化し、位置付けることはできないだろう。

個人の不安に寄り添うのが本来的な宗教の意味なのだとしたら、何かしら「宗教的なモノ」を誰しも求めているのだから。

ちょっぴり不思議でちょっぴりに不安な気分になった。そんな夜だった。

完。

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