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ジェイラボワークショップ第37回『義務教育を問いなおす 第1回』【教育研究部】[20220801-0814]#JLWS

皆さん こんにちは。
ジェイラボ教育研究部部長のシトです。

今回のWSでは教育研究部で読んでいる『義務教育を問いなおす』をベースに展開していきました。

*シトターンに事後スレッドにてとあります。それはWS期間内に返事ができなかったものに対して、WS終了後に返答していることを意味しています。

挨拶

■シト

おはようございます。教育研究部部長のシトです。
本日から2週間を通して教育研究部のWSを行います。
よろしくお願い致します。

はじめに
今回のWSは教育研究部で輪読している『義務教育を問いなおす』をもとにして行っていきます。

この活動は教育研究部が僕のワンマンではなくなってからの初めての活動です。
ワンマンの時は、個別の話題を紹介したりすることしかできませんでした。
しかし、仲間が増えたことによって、本当にやりたかったことに着手できるようになりました。
半ば無理やりに参加させてしまいましたが、部員には感謝しています。

教育研究部がやりたいことは何なのか再度提示します。
義務教育を定義し、教育とは何かを定義し、そして、高校教育とは何かを定める。
これがざっくりとしたやりたいことです。
現在進行形で高校教育が準義務教育化しているのは皆さん感じていることでしょう。
その前提で考えたほうがいいのではないかと思うかもしれません。
しかし、理想がわからない以上、現実でどうすればいいかわからない(どの範囲までが適正かという判断ができず、軸がないためおかしなことになる)のではないでしょうか。
理想を定め、現実でどう反映するか。
これを考えていきたいです。
今回は、そこへ皆さんと向かっていく最初のWSです。

第1ターン 蜆一朗
第2ターン チクシュルーブ隕石
第3ターン Hiroto
第4ターン シトの順で進めていきます。それでは皆さん、ぜひよろしくお願い致します。

蜆一朗ターン

導入

■蜆一朗

こんにちは。まずは蜆が担当いたします。よろしくどーぞ! さて、我々教育研究部が読んでいる『義務教育を問い直す』(2005 ちくま新書) は、2005 年までに行われた教育改革(主に小泉内閣)を踏まえ、その動向と教育の現状の捉え方について警鐘を鳴らす一冊です。ピンとこない方が多いと思われますので、具体的な改革の中身を紹介します。文部科学省が 2000 年に発行した『二十一世紀の未来を拓く教育改革 -七つの重点戦略-』では、冒頭に『危機に関する我が国の教育』と題して次の 4 点が挙げられています。

  1. いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、青少年犯罪

  2. 個人の尊重を強調し「公」を軽視する傾向

  3. 行き過ぎた平等主義による子どもの個性・能力に応じた教育の軽視

  4. これまでの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつある

この流れは 2022 年現在でも引き続いていて、基本的には似た方針で教育が行われていると言えます。たとえば"ICT 教育""GIGA スクール構想"といった教育方法や"個別最適化""習熟度別学習"といった児童生徒個人を尊重する教育方針はまさにその例と言えるでしょう。また、2005 年 7 月までに、政府の中央教育審議会や与党・文部科学省において検討されていた課題として、次のようなものがあります。

  • 教育費国庫負担金の廃止・一般財源化

  • 地方教育行政・教育委員会制度の在り方

  • 義務教育制教育基本法の改正

  • 義務度の弾力化

  • 学力不振を理由とする留年制 (原級留置) の導入

  • 教員免許更新制の実施

  • 全国学力テストの実施

  • 学校五日制の弾力化、土曜授業の容認

  • 「ゆとり教育」の見直し、総合的学習・教育課程の全面的な見直し

教育基本法は安倍首相のもとで改正され、義務教育費国庫負担金は小泉内閣のもとで一部だけ一般財源化されました。教員免許の更新制は実際に導入されて最近廃止されましたね。学力を重視する方針になったのは「ゆとり教育」への反省であります。 

教育には、社会全体の利益・福祉を追求すること、そしてその構成員としての個々人の利益・福祉を追求することの両方が求められています。個人が自分の生きたいように生きるための知恵や技術を身につけさせることももちろんですが、そうして得られた能力が社会に還元されることが望ましいです。逆もまたしかりで、集団の利益を重視するあまりに弱者を見捨てたり労働者個人の権利や生活を侵害することがあってはいけません。このように、どちらかに偏るのではなく、全体と個人という相互依存する存在のバランスをうまくとりながら"公共性"を備えた体制を作っていくことが非常に重要であります。ここがこの WS を通じて最も重要とする議論の中心となる考え方ですので、まずはご理解いただければと思います。 

2005 年当時 (2022 年現在もその流れをくむ) に議論された上記のような「教育の危機」は、"公共性"を脅かす、すなわち「全体と個人のバランスが崩壊してどちらかに大きく傾倒する」という意味で、日本の1930 年代から敗戦に至るまでの教育がはらんだ"第一の危機"に次ぐ"第二の危機"である、と筆者は述べています。私の担当パートでは、これら 2 つの危機について、当時の社会情勢や改革の中身について説明・考察しつつ、現在議論されている教育に関する諸問題について皆さんと考えていきたいなと考えております。夜の投稿では、この"第一の危機"に関して当時の情勢や歴史を振り返りながら解説していきたいと思います。

■蜆一朗

こんばんは。ここでは昼の投稿にいう"第一の危機"について解説したいと思います。

そこでも見たように、"危機"とは"全体と個人のバランス""公共性"が崩れたことを意味するのですが、1930 年代の教育は全体のほうに偏りすぎた失敗例で、"帝国主義的な侵略戦争への加担"を背景とした"軍国主義教育への傾倒"をその特徴としています。ジェイラボは理系の方が多いため、日本史や世界史の知識を補足しながら、当時全体に偏ることになってしまった時代背景を紹介していきます。教育とは関係のない歴史や社会について触れるのは、教育は社会と切っても切り離せないために世論や状況が簡単に入り込んでしまうのだということを体感してもらいたいからです。

