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ワークショップ第23回『義務教育とは何か その1』【教育研究部】[20220228-0313]

こんにちは。ジェイラボ教育研究部部長のシトです。

今回のWSのテーマは、義務教育とは何かでした。
個人的に教育の様々な問題は義務教育とは何かがはっきりしていないから起きていると感じます。
土台がしっかりしていないのに見た目だけ良くしようとしているようにしか思えません。
そのため、義務教育をしっかりと定義する必要があると考えました。
今回はその導入を行いました。

では、本題に入ります。


今回のテーマ

今回のテーマは「義務教育とは何か」です。実はこういう事をしたかったのですが、自分には怖くて(ほぼ準備するものがないため不安だった。)避けていました。
しかし、これをしなければならないという思いが日に日に増してきたので、今回扱ってみようと思います。WSで扱う予定の内容は以下の通りです。1.教育者、教育者を目指す者の特徴
2.学習指導要領について
3.ふわふわとした教育
4.義務教育とは何か盛り上がりなどで調整しようと考えているので、あくまで予定として挙げておきます。よろしくお願いします。

質問1

1.教育者、教育者を目指す者の特徴私は、教育者(教師)や教師になりたい人たちは、教える教科の楽しさを伝えたい、子供たちが好きだといったようなものばかりを考えているように感じます。
これは、大学で教員をしている元教師や同級生を見ていて日々感じる事です。
考えていることがそういう事なので、彼らの興味は自然といかに授業をうまくやるかに向かっていきます。私が知っている同級生、他大学の教育学部生の中に、教職概論や教育原理や教育課程論などといった、授業法に直接的に関係しない科目に対してしっかりと向き合う人は全然いませんでした。また、これは衝撃的だったんですが、教育課程論で教授が「この授業は模擬授業に直接的に関係しないから、みんな興味ないだろうけど、教職必修だからごめんね。出るとこ教えるから」と言っていました(といいながら結構ハードで厳しかったですがw)。実際の講義自体は別として、意識としてそういうのを先に言うのはやはり興味の方向が授業法に向いているからだと思います。Q.皆さんの教育者(教師)や教師になりたい人たちに対する印象について聞きます。
学校の先生、教育学部に行った友達、教職をとっている同級生、個人的に想像しているもの、何でも構いません。それらから考えて、どういう特徴があると思いますか。よろしくお願いします。

1への返答

にしむらもとい
ちょっと質問がオープンすぎて答えにくい気がしますが大丈夫でしょうか笑 とりあえず先陣を切ってみます。僕の印象では、いまの能力主義的な社会で、他にたくさんの選択肢がある中でわざわざ教育業界を目指す人というのは、以前からずっと言ってますが、基本的に「能力の低い」人というイメージです(SNSだとこんなこと言うと炎上するでしょうか笑)。そうではなくなって欲しいともずっと言ってますので勘違いしないようお願いします。そして、これは教育の本質の話ではなく、あくまで時代的、外的な要因によるものです。
能力の低い人が能力の低い人の教育について考えるといういわばデフレスパイラル。だから目先のことばかりが問題になっている気がしますし、教育界隈というのはとても閉鎖的なコミュニティに感じます。逆に能力の高い人は教育ではなく「受験」という特殊なカテゴリでしか教育に関われていない気がします。もちろん例外的な方はいると思いますが、あくまで一般論としては、能力主義による分断は、教育の現場においてもかなり顕在化しているんじゃないでしょうか。
子供達が好きで教育を目指すのは素晴らしいことだと思いますが、その素晴らしさを担保し続けるためにも、教員の方々には「教育のためだけの教育」ではない、もっと広い視野を持って欲しいと個人的には思います。そうなってきたときに、「授業のやり方だけを追求していれば良いのか」というところに疑問を持つのは当然と僕も思います。もちろん、教員になるなら授業はきちんとできるようになるのが大前提ですが、「語る中身を持たずに語り方ばかり研鑽しても意味がない」という印象です。

Hiroto
「教師という職業へのキラキラワクワク」→「実際の環境での絶望と疲弊」という流れを、腐るほどの教師志望の人間が体験していると思います。
普通の(といってホワイトなものを想像する僕は社会経験が足りていないのかもしれませんが)職場であれば露呈せずに済んだような個々の教師の(悪質な)人間性も、極度の疲弊によって少しずつ露呈してしまう。なんなら人間性が悪質なものへと変容してしまったりもする。そのような印象です。
僕が人間として好きになったことのある教師は、たいてい「タフ」か「脱力系」のどちらかでした。疲弊との付き合い方の巧さが僕からの好感度とどう関係しているのかはわかりませんが、無関係とは思えないな、と感じました。

シト(上への送信)
教師という職業へのキラキラワクワク → 実際の環境での絶望と疲弊 という流れは、多くの教師志望が体験していると僕も思います。
キラキラワクワクしている人は、大抵あこがれの先生がいる場合が多い気がします。
あの先生のようになりたい。そういうことを思って教育学部を目指すのでしょう。
実際、僕のコースにもそういう学生が多いです。
そのタイプの学生は、教職課程で学ぶ授業法などであこがれの先生の否定をされるとムッとなります。
否定と言っても、理論ではこれが正しいという話をしているだけです。
しかし、あこがれの先生という存在が大きいせいか分けて考えることができない印象があります。
個人的に見ていて怖いです。
これも能力が低いというのが関係してそうです。
個々の悪質な人間性が露呈してしまうことや人間性が悪質なものへと向かうのは、疲弊と子供を扱うという特殊な環境がそうせるのかもしれないですね。

