村井実『「善さ」の構造』を読んで 序

今回この本を読んだのは、自分の研究テーマを見つけるために参考として挙がったからだ。
そのため、読み進めて気になったところなどを挙げていく。

序 「善さ」か「快さ」か ーとりちがえ社会の危機ー


ちょっとした考えちがい

ここでは、みんなが善いと思ってやったことが、ちょっとした考え違いでとんでもない悪い結果になった例として、南アメリカで起きたバス乗客者全員死亡事件が挙げられている。

教育がいい例

みんなが善いと思ってやっていることが、実はとんでもない悪い結果を引き起こすかもしれないいい例として、教育が挙げられている。親は子を、国は国を教育を通してよくしていこうとしている。教育研究部でも、教育は国が行っているということをよく言っている。これは、国が国の構成員を作る方法として教育を用いており、この本でいう国を善くするというのと一致している。それが考え違いなのではないかとは思ってもみないとはそうであるので意識する必要があると感じた。

悩む学校大国

ここでは、イギリス、フランス、西ドイツ、アメリカ、そして日本などといった学校大国について触れている。これらの国が学校小国から大国に成長した間、戦争を行い、平気でその行いを正当化していたのを忘れてはいけない。また、国内では、人種の差別、性の差別、職業と身分の差別、経済生活の差別などをすすんで拡大し固定化させていたのを忘れてはいけない。
学校教育がどんどん拡大していっているのにもかかわらず、全くよくなっておらず、逆に悪くなっているのではないか。

「殖産興業、富国強兵」

といっても最初は、子供を善くしよう、国を善くしようと期待したに違いない。では、子どもたちを善くし国を善くするとはどういうことなのか。ここで「ちょっとした考えちがい」が起きたと書かれている。それは「善さ」=「快さ」というものだ。

「覆う黒い不安」

「善く」=「快く」を願ったのか、また、望んだのか。個人としても社会人としても、教育についてとんでもない考えちがいをしてしまったのでは?

「代議士か代利士か」

政治を例に見ている。代議制民主制は「善さ」=「快さ」でしか正しくない。考えちがいであったとするならば、我々は、善さではなく快さ、つまり、利益で代表を選んでいたことになる。となると代議士は代利士とする方が妥当となり、党名は共産党以外は妥当ではないとなる。

利害の調整を

「善さ」=「快さ」が政治を混乱させている。
利害を計算して調整する議会(快さ)が、たちまち道徳論議(善さ)の戦場になったりしている。
「善さ」=「快さ」で制度を作っている以上、政治が利益を中心に動くのは当然だ。

失われた倫理

経済でも問題が生じている。
プロテスタンティズムの禁欲の倫理が資本主義から失われたのはなぜか。
「善さ」=「快さ」とした時から、当然に「快さ」(すなわち利益)が、新しい倫理の資格を得て、プロテスタンティズムの倫理を乗り越えた。

近代思想の病理

現代は、「ちょっとした考えちがい」を根本的に反省するところから
始めないといけないのでは?
「善さ」=「快さ」に対して、プラトンは「もしも、人間の等しく求める「善さ」が「快さ」に過ぎないとするならば、人間の歴史は疥癬にかかった病人に等しい状態で展開することになろう。「快さ」を求めるかぎり、人々は当然、それがますます大きくなることを求め、しかもそれが永劫につづくことを求めないわけにはいかない。」。快さはそれが続かない場合は苦しみに変わってしまう。そのため永劫に快さは増大させる必要があるということだ。

まとめ、「善さ」=「快さ」という設定で進めてしまったがために、教育、政治、経済がおかしくなっている。この「ちょっとした考えちがい」を反省するところから現代は始まるのではないか?

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