(1) "軍国主義""帝国主義"とは何か?  1930 年代~戦前の教育の特徴を述べるために「軍国主義」「帝国主義」という言葉を持ち出しました。この言葉について、山川の日本史・世界史用語集から引用して説明します。

  • 軍国主義…政治・経済・教育などの組織を戦争目的のために整備し、戦争によって国の威力を示そうとする考え方。

  • 帝国主義…資本主義国家の政治的・経済的な侵略政策の段階。1870 年~80 年代以降のヨーロッパ列強の対外膨張と植民地・勢力圏の獲得により始まり、独占・金融資本の形成、過剰資本の輸出、諸列強による世界再分割などが進展した。その背景には、

   ・資本主義への移行に伴い、原料・資源の供給地と商品・投資市場の獲得を目指す
   ・労働運動・社会主義運動が活発化する中で大衆の不満をそらすための対外膨張を行う
  といった事情がある。

1930 年代の日本はまさにこの典型とも言える状態に陥っていました。なぜこんなことになったのか見ていくため、背景となった 1910 ~ 1920 年代の状況から説明します。


(2) 1910 ~ 1920 年代の日本  1914 ~ 1917 年にかけて起こった第一次世界大戦の戦勝国となった日本は、国際連盟の常任理事国を務めるなど国際的な地位を高めた一方で、その内外を取り巻く状況は不穏なものになっていきます :

  • 大規模な不況 : 終戦でヨーロッパ列強の生産力が回復し、重化学工業や紡績・製糸業を中心に不調に陥る(戦後恐慌)。1923 年に起きた関東大震災で京浜地区の工場が倒壊・焼失し、日本経済はさらにダメージを受けた。決済不能となった震災手形を保障するための合計額は、大卒初任給が 100 円に届かない時代にも関わらず 4 億円にもおよんだ(金融恐慌)。

  • 大企業による独占と政党政治の腐敗 : カルテル・トラストのような独占企業形態が目立ち、三井・三菱・安田・住友の四大財閥が経済界の覇権を握った。1925 年には普通選挙法が改正され、選挙資金を大量に確保するべく有力政党は財界との結びつきを強めたため、利権をめぐる汚職事件が頻発して"政党政治=金権政治"というイメージが植えつけられた。社会主義・労働運動の指導者はこの独占体制を痛切に批判し、ストライキやメーデーを主導した。

  • 世界的な軍縮の流れ :  二度と世界大戦を繰り返さないために、1919 年にはヴェルサイユ会議、1922 年にはワシントン会議が開かれた。日本はこの後者において、西部開拓を終え帝国主義的活動に舵を切ったアメリカの方針に従い九カ国条約にサインした。このとき決められた「列国との協調方針を強める」「軍縮(軍事費の削減)に努める」「中国の内政に干渉しない」等の方針は"協調外交"と言われた。

このような状況にあり、ストライキやメーデー以外にも、不満を持つ人々による運動が活発になったのも 20 年代の特徴です。そして、この不況にあって国力が衰退していく中で協調方針を強めていてはいけないという世論が形成されていきました

  • 協調外交は軟弱外交 :  1920 年代の中国では、日本や欧米列強による帝国主義的な支配に反感を持った人々による運動が盛んになった。上海の日本企業に対するストライキや反日・反英デモがおこり、イギリスによる発砲で死者が出た(五・三〇事件)ことをきっかけに、満州にいる (日本がバックについた) 中国の軍閥政権を倒そうという運動がおこった(北伐)。アメリカ・イギリス・日本の総領事館が襲われてもなお、協調外交の方針のもと日本はそこに関わろうとせず、弱腰の"軟弱外交"と非難された。

  • 軍人たちの不満と焦り :  軍縮の流れの中で世間の軍人に対する目は厳しくなり、失業への不安にも晒されるようになったため、彼らは協調外交や軍縮政策に対して不満を持った。このことがテロやクーデターによりそれを打破しようとする急進派の登場につながる。ここで失職した一部の上級軍人には中学校以上の男子校に勤務する権利が与えられたため、軍の学校への影響力が増した。


(3) 1930 年代の日本  前置きが長くなってしまいましたが、ここからようやく 1930 年代の話に入ることができます。ここでは次の 3 つの出来事を中心に据えれば、全体への傾倒の流れがすっきり見えてきます。

  • 世界恐慌 :  1920 年代の慢性的な不況に追い打ちをかけるかのように、1929 年にニューヨークで世界恐慌が起こった。当時の浜口雄幸内閣は慢性的な不況を打破するために金輸出解禁を決行しようとしていたが、最大の相手国であるアメリカが大不況に陥り頓挫してしまう。不況はたちまち日本にも押し寄せ、多くの企業が倒産し失業者が大量に出てしまったため、政党政治・協調外交・財閥の打破を目指す「国家改造運動」が活発になった。ちなみに浜口首相は東京駅で凶弾に倒れてしまうのだが、その事件の跡は今でも駅に残っている。