蜆一郎
概ね所長と同じ意見です. 幼稚園の頃から「先生」と呼ばれる方々の能力は信用していませんでした (). 学生時代の学力は置いておいても, とにかく理不尽の大波が次々と押し寄せてくる現場にずっといると色々と削られてしまうのだろうなと思います.僕は教職課程を履修していましたが, 学習指導にはてんで興味がない人か, 学習指導に「しか」興味がない人のいずれかが大半だったと思います. おそらく学習と学習以外を明確に分けて考えているのでしょう。教職実践演習という講義で, いろんな科目の人が集まって教職課程のポートフォリオを完成させる取り組みがあり、そこでいろいろ話をしたのですが, 文系科目は前者, 理系科目は後者が多かった印象です (サンプル数 15 ほどなので一般化はできない). ボランティアや地元の子ども会に顔を出している人はかなりいましたが, 塾で指導経験を積んだり自分なりの指導法を研究したりしている人はほぼいませんでした. 京大ですらそんな感じなので, いわんや他の大学をやという感じなのでしょう.基本的に, 自分がいかに指導を通じて気持ち良くなるかということを考えている人が多かった気がします. 子供たちの様子を眺めること, 成長を見守ること, 自分の好きな勉強を教えること, これらにしか意識が向いていないと思えます. これだけ学校の労働環境が劣悪だと言われている中あえて飛び込んでいくのは, よほどの信念や熱意があるか, 自分のやりたいこと以外の業務について何も考えていないかのどちらかなのだろうなと感じます.

シト(上への送信)
僕が高校に入学したと同時に高校の世界史教師として入ってきた人がいました。
彼女は修士課程を出ていて、パワフルで世界史の面白さを教えたい!というタイプでした。
そんな彼女も僕が卒業する時には、変わっていました。
蜆さんの言うように僕もその両者が大半だと思っています。
学習指導とそれ以外の両方を考えているような人は全然いないです。
教職実践演習がこれから待ち受けていると考えるといやな気持ちになります。
いかに自分が気持ちよくなるかという事を考えているというより、結果的に自分が気持ちよくなっている人が多いと思います。
おそらく彼ら自身、自覚はしていないでしょう。
これも学習指導とそれ以外の両方を考えていないからなのだろうと思っています。
子供たちの様子を眺めること, 成長を見守ること, 自分の好きな勉強を教えること、という自分が好きなことばかり考えていることに気づいていない。
それもあり、それ以外の雑務の存在を知りつつも軽く考え、また好きなことを考えてしまうのでしょう。
そして、こんなはずではなかったとなり、やめるなり愚痴をこぼすのでしょう。

こがてゃ
高校時代の同級生や後輩で、教育大学に進学して教員になった人が数人います。連絡をとっていないため今どうしているかは不明ですが、高校の成績はそこまでよくはなかったと思います。また、塾や予備校の講師を務めている先輩もいます。その人は、私立高校の採用に漏れたからという講師になったという消極的な理由だったと記憶しています。帰省した際には教育に関する話を長くしてくれたため、能力が低いかどうかは別として意欲はあると思います。
幼稚園や保育園の先生は、小中学校の先生と比較したときに子どもが好きな割合が多い印象はあります。資格を得たいという実利的な動機もあると思います。地元には保育士をしている同期がいますが、子どもとのかかわりは大変ではあるものの楽しそうです。一方で、後輩保育士への指導についてはストレスがありそうでした(非大卒の後輩がレポートがきちんと書けなくて困る、とか)。
大学以降の知り合いで教育関係にすすんだ人は、意欲があってその道を選んだように思うため、自分が気持ちよくなりたい人だとか人間的に悪質のような印象は持っていません。幼稚園等も含めて先生たちの労働環境がよくないことは、大学受験を考えるころにはなんとなくわかるため、能力のある人はよりよい労働条件を求めて教育大学以外を目指したり、就活で先生を目指さないことは多いと思います。学部の同期で教職をとっていた人もいましたが、保険としてとっていた程度で結局教育業界にはすすんでいません。
よく「先生は『社会・世間』を知らない」と言われます。ずっと地方公立に通っていた私からみると、子どもの構成はその地域の縮図だったため子どもは「社会」を経験しているといえます。しかし、先生であっても友人との会話などで、もっと広い範囲の「社会」に触れる機会はいくらでもあるように思います。第三者からみて教育業界はどのような印象を持たれているのか、どれくらい環境が過酷なのか?それでも「社会を知らない」と言われるのは、教員が本当に外部に興味がないのか、改善する気がないのか、そういった傾向があることを示唆しているのかもしれません。

