蜆一郎
僕は学習指導要領をほぼ変える必要がないと思っています. というのは, 高校までの学習というのは, 大学での学び・研究や社会において求められる技術や能力を涵養するための, 極めて基本的な核となる部分であり, そこはいつの時代もゆるぎないと考えるからです. 大学生になって思うことですが, 一般教養レベルの講義を受けるにも, 高校レベルの勉強を理解できていないと話が理解できません. たとえば統計学の基本中の基本である正規分布を表す関数 (ガウス関数) は, 数学 III で学ぶ「自然対数の底 e (ネイピア数)」という数を用いて表されます. これがちゃんと分布である (全空間での定積分が 1 である) ことを理解しようと思えば, 学部 1 回生後期レベルの微積分 (重積分, 極座標変換) が必要になります. 他にも人文系の学問を理解するには, 高校の世界史の知識が普通に要求されます. 学習指導要領との比較対象として適切かは微妙ですが, 大学の数学科のカリキュラムは少なくとも 50 年間はほぼ何も変わっていません. 今のシラバスに戦前や高度経済成長期のテキストが参考文献として載せられることもしばしばあります. この長い間に数学は目覚ましい進展を遂げてきましたし, 新しくわかったことも数多いですが, 学部 4 年間で学ぶことは何も変わっていません. また, 講義を受けて演習問題を解き, セミナーで本を輪読するという学習スタイルもずっと変わっていないはずです. 少なくとも, カリキュラムや指導法に対する革新的な変化は起こっていません. これは数学という科目の特殊性による部分も大きいと思いますが, このような事例も存在します. 僕が問題に感じるのは, 学習指導要領になんでもかんでも詰め込みすぎだということ,「平等」という名目のもとに自由度がほぼなくなってしまっていること, 社会が能力よりも技術を求めすぎていること, この 3 つです. 僕は技術よりも能力を尊重してくれる社会がいいなと思うのですが, 教育は社会で活躍できる人材をつくるためのものという原理に沿い, 技術やスペシャリストを求める世の中において教育はかくあるべきかという視点で話をしたいと思います. 教育の文脈では, 子どもの個性を伸ばす, 多くの可能性を与える, といって明るい未来を目標にすることが多いと思います. そのため, 学習指導要領にもいろいろ多くのことを詰め込んで様々な能力を磨こうとします. しかし, 基盤を担う小学校の先生がそのすべてを指導できるまでの力をつけられないことも多く, すべてが中途半端になっています. 中学校から教科担任制になるのも, 専門的な指導を保証するには高々数科目が限界だからです. そもそも, 基盤の段階でこそ, その後の学習についていけるだけの力をつけることに集中するべきではないでしょうか. そうなると, 本当に基本的な核の部分だけを扱えばよく, いろいろ手を出す必要はないと思います. 男子が技術, 女子が家庭科という区別が時代に合わず, 全員が両方を学ぶべきというのならわかりますが, 英語やプログラミングは果たして本当に全員に必要でしょうか. 社会でスペシャリストが求められる以上, 万能な力を身につける必要はもはやありません. 義務教育というのは, 最大限を伸ばすことではなく, 最低限の底上げをすることだと思います. 全員に課す部分を必要最小限にするとなると, それ以上の部分は各自で補うことになります. ここの自由度がとても低く, 家庭環境に大きく左右されるというのが現状であろうと思います. 塾でもスポーツクラブでも習い事でも, これは学校だけに求めず社会全体となって支援しないといけないことだと考えます. これを学校だけでなんとかしようとすると,「平等」の名目のもとでサポートできる範囲が限られますし, 先生方の負担も著しいものになります. しかしこの大義名分がもはや義務となってしまい, 現場を縛り付けてしまっています. 激動する社会に学校を適応させようとするのではなく, 学校を社会全体の基盤に位置付け, その補足を支援するサービスや福祉を充実させることを考えるべきではないでしょうか. とりあえず確実に言えることは, 学習指導要領をコロコロ変えると, 学校の先生に求められる負担があまりにも大きくなりすぎるということ, そして学校だけになんとかさせようとしすぎだということです. みんなが何かのスペシャリストになれるような仕組みが構築されれば, 社会での棲み分けがうまくいき, 結果として平等に近づくことができるようになるのではないでしょうか.
これだけでかなり長くなってしまったのですが、技術ではなく能力を重視する世の中になったとしても僕は指導要領をコロコロ変える必要がないと思っています。