  • 満州事変(五・一五事件) :  日本軍が爆殺した張作霖の息子である張学良(国民政府)は、日本の重工業発展のための資源供給地として重要であった満州に鉄道を建設した。ここに満州鉄道を建設していた日本は経済的にも政治的にも受け、危機感を覚えた軍部はその鉄道爆破をきっかけに満州の主要都市を占領した(満州事変)。「中国の内政に干渉しない」という九か国条約への違反を懸念し反対する内閣の姿勢を押し切り、軍は満州国の建国に踏み切る。当時の犬養毅首相は、軍の方針を承認しない内閣にしびれを切らしたある急進右派軍人によって暗殺された(五・一五事件)。これを機に政党による内閣は終焉を迎え、"挙国一致内閣"と呼ばれる軍人による政府が生まれた(軍国主義への傾倒!)。

  • 二・二六事件 :  アメリカやイギリスは満州事変を強く批判し、リットン調査団を派遣するなどして日本の国益を守ったうえでの解決案を提示した。しかし日本はそれを拒否してなおも軍事行動を拡大したため、国際連盟を脱退して孤立化、戦争への道を進むことになった。ジャーナリズムもそれを大いに支持し、無産政党各派までもが国家社会主義に傾倒して軍部に接近する流れが見られるようになる。皇道派というグループは、政党や財閥などの「立憲主義を守る現状維持勢力」を打破しようと考え、1936 年に官邸や警視庁を襲撃して永田町を占拠した(二・二六事件)。これを力で抑え込んだことにより、軍部の影響力は決定的なものとなった。

こうして日本は戦争まっしぐらになっていきます。1941 年には太平洋戦争がはじまり、同年に小学校は"国民学校"と改称されました。算数、国語、習字、音楽といったすべての科目の教科書も、戦争を意識した状況設定や教育内容が中心に作られていきます。このように"皇国"に生まれたことの喜びや、"皇国"の使命("天皇や国のために命を捨てよ")を自覚させる教育が全国統一的に行われました。1943 年には京都師範学校を卒業した学生の 6 割以上が学徒動員で戦争に駆り出されています。教育を取り巻く環境も戦争によって侵されていたのです。

質問1

■蜆一朗

さて、蜆のターン2日目に入っていきます。よろしくどーぞ! 昨日1日目の投稿では、教育の公共性を担保するために最も重要な「全体と個人のバランス」が崩壊するとどうなるか、という一例をご覧いただきました。30 年代以降敗戦までの教育は全体への傾倒であり、教育だけで独立した文脈ではなく、当時の情勢や世論なども相まって形成されたものであることが伝わっていれば幸いです。 現在の教育改革もそうで、社会の情報化・グローバル化やゆとり教育への問題意識から、「ゆとり教育」否定に始まり学力重視・個別最適化などの方針が打ち出されてきました。このような改革は"個人"への傾倒に近づいていないか、という懸念が重要な問題意識となっています。このことを踏まえ、現在の教育改革に関して 2 つ皆さんに考えていただきたいことがあります

:第 1 問 : いじめや校内暴力といった"教育病理的"な問題に対し、警察や行政の介入があまり見られないことに対する問題意識がときどき見受けられます。そのために"学校や教育委員会はすごく閉鎖的な環境だ"という感覚をお持ちの方もおられると思います。実はこの現場重視の方針は、戦前の政府による教育への過度な介入に対する反省を踏まえたものであります。この歴史的事実を踏まえ、"いじめや校内暴力といった問題に警察や行政が積極的に介入していくべきである"という方針について、皆さんはどの程度共感されるでしょうか?賛成や反対によらずその理由も一緒にお聞かせください。

■Takuma Kogawa

積極的に介入というのは、学校や教職員、児童生徒などからの情報提供がなくとも、警察や行政が自分で情報を掴んで介入する、という意味なのかどうか確認したいです。
いじめや校内暴力は、学校で適切な対処が難しいことが多いと考えられます。そのときは警察などに協力を要請する方が初期対応として適切に思います。いじめ等は個人あるいは個別の問題にすぎないかもしれませんし、警察沙汰になる、することを教職員はよく思わないかもしれません。しかし、労働問題を労働基準監督署に通報できるように、外部の力を利用するような風通しの良さが、学校には必要だと考えます。「社会よさらば!我が学校堂々退場す」では教育の公的な役割を果たさないですし、そこに通う児童生徒のためにもならないと思います。

■Tsubo

Kogawaさんと同じく、ここでの「介入」、特に「積極的介入」の意味があまり掴めていません。いわゆる「いじめ」や「校内暴力」はれっきとした暴行や恐喝といった犯罪行為に他ならなく、犯罪行為は警察なり行政なりの案件なので、介入するのはある意味当然といえます。いわゆる「行政指導」みたいなノリなんでしょうか

あと個人的な興味で聞くのですが、一日目に投稿された内容の参考文献を教えて欲しいです()
昭和前期はそれこそエログロナンセンスな文化も全盛だったわけで、いきなりそんな風潮が「時代は大政翼賛!!」みたいなノリにならないと思うので、そこら辺の変化の境目がどうなってるのかなと気になりまして。
多分日中戦争で国家総動員法が施行されたら辺なんでしょうけど

  • 蜆一朗
    お二人ともありがとうございます。「積極的に介入」というのは「学校からの通報があり次第」という意味でした。曖昧な表現になったことをお詫びします。

    個人的な意見を申しますと、いじめや校内暴力は犯罪行為であり、警察や行政が担当する案件であるということは間違いないと思います。しかし、こういった事件の被害者にあたる児童生徒には「大事にしたくない」「自分が弱い存在だと知らしめたくない」という心理が働くと予想されます。担任がいじめに加わるようなケースも散見されるため、基本的には明るみになりにくいものと思います。いじめが起こったということが教師としての低評価につながり報道されてしまうこともあるため、警察や行政の方はもちろん、マスコミ等も含めて教育病理的現象への理解を深めた上でないと難しいと感じています。