シト(上への送信)
なりたての頃はほとんどの人に意欲があるでしょう。
それが続けば、たとえ最初の能力が低くても時間がたつにつれて実力はついていくでしょう。
そこまで時間をかけられるかは別としてですが。
労働環境の悪さによって、そのような人たちは徐々に削られ意欲がなくなっていくのでしょう。
学校は社会の縮図といわれるのもあって、子供は社会を経験していると僕も思います。
先生に関しては、社会との接点を持とうとしないというより、持てないのではないかと考えています。
子供を扱う時間が多いため、通常の社会人の感覚とは違うものになると考えられます。
最初からうまく付き合えていればいいと思いますが、始めて2年ほどはいろいろと大変であるため難しいと思います。
そして、落ち着いたころにはもう遅いのかもしれません。
あと教員に社会常識が必要なのかもなやましいです。
管理職などの教員には必要だと思います。
しかし、下っ端の教員の仕事は雑務を除いた場合、子供にものを教える事です。
彼らのやらないといけないことはそれのはずです。
社会常識はあればいいですがないといけないものではなく、まずやるべきことはやらないといけないことだと思います。
今の社会は教育に多くのものを求めすぎていると感じます。
社会の要請で教育は変わる必要があるのはそう思うのですが、しつけまでも任せられるのはやりすぎだと思います。
社会常識に関してもその流れの一部のような気がします。
これは義務教育とは何か、高校教育とは何かをしっかり定義するまでは、社会常識が必要なのか、そして必要だった場合、どの程度必要なのかがはっきりと決められないので、これからちゃんと答えらるよう頑張ろうと思います。

Naoki
小学校、中学校、高校ともに公立の学校に通っていたので、中高一貫校や私立の学校だとちょっと違ってくるかもしれませんが、小・中学校では学級運営や行事を重視していた先生が多く、高校では教科の内容を教えることに特化した先生が多いという印象があります。教育原理や教育課程について考えている先生がいたかはわかりませんが、いたとしても仕事が忙しすぎて考えている余裕がないというのが実情な気がします。

シト(上への送信)
小学校は学級担任なのもあって、教科指導よりも学級運営や行事に力をいれる人が多いイメージがあります。
子供が好きでなる人が多いのもあるでしょう。
中学に関しては、中学から教科担任制になるので、小学校と比べると教科指導よりの人が多いです。
しかし、高校と違って自身の業績に生徒の受験結果が入ってこないので、高校と違ってそこまでではないのでしょう。
高校はというと、受験結果は業績に入ります(これに関してはおかしいなと思いますが、それは今は置いておきます。)。
そのため、高校は教科指導に力を入れている人が多いです。
最初は意欲が高いのでしょうが、仕事の忙しさによって徐々に削られてしまうのでしょう。
そして、目の前のもので手がいっぱいになり考える時間がなくなってしまう気がします。

Bungeee
私の先生の印象
私が学生の頃に習った先生方は、どの先生もみんないい先生でした。
真剣に怒ってくれた小学校の先生、私が背が高いのをコンプレックスに思っていたのを何かと気にかけてくれた高身長の女の先生、化学と全然関係ないけれど今思えば生きる上で大切なことをたくさん話してくれた化学の先生など、話しだせばきりがありません。
教師になりたい人の印象
教師になりたい人については、周りにいなかったので、わからないです。大学の学科でも、教職課程を取っている人はほんの数人でした。
大人になってから出会った「教師」の印象
教師の方は、異業種との関わりをあまりとりたがらない印象はあります。教師の友人は何人かいますが、話を聞いていると、いわゆる「一般企業の世界」と大分違うなあと感じています。
あとは、偏見かもしれませんが、未来志向とか目標志向の人は少ないかもしれません。

シト(上への送信)
僕の場合、いい先生だなとあとから思った方は2人しかいません。愛のある叱りをしてくれた人達です。
さまざまな先生に恵まれていたのはうらやましいと思います。他学部から教職課程をとるのは、非常に忙しいのでそんなに多くないと思います。取っていても保険として取っておく意味合いが強いと思います。利益を追求することがないのが結構影響してそうだなと感じています。社会常識の教育がされないのもあると思いますが。
未来志向の人は少ないと思います。目の前の問題に集中してしまうからでしょう。
目標志向に関してはどうなのでしょう。学習指導案やら年間計画やらを考えるときに目標志向は必要であるため、出来てはいると考えています。もしかしたら、形式的に必要であるためできているだけで、それを日常にも活用する程には身に付けていないのかもしれないです。

コバ
Q.皆さんの教育者(教師)や教師になりたい人たちに対する印象について聞きます。
学校の先生、教育学部に行った友達、教職をとっている同級生、個人的に想像しているもの、何でも構いません。A.今まで出会ってきた先生の中で、良い印象がある人はほぼいません。
私自身小学生の時点で「学校の先生」という存在があてにならないというのを実感しており、小学生の時から今まで「学校の先生」に対してなんの期待もしてないので、そもそも失望とかもないです。特に積極的にはコミュニケーションを取りたいとも思いません。
なので好きでも嫌いでもない、というのが正直な印象です。2~3人「この人面白いな〜」という先生もいましたが、その先生方は他の先生方の人間関係や保護者との関係でどこか働きづらそうにしていました。
恐らく私が人とは少し感じ方が違う部分があるので、「少し変わった先生」が好きなんだと思います。
しかしその「少し変わった先生」は今の学校社会では働きにくいんだろうなと思います。

シト(上への送信)
読書をしたいのに無理やり校庭で遊ばせられたり、いじめられているのに何もしてくれなかったということがあり、それが原因で教師があてにならないと小学生の頃から思っていました。
コバさんが、先生があてにならないと実感した原因は、どのようなものなのか個人的に気になります。
少し変わった教育学部生の僕(まわりの教育学部生や教職をとっている学生を見て、考えていることが違う事ばかりなので、最近では自分を教育学部内では変わっている人間だと認識し始めました)ですら、教育学部の中はきついなと感じます。
こんな気持ちを抱きながら先生やってる人はすごいなと思います。

コバ(上への送信)
抽象化すると結局のところ、この人たち(先生方)がやっていることは人間関係の調整であって、問題の根本的な解決を目指したり、そもそも問題の本質を探ろうともしてないなと感じたことが先生があてにならないと実感した原因ですね。