    基本的には山川の「詳説日本史研究」(教科書ではなくて詳しい方)を参考にしています。日中戦争以降の国家総動員法、大政翼賛会についても触れるべきだったなぁと今になって反省しています()

■けろたん

心情的には賛成寄りですが、いじめや校内暴力などの問題に警察や行政が積極的に介入すべきでないと考えます。

警察や行政の介入を拒む理論的な根拠があるか、という論点から考えました。
教育現場を法治主義の例外にしてよいのか、と言い換えられると思います。
学校という場所の中だからといって、いじめなどと言い換えずに、刑事上の罪であれば犯罪、民事上の罪であれば不法行為として粛々と処理するのは、社会に例外を作らない立場で明快です。心情的には賛成と述べたのはこの点によります。
一方で、法の適用対象かどうかは子供に責任能力によって決まるものだと思います。子供は社会(制度)を学習中の存在なので、理解している前提で法律を適用される大人とは違う処遇があるべき、というのは十分あり得ると思います。少なくとも、子供の権利の制限はそのような建前で行われていると思います。
極端にいえば、子供は野蛮人なので、十分に文明(的な社会の概念とその制度)を教える(洗脳する、でもよいですが)前は、文明制度の対象ではないということです。
犬が人を噛んだ時に犬本人(本犬?)ではなく、犬の管理者に責任が問われるように、「子供にいじめや暴力を振るわせてしまった」罪として大人の責任が問題になる、というのが妥当だと思います。
同様の論点が成立する成人年齢引き下げの議論などは割とノリで決まっているっぽいので現実的でないと言われればそう思います。
ちなみに、この立場からだと体罰も正当化できそうです(が体罰には反対です。(教師である大人は野蛮人ではない、のに加え、体罰を解禁すると教師が専門技能として教育能力を向上させる必要がなくなるからです。))

また、警察や行政の介入がいじめや校内暴力への対処として効果があるか、という論点もあります。これまで校内問題から公権力を遠ざけてきたことは、それらの問題の(もみ消すことを含めた)解決ノウハウが、公権力側ではなく学校側に偏在していることを意味すると思います。何より、これらは対処療法なので根本解決にはならないと思います。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。
    小中学生の責任能力については難しい議論になると思います。成人年齢を引き下げるなら少年法はどうするんだとなるのもそうだと思いますし「中学生なら善悪の判別はつく」というのもわからなくはないのですが、個人的には年齢で分けるのは雑過ぎるし大人でも判別がつかない人はいます。法律については何も知らないのですが、僕が担任なら「子供にいじめや暴力をふるわせてしまった」と感じると思います。

質問2

■蜆一朗

こんにちは。今日は私のターン最終日です。よろしくどーぞ!
昨日上げた質問は題意がわかりにくくご迷惑をおかけしました。もう1問だけ皆様にお考えいただきます。
この2日間を通して確認していますように、義務教育において最も重要な「公共性」を保つためには、全体と個人のバランスをとることが欠かせません。今までの日本の義務教育では、全体で一斉に足並みをそろえることを最重要視し、全国統一的な(学習指導要領に基づいた)カリキュラムのもとで授業を行ってきました。しかし、ゆとり教育への反省や時代の変化に伴い、一斉教育は時代遅れであるという風潮が高まり、児童生徒個人にあった教育、たとえば

  • 習熟度別学習の導入 (学習指導要領下の内容についての学力別の学習)

  • 発展学習の導入 (学習指導要領の範囲を超えた範囲を意欲的な児童生徒に教える)

  • 中高一貫校の設置

が推し進められています。皆さんはこれら3点の取り組みに賛成(推し進めるべき)ですか?反対(慎重になるべき)ですか?回答にあたっては次のことにご留意ください :

  • 「習熟度別学習には賛成だが発展学習には反対」のように、各項目ごとに賛成・反対を教えてください。

  • 賛成の場合であっても、導入にあたって留意しなければならない点があると考えられる場合は、それも教えてください。

(追記) 習熟度別学習と発展学習のざっくりした定義をつけました。

■YY12

「教育の個と全体のバランス」というお話は大変興味深ったです。競争を基本とする今の世の中でなおかつ個に重きがかかっているとすれば、現状の様々な問題にも納得がいくように思います。・ 習熟度別学習の導入:反対
習熟度別学習は「各々の能力に適した環境で学ばせる」といえば聞こえは良いですが、義務教育の段階でわざわざすることなのかは疑問です。変に区切らずごちゃまぜの環境の方が自然ですし、その方が得意な子もそうでない子も各々に学びがある気がします。・ 発展学習:どちらかといえば賛成
発展学習の意味が理解しきれていないのですが、いわゆる「飛び級や、特に才能のある子達数人だけ習熟度別学習を取り入れる」みたいなイメージで良いのでしょうか。先に述べた通り、大人が人為的に関わる必要をそこまで感じませんし、才能とやる気がある子は自分で勝手にやると思ってしまうのですが、制度が検討されたりすることまで否定する気はなく、あって助かる子がいるなら考える価値はあると思いますので一応賛成としました。・ 中高一貫校の設置:賛成
中高一貫は倍のスパンで教育を考えることが出来ますし、メリットの方が多いように感じるので増えても良いと思います。実際、僕も中高一貫に通ってましたが(僕は高校からですが)、中学からいる子たちは内容を先取りしていたり勉強面で進んでいるなと感じました。人の流動性の無さに関しては悪影響が無いとは言い切れませんが、長く深く関わりたい僕のようなタイプにはむしろ都合が良いようにすら感じます。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。教育研究部としての統一的見解は次のターンで紹介されますので、個人的な意見をお話しします。

    • 習熟度別学習は、むしろ義務教育だからこそなされなければならないと考えています。義務教育の間にきちんとした指導を受けていないことにより、高校に入って勉強についていけなくなる生徒をたくさん見てきました。何より中学校まではそれが表面化しないというのが恐ろしいです。また、単なる一時例にすぎませんが、勉強大嫌いな僕の妹なんかはむしろ分けてくれたほうが勉強しやすいといつも言っていました。

    • 発展学習は、成績の良い子をえりすぐってというのであれば僕も反対です。しかし、成績に関わらず先の内容に興味を持つ児童生徒がいた場合には対応できる環境があればいいなと思いますし、選択肢を与えることが格差に直結しかねないという懸念もあります。

    • 中高一貫校の雰囲気はわからないのですが、YY 君の逆でなじめない子にとってみれば6年間はあまりにも長すぎると思います。中学入試を自分の意志で受ける子はほとんどいないと思いますので、メリットもデメリットも振れ幅が大きいのではないかと感じています。

      もちろん現状の公教育の環境では、これらのことを先生方に任せるのはあまりにも酷だと思いますが、公教育の幅を広げることができればいいなとも思います。

■Takuma Kogawa

全体に言えることとして、飛び級の議論も同時に行わないといけないと思います。そうでないと勉強を進めても年齢などを理由に進学できないという不利益が想定されます。

習熟度別学習…反対
公立の小中学校では学年の中での上位と下位の差が激しいですし、教員がそこまで目をかけることも現実的ではありません。自由な学習の時間をコマとして設けるくらいなら、上位を放っておいて下位の指導ができていいかもしれません。

発展学習…反対
これは学校の役割を逸脱すると思います。学校に多くを求めすぎな気がします。児童生徒から求められたら個別に対応すれば十分ではないでしょうか。あるいは、授業中に話が脱線してそのような内容に触れるのでもよいと思います。

中高一貫校…評価できない
中高別より中高一貫校の方が個別最適を図れるのかどうかわかりません。なぜ個人にあった教育の方法として挙げられるのかを教えてほしいです。中高一貫校というシステムがよいのか、そこに集まる教職員個人にそのような意欲があるのか。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。教育研究部としての統一的見解は次以降のターンで紹介されます(飛び級の話もそこで出てきます)ので、ここでは個人的な意見をお話しします。

    • もし仮に教員の数が増えて実際に実施が可能であればどうでしょうか。個人的には上位層を放っておくことで生じるデメリットも多いと感じています。

    • 「発展」を通常業務に取り込んでしまえば発展ではなくなってしまいますが、じゃあ学校の外でやるとなるとどうか、という問題意識があります。選択肢がたくさん与えられれば与えられるほど格差が広がっていきはしないか、という懸念もあります。

    • 中高一貫については、自分に近しいレベルの子たちで固まった生活ができるという意味で最適化に近いと考えています。公立中学だと様々なレベル帯の生徒が集まりますので、どうしても自分に合ったレベルにはなりづらくなります。

■Naokimen

結構昔に習ったところからわからない子がそのまま授業を受けてもわからないままでつまらないと思いますし、逆に授業を受けなくてもわかっている子が授業を受けてもつまらないと思いますので、どれも理想がそのまま実現するなら賛成ですが、いくつか留意しなければならないことがあると思います。まず、習熟度別学習、発展学習において個別化をしすぎると習熟度が低い子が劣等感を感じる可能性があり、そのフォローをする必要があると思います。また、習熟度別学習・発展学習をするにしても各生徒平等に指導しないと、「その子だけ特別扱いされてずるい」と言い出す子や親が出てくるかもしれません。さらに生徒ごとの習熟度の差があらわになるとそれによりいじめなどのトラブルが発生することにも注意する必要がありそうです。そもそも教師の人数、質的にそのような個別最適化学習が現実で可能なのかは疑問です。
中高一貫校の設置については学習面でのメリットだけでなく、治安が(自分の学区の中学よりも)いいというメリットもあり良いことだと思います。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。教育研究部としての統一的見解は次以降のターンで紹介されますので、ここでは個人的な意見をお話しします。

    • 「基礎」「標準」「応用」、「進学」「特進」のような上下を露骨に感じさせるクラス分けが行われるとすれば問題があると僕も思います。劣等感や優越感を生じにくくさせる取り組みとして、生徒がタブレットで作業する様子がすべて先生に届き、他の生徒にはわからない形で個別にヒントを与える、といった形式みが研究されているそうです。たとえばこのような形式であれば対応しやすいと感じます。

    • 僕なんかも地元の荒れた公立中学に行くのが嫌で中学受験したいと親に行ったことがあります(小学生が塾に行くなんてアホかと一蹴されましたが笑)。ただ、中高一貫校は学力的な意味でも環境的な意味でも、通ったことのない人間の直感的な感覚として、馴染めた子とそうでない子とで差が激しすぎるのではないかという懸念があります。しかもそれが6年間続くので、メリットもデメリットも「大きすぎる」ことに少し怖さを覚えます。

■けろたん

(1)習熟度別学習の導入:反対
(2)発展学習:反対
(3)中高一貫校の設置:賛成

画一的な教育が行われるのは教育する側に人的資源が少ないからだと考えています。より細やかな教育のためとはいえ教育側の負担を増やす施作は反対です。教員の質と量を確保できないなかでどう教えるべきかという観点で考えました。