質問2

シト
次の話題に入ります(適宜返していきます。すみません。)。
話は少し変わり、学習指導要領について扱います。
新学習指導要領が今年から高校に導入されます。ちなみに小学校には2020年に、中学校には2021年に導入されています。
これにより、教科書が新しくなり授業方法や評価方法等が変わります。
ここまでは問題がないと思います。
なぜならば、教育は世界や社会の変化に対応するために変化していくからです。
今の世界や社会と比較し、足りないものを補っていきます。
その変化をしっかりと機能させるために授業法は変化し、その方法がどれほど適切かを測るため評価法は変化します。
以前なにかの話し合いで、学習指導要領が変わることに問題を感じている人が多かった印象があります。
僕は上記に書いているように変わること自体に問題は感じていません。
これは英語という科目が関係しています。
ここでは、効率とコミュニケーションの話をします。
まず、効率についてです。
コミュニケーションがさらに重視される(話すこと(やり取り)、話すこと(発表))ことになりますが、読む力と聞く力、話す力と書く力はつながっていることが第二言語習得研究によって分かっています。
そのため、個人的には、変な方向に言っているように見えて実は効率が良くなっているため、問題だとは思いません。
次にコミュニケーションについてです。
中学英語では、仮定法が学習範囲になりました。
これにより、コミュニケーションに必要な文法知識がほぼ扱われることになります。
これからの時代を考えたときに、外国語によるコミュニケーション能力は、生涯にわたる様々な場面で必要とされることが想定されます。
これからの国を担う子供たちにその必要な能力を習得してもらうのは大切なことであり、今回の変更はそれに大きく貢献していると思います。
学習指導要領が変わることに問題を感じるのは、変更の幅に問題があるからなのではないかと思います。
英語の場合は、文法範囲の変更点はほんの少しですし、やること自体は正直そこまで変わらないと感じるため、変更の幅があまりあるように思えません。
しかし、数学の場合は変更で単元がコロコロ変わるらしいので、変更の幅があると感じます。
学習指導要領は約十年で更新されます。
その間の社会の変化がそこまでの変更を要請するとは思えません。
ほとんどの範囲が動かず、社会の変化によって料理の仕方が変更されるのが健全だと思います。

Q.みなさんは、学習指導要領が変わることに問題を感じますか。また、問題だと感じる場合、それはどこからきていると思いますか。

2への返答

蜆一郎
僕は学習指導要領をほぼ変える必要がないと思っています. というのは, 高校までの学習というのは, 大学での学び・研究や社会において求められる技術や能力を涵養するための, 極めて基本的な核となる部分であり, そこはいつの時代もゆるぎないと考えるからです. 大学生になって思うことですが, 一般教養レベルの講義を受けるにも, 高校レベルの勉強を理解できていないと話が理解できません. たとえば統計学の基本中の基本である正規分布を表す関数 (ガウス関数) は, 数学 III で学ぶ「自然対数の底 e (ネイピア数)」という数を用いて表されます. これがちゃんと分布である (全空間での定積分が 1 である) ことを理解しようと思えば, 学部 1 回生後期レベルの微積分 (重積分, 極座標変換) が必要になります. 他にも人文系の学問を理解するには, 高校の世界史の知識が普通に要求されます. 学習指導要領との比較対象として適切かは微妙ですが, 大学の数学科のカリキュラムは少なくとも 50 年間はほぼ何も変わっていません. 今のシラバスに戦前や高度経済成長期のテキストが参考文献として載せられることもしばしばあります. この長い間に数学は目覚ましい進展を遂げてきましたし, 新しくわかったことも数多いですが, 学部 4 年間で学ぶことは何も変わっていません. また, 講義を受けて演習問題を解き, セミナーで本を輪読するという学習スタイルもずっと変わっていないはずです. 少なくとも, カリキュラムや指導法に対する革新的な変化は起こっていません. これは数学という科目の特殊性による部分も大きいと思いますが, このような事例も存在します. 僕が問題に感じるのは, 学習指導要領になんでもかんでも詰め込みすぎだということ,「平等」という名目のもとに自由度がほぼなくなってしまっていること, 社会が能力よりも技術を求めすぎていること, この 3 つです. 僕は技術よりも能力を尊重してくれる社会がいいなと思うのですが, 教育は社会で活躍できる人材をつくるためのものという原理に沿い, 技術やスペシャリストを求める世の中において教育はかくあるべきかという視点で話をしたいと思います. 教育の文脈では, 子どもの個性を伸ばす, 多くの可能性を与える, といって明るい未来を目標にすることが多いと思います. そのため, 学習指導要領にもいろいろ多くのことを詰め込んで様々な能力を磨こうとします. しかし, 基盤を担う小学校の先生がそのすべてを指導できるまでの力をつけられないことも多く, すべてが中途半端になっています. 中学校から教科担任制になるのも, 専門的な指導を保証するには高々数科目が限界だからです. そもそも, 基盤の段階でこそ, その後の学習についていけるだけの力をつけることに集中するべきではないでしょうか. そうなると, 本当に基本的な核の部分だけを扱えばよく, いろいろ手を出す必要はないと思います. 男子が技術, 女子が家庭科という区別が時代に合わず, 全員が両方を学ぶべきというのならわかりますが, 英語やプログラミングは果たして本当に全員に必要でしょうか. 社会でスペシャリストが求められる以上, 万能な力を身につける必要はもはやありません. 義務教育というのは, 最大限を伸ばすことではなく, 最低限の底上げをすることだと思います. 全員に課す部分を必要最小限にするとなると, それ以上の部分は各自で補うことになります. ここの自由度がとても低く, 家庭環境に大きく左右されるというのが現状であろうと思います. 塾でもスポーツクラブでも習い事でも, これは学校だけに求めず社会全体となって支援しないといけないことだと考えます. これを学校だけでなんとかしようとすると,「平等」の名目のもとでサポートできる範囲が限られますし, 先生方の負担も著しいものになります. しかしこの大義名分がもはや義務となってしまい, 現場を縛り付けてしまっています. 激動する社会に学校を適応させようとするのではなく, 学校を社会全体の基盤に位置付け, その補足を支援するサービスや福祉を充実させることを考えるべきではないでしょうか. とりあえず確実に言えることは, 学習指導要領をコロコロ変えると, 学校の先生に求められる負担があまりにも大きくなりすぎるということ, そして学校だけになんとかさせようとしすぎだということです. みんなが何かのスペシャリストになれるような仕組みが構築されれば, 社会での棲み分けがうまくいき, 結果として平等に近づくことができるようになるのではないでしょうか.
これだけでかなり長くなってしまったのですが、技術ではなく能力を重視する世の中になったとしても僕は指導要領をコロコロ変える必要がないと思っています。