(前提)
義務教育は誰もが等しく身につけることで社会のためになるような知識を学習範囲としているはずなので、建前上は、身につけなくてもよい知識は教育範囲に含まれていないのではないかと思います。そして、カリキュラムの縮小は行いにくいにもかかわらず教育側のリソースは不足しているので、習熟度別や発展学習といった学習の個別最適化を口実に教授内容が選別されているという理解です。
(1)について
教科書+教師読み上げ+板書という旧来のメディア形式と生徒の入出力の特性が合わずに、情報処理がある時点でつっかえてしまうことで発生する落ちこぼれは、教師側の仕事内容を大きく変えずに技術で解決できると思います。
GIGAスクール構想などもありますが、IT技術を用いる方向性としては、電子教科書で難読症向けのフォントで表示可能にしたり、読み上げ機能をつけるなど、あくまで従来型の授業形態を維持したまま、教師側に蓄積されている教育ノウハウが死に物にならない形の方が望ましいと思います。
ついでに。カリキュラムの変更というと、プログラミング教育や英語教育など、新しく教えるべきものを盛り込むことに注意が向きがちですが、教員に多少研修したぐらいで子供に教えられるようになるものは、大人になればすぐに身につけられることだと思うのでわざわざ学校で教える意味を感じません。

(2)について
教育リソースが不足しているので、発展的な学習機会の提供は、公立図書館の充実やネット環境の普及によってなされるべきだと思います。

(3)について
中高一貫校に名門が多いことと、新設した中高一貫校がよい学校になるかどうかは別だと思います。既存の中高一貫校の質が高いのは上澄をとっているからで、例えば中高を全部中高一貫にすれば質はそれなりになると思います。よって中高一貫だと教育の質が高まるからというより、学校の統廃合を推進し教育リソースを集中させるべきという立場からの賛成です。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。教育研究部としての統一的見解は次以降のターンに紹介されますので、ここでは個人的な意見をお話しします。

    • ディスコードでお話しされていた内容をここで採り上げてよいのかわかりませんが「教えられるノウハウがたまった分野を削りたくない」というのは、僕と真逆の感覚です。むしろ整備が何も整っていないにもかかわらず時代の流れに合うというだけの理由で、統計・プログラミング・英語といった(けろたんさんが仰るように大人になってからいくらでも自学できるもの)が盛り込まれることのほうが多いと感じていました。

    • (2) については真逆の感覚で、理想論にすぎますが、様々な選択肢を公教育の範囲で実現させられるように持っていくことを考えたいと思っています。選択肢を公的でない場で自由に与えてしまうことが格差につながりかねないという懸念を持っています。中高一貫校の設置に個人的にあまり肯定的ではないのですが、それも僕と同じ理由です。

  • けろたん
    ・(1)教育現場の立場からは流行りをカリキュラムに取り入れる動機はないと思います。その声がカリキュラム内容の意思決定プロセスでは無視されているということなのでしょうか。・(2)
    知識・情報へのアクセスのための学校教育以外の公的な場を意図して、「公立図書館の充実やネット環境の普及」と例示しました。「ネット環境の普及」が教育系Youtuber的なものへのアクセスを想起させてしまったなら意図通りではありませんでした。言葉足らずで申し訳ありません。
    背景には、少子高齢化社会では学校教育が社会に与える影響は小さいので、大人の再教育を拡張したほうがよいという考えがあります。個人が受ける教育を生涯のスパンでみたときに学校教育の占める割合が大きいのは、学校卒業した後の教育が貧弱であることを意味します。仕事で使わない知識が数十年前の教科書で止まっている大人がたくさんいるというのは割とホラーです。寿命が長い社会ではこれは不健全だと感じます。
    学校で習うこと=教科書が、よいものであればそれをさっさと配って知識の習得・更新をしてもらおうではないか、そのためには義務教育で使われている教科書を日本国民全員に無料提供 (現実的には電子書籍) がいいんじゃないかと思っています。
    こうすると、学校教育の教育上の目的を「教科書を読む能力を身に着けさせる」に集約できるので、あれやこれやとなりがちなカリキュラムの議論をしなくて済むようになる気がします。
    生涯を通して最新の教科書へのアクセスが担保されていれば、「知らないと生活上困る」レベルの知識については、生まれた地域、学校教育の段階での先生の当たり外れなどの環境的な運の要素も緩和されるのではないかと思います。ただし、上記の提案は教育格差が問題になる場面ではあまり役に立たなそうです。将来収入に直結する学校歴≒大学入試までの間に、学校教育が生徒のポテンシャルを制限することへの解決にはならないからです。(前段の教科書配布政策は中学3年相当までの実質的なプチ飛び級制というのは楽観的すぎとも言えない気がしますが。)
    個人の幸福の観点からは、大学入試および学校教育が格差挽回の装置として機能していることは大切だと思います。
    一方で、教育格差が社会的に問題なのは、貧困の再生産で社会の負担が増えるからで、世代に対する教育という観点からは、定員が固定されている大学入試の機会を将来の格差の代理的な指標として用いることにはあまり意味がないと思います。蜆さんの立場からだと部活は推進でゆとり教育はダメ政策のように思われます。それらに対する蜆さんの評価が気になります。(WS上の進行で予定されていたら早とちりすみません。

  • 蜆一朗
    ありがとうございます。

    (1) もちろん現場の先生方からしてみれば、ただ流行に乗っただけの新しい内容を指導しろと言われるのはいい気分ではないと思います。何かしら指導要領を変更することが先に決まっていて、その口実として流行っている考え方が建前の理由とされる感じだと思います。英語やプログラミングなんかはまさにその一例だと思います。

    (2) 大人の再教育というのは僕も共感します。確かに人生100年時代ともいわれる中で最初の20年前後が占める割合はどんどん小さくなってきていますが、それでもなおその20年がその後の80年に与える影響は決して小さくないと思います。そのため学校教育以外で得た知識の少ない方が多いものと思われます。大学入試がただの通過点となるように、入試問題をもっと簡単にするだとか、生涯学習のできる環境を公的に整えるだとか、そういった取り組みに関心を持っています。教科書配布は僕もいいと思います。僕が小学校の時にそれをしてくれていれば喜んでいたと思います。 

    部活動については難しいところですが、公的にそういった活動を支援する場があるというのは非常に良いことだと思いますし、基本的には "子供たちの成長につながる機会をできるだけ公的に与えられるほうが良い" と考えていますので、部活動そのものに反対ではありませんし、その機会を奪うゆとり教育には反対です。けろたん君に僕の考え方が伝わっていてうれしく思います。
     もちろん現状の公教育でこの理想を実現させることは不可能なのですが、現実を変えていくためにどのような状態を理想とするか、という話をしたかった次第です。僕が考える理想は (繰り返しになりますが)「できるだけ多くの機会を公的に与えること」だと思っています。

チクシュルーブ隕石ターン

質問1,2に対する部としての意見

■チクシュルーブ隕石

本日から僕が蜆さんに投げかけていただいた2つの質問に対する教育研究部としての意見を述べていこうと思います。
質問の回答として「現実的」であるかどうかという視点を持って答えてくださった方が多かったのですが、「理想」を最初に考えていく方針でWSを運営していこうと思っておりました。このことへの説明が足りなかったことは言葉足らずであり、本当に申し訳ございません。この後の質問も教育における「理想」を考えているものなのでご承知置きしていただけるとありがたいです。

1つ目は「警察や行政などの機関がいじめ、校内暴力に対して積極的に介入するべきか?」という質問に対して考えていきたいと思います。
教育研究部は基本的にそれらの機関の介入によって問題を解決していくことが必要だと感じています。現在大半の教員は学習指導だけでなく生徒の生活指導、部活動の顧問などかなり多くの業務をこなしている状況であり、さらにその立場はあまり強くありません。モンスターペアレントと呼ばれる親が跋扈している現状から鑑みても明白です。その状況下でそれらの問題を独力で解決するのには無理があると感じます。それに加えていじめや校内暴力の多くは犯罪に抵触するものであり、然るべき機関が対応するべきであるという考えです。ただしその際に気をつけなければいけないことがあると思われます。それは“介入者が教育の現状について理解がある”ということです。
いじめという問題が発生したときには当然いじめられている子供が存在している訳ですが、介入する側はその子供の心理状態などを把握しながら問題を解決しなければなりません。いじめられた子供の心情を無視した形で形式的に介入するのでは根本的な解決に繋がりません。その意味で、介入者は教育の持つ構造を把握しながら対象者に寄り添う形で解決を図らなければならないと考えました。
現在それらの問題に警察、行政が介入するのでは無くスクールカウンセラーを設置することによって対処をしている学校も存在しているようですが、いじめや校内暴力などの本質は犯罪であることが多いため私たちは最終的に警察、行政の介入が必要となると考えます。

2つ目は「習熟度別学習・発展学習・子供の個性能力に応じた教育・中高一貫校の設置を推し進めていくべきか?」について考えていきます。
教育研究部は習熟度別学習・発展学習・子供の個性能力に応じた教育の3つと中高一貫校の設置で異なる意見を持っています。

  1. まず習熟度別学習・発展学習・子供の個性能力に応じた教育については概ね賛成です。子供1人1人はそれぞれに得意不得意があり、1人ずつ何かしらの差が絶対に存在しています。それを考慮すれば、勉学面での個性を育むために習熟度別学習や発展学習は有効であると考えます。しかしこれらの学習には気をつけなければいけない点もあります。それは子供達があからさまな分断を感じさせるような分け方は良くないという点です。例えばアドバンスクラス、ベーシッククラスのように名前から明らかに能力が違うことを表すような分け方には注意をしたほうが良いと考えています。義務教育過程の内に自分の立ち位置を固定化させてしまうと、歪な優生思想が働くことで子供たちの新たな可能性の芽を摘むことに繋がりかねないので気をつけるべきだと考えられます。

  2. 次に中高一貫校の新たな設置についてですが、これについては反対の立場を取っています。その理由としては中高一貫校を新たに作ることにより、義務教育内である中学生の時期から早期の段階で分化が進んでしまうためです。ここで習熟度別学習も分化を生むのではないかという矛盾を感じられる方がおられるかもしれないと思います。私たちが習熟度別学習に概ね賛成であると同時に中高一貫校の新設に反対なのはそれら二つの構造に明確な違いがあるためです。習熟度別学習は学習面についての差を別の授業を行うことで尊重していくという方法ですが、中高一貫校は全ての側面で分化を進める方法です。つまり学習面だけでなく全ての時間を学力によってクラス単位、学校単位で選り分けられてしまうことは問題であると考えます。高校以降で学力重視の学校に自らの選択で進学することは全く問題ないと感じますが、義務教育過程である中学校で完全なる分化をしてしまうことに関しては良くないと考えています。

本日の投稿は以上です。明日明後日には新たに質問をさせていただこうと思っています。よろしくどーぞ!