シト(上への送信)
高校までの学習というのは、大学での学び・研究や社会において求められる技術や能力を涵養するための、きわめて基本的な核となる部分であるのは僕もそう思います。
では、義務教育と高校をしっかりと分けて考えた場合はどうでしょうか。
全体で見た場合、たしかに上記のようになると思います。
義務教育で受ける教育の範囲は、国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎部分です。
国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質です。
この中では、大学への接続は意識されていません。
そのため、高校が大学への接続を意識しているものとなります。
現実として、高校はすでに義務教育のようなものになっています。
そのせいで、社会に要請される変更が高校にまで影響しているのではと思っています。
学習指導要領について僕が英語という科目からさばいたものを見ると、言っていることが違うのでは?と思われるかもしれません。
実は、高校でコミュニケーション重視というのは単体では意味が分からないと思っています。
習得を考えた場合効率がいいと考えられるので、問題だとしなかっただけで、大学では何が求められているのかを考えるとそこまでいらないのでは?と感じます。
高校では、もっとライティングに力を入れたり、リーディングに力をいれてほしいと感じます。日本の義務教育は日本全国どこに行っても同レベルのものを提供できるという全体の底上げを目指していました。
それはもう達成され、次の段階に進むために今のような流れになっている気がします。
そこで、個性やら可能性やらという話が湧き出てきたのでしょう。
これは基盤がしっかりできているからこそ考えられることであって、メインで考える事ではないはずです。
そして今は、基盤あっての個性や可能性がメインとして考えられ、教育で話題になるのはそのような話ばかりになってしまいました。社会の変動に学校自体を適応させるのではなく、基盤として配置し、その周辺をサービスや福祉で囲うのは、教育が原点に返るようで面白いです。
ここで問題となるのは、どう導入するかだと思います。そして、そのやり方は、義務教育と高校教育で違ったものになりそうです。
義務教育段階で導入する場合、2つのことが必要だと思います。
1つ目は、国が介入することです(どれほどなどは義務教育の定義しだいなので、まだ分からないです。)。
今話題のICT教育での現状からも分かるように、民間が安易に入ってくると変なことになるからです。
これは怖いもので、日本はアメリカの教育を追いかける傾向があるので、アメリカのように教育に企業が安易に参入し、ぐちゃぐちゃになる可能性があります。
これは具体的な事例があるためどうにかして避けてほしいです。
2つ目は、その基盤と言われる範囲をしっかりと身に付けているかの証明をすることです。
基盤あってのプラスαである以上、徹底してやらないといけないのは基盤の範囲内のことです。
基盤ができていない状態で多様化を図ると今の状態と同じようなことになります。
それでは意味がないので、基盤が身についているかを測るものが必要になるでしょう。
高校教育で導入する場合はある程度自由だと思います。
高校は大学への接続を意識していると書きましたが、それは文脈ではそうだと書いたため、全てがそうであるとは思っていません。
高校には、様々なレベルがあります。
大学への接続を意識した高校もあれば、そうではない高校もあります。
その高校それぞれに合わせて、導入していいのではないかと思っています。全然関係ない話ですが、思い出したのでちょっと書いてみます。
体育教師になりたいと考える人には部活をやりたいからという人が多いとよく言われます。
教育学でも体育教師が部活をやるのを肯定し、理由を挙げていた記憶があります。
ブラック部活がよく話題にされるのもあり、上記のようにサービスや福祉で周辺を囲んだ場合、真っ先に導入されるでしょう。
その場合、体育教師が急激に減りそうだなとふと思いました。

マッキー
マネジメントの問題は分かりません。
ただ、一般論としては変えても変えなくても大した違いはないだろうとの立場です。そもそも高校教育のカバレッジは対象生徒の知的分散に対して広すぎると思います。
有閑階級の嗜好品だった時代ならいざ知らず、行かなければ社会的に落伍者の印を押される現代、半ば“義務教育”と化した高校教育に高度なリベラルアーツを機能させるのは無理だし、専門教育に比重を置くことは知的水準の高い生徒にとっては非効率となりかねないんじゃないでしょうか。
正直、賢い生徒はどんな科目からでも基礎力を積めますし、逆も然りという経験則はあります。
フランスのようなエリート教育が是とは思いませんが、ドイツのギムナジウムに近い分化は必要な社会構造になったと僕は思います。それぞれの知的水準や学びの将来的な目的性があまりに混在している現状、実施要領の都度都度の改訂の現実的意味はほぼ無いんじゃないか、との意見でした。ちなみに個別論点のみでいえば、今回の仮定法導入は“まあ良いんじゃない?”とは思います。

シト(上への送信)
義務教育と高校教育の違いがあいまいになり、半ば義務教育化しているせいで義務教育の平等が高校教育に降りかかっていると思っています。
義務教育の平等から解放された高校教育では、分化ができると思います。
学校のレベル(偏差値としておきます)で段階別に学習指導要領をつくることなどできそうです。
このような段階別に分けた場合、改訂に現実的意味がありそうな気がします。

ゆーろっぷ
学習指導要領の変化について
時代の趨勢に応じて一定の変化はあっても良いのかもしれませんが、正直現状は表面的なものに終始しているような印象で、それならいっそ変えないほうが良いと思います。上辺だけの変化は、教育現場の混乱を助長するだけだと感じるからです。例えば(大学の話になってしまいますが)僕の母親は大学で教員をしているのですが、文科省から授業回数云々のお達しが来て、授業のスケジュール変更をしなければならず負担になったと話していました。授業が多くなった分、休みが短くなったりしているので、学生にも負担をかけたようです。形式的な授業回数の変更だけでもこれなので、指導内容をいじられることは、教員と学生双方にとって不必要な心配事を増やすだけのように思われます。また、(多くの国立大学が文科省のお達しを無視するように)中高一貫の進学校などは指導要領の変更などお構いなしに独自の進度で授業を進めるでしょうから、進学校の生徒とそうでない生徒の格差のようなものも広がってしまう気もしています。
変えるなら指導要領だけではなく入試も同時に変える必要があると感じていますが、入試改革も(センター試験から共通テストへの変更に代表されるような)単なる問題形式の変更がメインになってしまっているので、現状だと本当に何も変わらない気がしてなりません。

シト(上への送信)
前提条件を吹っ飛ばして、表面的なものだけ変更している感は僕も持っています。
学習指導要領を改定しなければ、教育が遅れてしまうなどと言われそうですが、それは答申(文部科学省に設置されている教育に関する有識者のグループである中央審議会が、出す改善点や必要な方策をまとめたもの。これを基に学習指導要領が改訂される。)の段階で終わらせていいではないかと思います。入試が指導や学習に影響を及ぼすことを波及効果と言います。
例えば、センターにリスニングが入ったとき、授業でリスニングに力を入れ始めたなどと言った話があります。
テストは教育上避けられないものであるため、テストが変われば指導法は変わります。
といっても、書いてある通りテストは形式変更ばかりで根本にかかわることは変更されません。
そのため、指導法も表面的に変更されるだけになります。

こがてゃ
行政も民間も同じでしょうが、意思決定者と現場担当者には共通部分がほとんどなく、分断があると思います。私は現在持株親会社(ホールディングス)にてインターンシップ活動しておりますが、HDでの細かな制度設計については現場の考え方とずれていて、人事ムラ、経営ムラ等の村社会のような印象を受けています。
学習指導要領は意味のある変更なら変更してもいいですが、実際は変えることが前提になっていて、変える理由や内容が後付けになっているのではないかと懸念しています。大学での薬剤師教育は、基礎科目をあまり変えることなく、実習を含めた臨床関連科目を追加するため学部課程が4年から6年にのびました(修士とほぼ同等の扱いがされます)。これは、大学が最後の教育機関だから2年も延長できたのであって、高校までの6-3-3年制に手を加えることができない(面倒くさい)から、かわりに学習指導要領をこねくり回しているのかなと思っています。
時代に合わせて学習指導要領を改善するというのが、文部科学省の論理なのかもしれません。しかし、学校や塾・予備校での科目の習得が人間のその先を決めるのかには懐疑的です。私の知り合いはふつうの高卒・大卒でアーティストになる人がそれなりにおり、多数派のレールからは外れた人が多いです。彼らの生き方には、学習指導要領はほとんど関係していないと思われます。学習指導要領の策定に携わるような官僚、大学教員らのような教科書的なエリート街道まっしぐらだった人のアイデアは、自分たち教科書的エリートの再生産にしか寄与しないと思います。
現場の先生たちは学習指導要領に従わざるをえないでしょうが、生徒がそういう枠に収まらない進路も選べるような指導をすることの方が、生徒にとってはありがたいかもしれません(自分が生徒ならその方がいいです)。

シト(上への送信)
現場の人との分断はあると僕も思います。
現場の人は目の前のやらなければならないことが多すぎるため、そこにしか集中しません。
そして、これからの教育を考える人たちは、これからの時代の流れや世界から見た日本についてばかり考えている気がします。
ここまでは、まだ問題はないと思っています。
なぜなら、これからの教育を考える人たちが出すものは、答申という学習指導要領の基になるものだからです。
では何が問題か。
それは、現場と未来予想図をつなげる人たちが、現実をよく見ることができていないことかと思います。
現実に何かをするためには、理想を詰め込んだものが必要だと思います。
その考えで、僕は義務教育を定義しようと考えています。
そもそもどういうものかを理想的に突き詰めてから、現実にそれを出来るだけ反映させるかを考えることが必要だと感じます。学習指導要領が、変える事が前提となっていて、理由や内容が後付けになっているという事は、考えたことがなかったので面白いなと思いました。学習指導要領を全体的に見ると大学への接続を前提としたものだと感じます。
その枠組みの中での自ら選択肢を選べるようにと教育を行うので、再生産に寄与するというのはわかります。
しかし、枠組みで縛ることで、自分のことが分かることはあると思います。
そのため、枠組み自体が悪いのではなく、枠組み外の選択も選べるように助言することができないことが問題のでしょう。
これは、教師が社会と接点を持とうとしないことと繋がりそうです。
教師がやらなければならないことは勉強を教えることだと思うので、そのようなことはそれができてからの話になります。
そうなると、先生に枠組み外の事を求めるのではなく、そのようなことを相談できる場を利用しやすく設けることが必要になるかもしれません。
もちろん、それを導入するには、先生の協力が必要です。
なぜなら、先生が一番生徒を見ているからです。
授業でも生徒の反応を見ながら、理解度を図るよう努めたりします。
その過程で、何か気づいたことがあれば、生徒に話しかけるなどして相談できる場に行かせるなどできそうです。

コバ
Q.みなさんは、学習指導要領が変わることに問題を感じますか。また、問題だと感じる場合、それはどこからきていると思いますか。A.問題は感じませんが、そもそも変える必要もないと思います。というのも、今まで出会ってきた先生方から学習指導要領、つまり教育への取り組みの核となる共通の理念、基準を教育を受ける立場だった「私」は微塵も感じたことがないからです。もちろん個別の先生ごとに教育に対するポリシーみたいなものはあるのでしょうし、実際個別の先生ごとにそのポリシーのようなものは感じることはありました。(そのポリシーが良い悪いは別として)
しかしそれはあくまで個人レベルの話で、根っこの部分にそもそもの教育に対するつまり教育への取り組みの核となる共通の理念、基準(学習指導要領)は全く浸透してないように感じました。なので全く浸透していないので、そもそも変えても変えなくてもどっちでも良いと思います。
もちろん常軌を逸するような改悪は避けるべきだとは思いますが。

シト(上への送信)
教育の核となる部分が定まっていないため、そのように感じるのでしょう。
根本が出来上がっていないのに、表面だけの中身のない変更をしても意味がないという事ですね。先生ことのポリシーというのが個人的には怖いです。
もちろん教育の核が定まっていないのがすべて悪いのですが。
核が定まっていない為、前提にあるべきものを考えずにポリシーを作り上げてしまう恐れがあります。
教師になる人は、教える教科の楽しさを伝えたい、子供たちが好きだといったようなものばかりを考えている傾向があると個人的に思います。
その彼らがポリシーを各自で作るとなると、さらに核から離れてしまうのではないかと思うため怖いなと感じます。

質問3

シト
もともと用意していたものは、またの機会に活用します。
ここでは、学習指導要領が変わることの派生として、指導法について聞こうと思います。

Q3. 指導要領に基づいて、教職課程だと、指導法が変わっていきます。授業法に意識が向かい、授業法をどんどん変えてアップデートしなければなりません。そして、その流れに現場の先生も巻き込まれ、彼らにも求められます。このことに対してどう思いますか。*授業法=指導法 & 形式(ICTを活用した授業)という事とします。

3への返答

蜆一郎
教職課程を履修していると「学習指導案」なるものを作成する機会に恵まれます. これは授業の台本のようなもので, 導入や解説などの流れを事前にまとめた書類を指します.「○○してもらうという依頼形ではなく〇〇させるという命令形で書く」「想定される生徒の反応を可能な限り予想し明文化しておく」といったルールもあります (指導教官にもよる). 教科教育法の講義では, 可能な限りグループワークを盛り込み ICT を駆使した授業を設計することが理想とされていました. また, 教育実習生や 1 年目の先生には, 毎回の授業の指導案を作成して, 指導教官に意見を伺うことが義務付けられている場合も多いです. このように, 教職課程では指導法がかなり重視されています.

当然事前準備は大事ですが, 個人的には, 学習指導案に課される形式や文化がどうも納得いきません. まるで「生徒の理解は教員の指導によってコントロールできる」と言わんばかりで,「理解」というものをあまりにも軽く考えすぎだと感じます. 表情や態度には出さずとも頭の中でぐるぐる思考を巡らせている生徒もいるかもしれないし, ウンウン頷いているだけで何もわかっていない生徒もいるかもしれません. 勝手な感覚ですが, 授業の形式にこだわりすぎて, 肝心の中身や達成度についての意識が軽薄になっているケースがほとんどであるように思えます.

なぜこんなにも形式が重視されるのかと考えたとき, 教育の平等性が最優先に考えられるからだと思いました. 本来, 授業の中身や達成度を向上させるための指導法や手段であるのに, 中身や達成度を一定にしようとするため, 手段もまた均質化されてしまうのです. たとえば近年よく取り上げられる「反転授業」という方法について考えてみます. 簡単に説明すると, 従来型の「講義 (先生) ⇒ 宿題・復習 (生徒)」という流れを``反転''させ「予習 (生徒) ⇒ 講義 (先生)」という順番にすることにより, 次のようなメリットが生まれると期待されています.
 ・先生は事前知識を要求でき, 生徒は不明点のみに集中できる (両者の負担が減らせる).
 ・授業をアウトプットの場にできるため, 生徒の理解度を把握しやすくなる.
 ・一方的に先生がインプットさせる単調な授業ではなくなる.
 ・予習としてビデオ講義を準備することで, 生徒が繰り返し学習できる.
 ・先生が事前準備を入念に行うため, 授業の見通しがよくなり, 講義のスキルが磨かれる
この手法により学習「効率」はとても高まると思います. 教育界の流れとして, 生徒 1 人 1 人にタブレット端末を準備し, オンライン授業や ICT を活用した学びを用意するという「GIGA スクール構想」が掲げられており, 佐賀県の武雄市の小中学校ではこのような授業形式が実際に採用されてもいます. 一方,
 ・IT 環境の整備が十分整わない (地域や家庭による差が生まれる).
 ・保護者による学習のサポートが必須となる (家庭による差が生まれる).
 ・先生に予習をする余裕がない (教員の能力や労働環境による差が生まれる).
 ・生徒に予習を徹底させられない (生徒のモチベーションによる差が生まれる).
といったデメリットもあります. デメリットがあるから反転授業が悪いというのではなく, どんなやり方をしても問題点はあるし, 合わない生徒だっています. たとえば, 進学校では明らかに反転授業が効果的だと思いますが, その辺の公立中学の現状では反転授業が成立するとはとても思えません. たとえば僕のように好き勝手自習させてほしいというやつだっています. 1 つの方針 1 つの形式だけですべてを賄おうとするから変なことになる気がしてなりません. お金をかける以上は効果を出してほしいし大いに活用してほしいという事情はとてもよくわかりますが, 使わなくてもいいけど使いたい人にはサポートするよという環境が理想的だとも思います.
実際には, 何年もプリントを使いまわしたり, 入試問題に興味も示さなかったり, 指導法のアップデートを図ろうとする気がなかったり, そんな先生がたくさんいます. 頑張ったからと言って見返りがあるわけもないので, そういう先生が現れるのもやむを得ないと思います. そのような状況の尻を叩くことが目的なのだと思いますが, 自発的にやっている人たちがかわいそうでもあります. 先生による差をなくしたいのはわかりますし, 意欲の低い人を淘汰する余裕がないというのもわかります. 苦肉の策であるのでしょうが‥.

シト(上への送信)
学習指導案のルールは僕のところもそのような感じです。
グループワークは出来るだけ入れたほうがいいというのは前々から言われているのは知っていますが、ICTもシジミさんの時から言われていたんですね。
今年度から教育学部に入る人(教職課程はしりません)はICT活用の講義が必修となるらしく、必要という割には遅すぎるのでは?と思いました。
講義があるだけまし状態になるだけだと思いますが…。
教育史や評価法についての講義が必修でないのも指導法が重視されすぎている事を意味しているなと感じます。学習指導案に課される形式や文化は僕も好きではないです。
英語科の領域別目標が一番きもちわるいです。
~ができるという書き方に非常に抵抗があります。
英語科教育法において生徒の理解度を授業中に測るやり方は2つあります。
1つ目は、授業で自身がしゃべっている時に生徒を見渡して表情から測るというやり方です。
2つ目は、生徒に読ませたりグループワークさせている時に巡回し、発言の仕方から測るというやり方です。
授業後であれば、授業の締めに理解度チェックの小テストをおこなうとういうやり方はあります。
といっても、これは模擬授業では練習できないのと、実際に授業することになる実習ではそれどころではないので、形式にこだわってしまうでしょう。
また、上記に書いているように、評価法を受けないでも済むため軽く見てしまう可能性も高いなと思います。平等を重視する癖に、教育の法則化運動には反対という人が多いのは非常に面白いことだなと思います。
反転授業については、反転授業で効率化を図るのはいいとして、それしか考えていないことが問題だと思っています。
結局は、指導法が重視されすぎているからというところに行きつきます。
効率的になれば、人と人が接するという時間は増えます。
そこでどうするかを考えていない人が多いように感じます。
そこを考えれば、合わない子や問題に対処できるような活動は出来るのではないかと考えます。

コバ
アップデート=良くなる ということですよね。授業法が良くなるのは良いことだと思います。
が、言うは易く行うは難しで、そもそも何をもって良い授業法とするかはかなり難しい問題であると思います。
定量化も難しいでしょうし、ただ「アップデートしろ、アップデートしろ」とケツを叩くだけだと先生方が可哀想な気もします。そうは言っても私も小中高と授業を受けてきて、授業が上手いと思った先生は片手で数えられるほどしかいなかったので、アップデートしてほしいというのは確かにそうです。

シト(上への送信)
今だと、どれくらい生徒に分かりやすく伝えることができるかが良い授業ということになると思います。
といっても具体的にはないので難しいです。
現実問題、教科教育法の担当教員の感覚で学生は評価され、修正していっています。教育を定義してそれを基に現実にどれほど反映できるかが、本来のいい授業だと僕は思っています。
その目標を達成するために手段を工夫するのが教師のやるべきことだと考えています。
その手段の一つとして分かりやすくなどは入ってくるでしょう。

最後に

今回は導入をしたので、次回は義務教育をしっかりと定めていきたいと思います。

教育研究部が予定しているこれからの活動は以下の通りです。
・義務教育を定める。
・高校教育を定める。
・義務教育関連でよく出る話題を義務教育の定義からさばいていく(さばきながら定義を修正する)。
・高校教育関連でよく出る話題を高校教育の定義からさばいていく(さばきながら定義を修正する)。

これからもよろしくお願いします。
また次のWSで会いましょう。


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