■けろたん

教育学部としてのまとめの投下ありがとうございます。
『「理想」を最初に考えていく方針』という言葉を、
何を教えるべきか/何が教えられるか
どう教えるべきか/どう教えられるか
の4分類において、教育側の資源・能力に限りがあることを一旦無視して、まずはべき論を展開してほしかった、と理解しました。
個人的には、教育問題の難しさは教師の質と量を確保することの難しさだと考えているので、教育側のリソースに制限があることは本質的な問題だと思いますが、今後の質問では自分の立場を差し引いて考えてみようと思います。「習熟度別学習・発展学習・子供の個性能力に応じた教育」についての質問です。
「子供1人1人はそれぞれに得意不得意があり、1人ずつ何かしらの差が絶対に存在しています。それを考慮すれば、」と、「歪な優生思想」は、具体的にはどこがどのように違うのでしょうか?
そもそも、習熟度、到達度という考え方は、学習対象には学ぶべき順序があり、あるステップをクリアすることで次のステップに進める、という学習観に基づくものだと思います。学問という知識体系を、学校教育における科目にカリキュラム化する際の方便としては有効なものだと思います。
しかしながら「習熟度・到達度・子供の個性能力」の測定がペーパーテストのようなもの形式で行われる限り、選抜のための序列化は避けられないと思います。その結果を、才能や向き不向きといった個人の能力を固定的な性質のように捉える言葉で解釈しようとすることは、生徒の立場の固定化そのものだと思います。小中学校で学ぶようなことは「やればだれでもできること」のように感じる今になってみれば、たとえその時点の成績に差があることが人格的な優劣を意味しないとわかるのですが、「できないことをできるように努力する」過程の生徒にとってみれば、選抜結果が、よく言えば、できないことができなくてもしょうがない理由、悪く言えばできないことの「根拠」になってしまうと思います。あからさまなコース名での分類などは論外ですが、「到達度」に基づく振り分けが元に存在しても、例えば、クラスの名前が「いろは組」と「ほへと組」だったらどちらのテストの結果がよかったか分かりづらいので生徒同士の格付けには用いられないというのは考えにくい気がします。(追記) 「子供達があからさまな分断を感じさせるような分け方」を避ける方法がちょっと思いつきませんでした。学習させるためには、〇〇は学習する価値がある大事なものである、というメッセージを伝えなければいけませんが、そこから、価値ある〇〇を学習できないやつ (自分/あいつ) はダメなやつである、という含意を分離するのは困難だと思います。「テストはいくつかの事項の暗記と手順を覚えて操作を実行する頭の体操なので、できなかったとしても何ら人格的、知的資質の欠陥を意味するものではない」と伝えることもそれはそれでありだとおもいますが、それでは学習に向かわせるプレッシャーがはたらかない気がします。
義務教育が強制されるものである限り、本人の知的な興味や好奇心だけに基づいて教育課程を遂行させること不可能だと思います。そのために、何らかのプレッシャーを用いなければいけないですが、そのようなプレッシャーのなかから不健全な競争心理だけ選択的に取り除くのは非常に難しい技術ではないかと思います。以上のことから、「落ちこぼれ」的なものは、内容理解についての向き不向きではなく、読み書き行為そのものの技術の欠落という観点から対処したほうがよいのではないかと考えています。るので、繰り返しになりますが、「習熟度」別学習的なものには反対です。
→教育リソースの制限を無視した場合は、反対とまでは言えないです。(追記の追記)
ごちゃごちゃ考えてみたはいいものの、実施されている習熟度別学習においてどのような配慮がなされているかを調べれば手っ取り早いことに今更ながら気づきました。(追記の追記の追記)
習熟度/発展的学習の効果はあるっぽいです。
以下、 https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/zenkoku/08020513/001/003.htm より抜粋。
「2. 習熟度別・少人数始動と学校規模
習熟度別・少人数指導は、各教科等の授業において、例えば、1つの学級を習熟度別に2つのグループに分けたり、2つの学級を3つのグループに分けて少人数で授業を行う授業形態・方法である。
 習熟度別・少人数指導は、1つのグループを少人数にして指導を行うことにより、児童生徒一人一人に対してきめの細かい指導を行うことが可能となり、そのことによって指導の効果を高めることをねらいとして実施するものである。したがって、習熟度別・少人数指導の効果をより高めるためには、もともとある程度の規模の学校において実施することが有効と考えられる。」
「4.3 結論
今回の調査結果においては、習熟の遅いグループに対する少人数指導を多くの時間で行った学校ほど、少人数指導を行っていない学校よりも学力層Dの児童生徒の割合が少ない学校が多い傾向が見られ、習熟の遅いグループに対する少人数指導が児童生徒の学力の底上げに関連があると考えられる。
 また、習熟の早いグループに対する発展的指導を多くの時間で行った学校ほど、発展的指導を行っていない学校よりも学力層Aの児童生徒の割合が多い学校が多い傾向が見られ、習熟の早いグループに対する発展的指導は児童生徒の学力を伸ばすことに関連があると考えられる。」また、「6.留意事項」にて、「習熟度別・少人数指導と学力の関係については、少人数指導の態様などの様々な要因に影響されると考えられること、また、より厳密に指導の効果を測定するためには、指導実施の前後における当該児童生徒の変化を見ることが有効であると考えられる。」と述べらています。「習熟度別学習」という言葉から、講義内容の難易度を調節している印象を受けたのですが、この資料を読む限りは、どちらかといえば、少人数になることで質問対応などの時間が増えることによる効果を狙っているのではないかと思いました。そうであれば、習熟度別学習や発展学習ではなく、直接的に教師あたりの生徒を減らすことを主眼においた教育のほうが素直に思われます。

  • チクシュルーブ隕石
    個人間で差があることは誰の目で見ても明らかですが、勉強ができる方が偉いので何をしてもいい免罪符になるとか勉強しないことこそがカッコいいので勉強してる奴は馬鹿にしても良いというような価値観が作られてしまうとそれは歪な優生思想といえてしまうのではないでしょうか。それに対して勉強が得意な子もいれば苦手な子もいるのは当然であると考えて、それを前提として動くのは違うと思います。これら2つは他者への尊重の気持ちがあるかという点で大きな相違点があると考えます。
    またコース名についてはあからさまではないというのが肝要だと思っています。つまりちょっとでも差を感じるものは絶対ダメということではなく必要以上に子供たちの心を煽ってしまう名称には問題があるというように考えています。
    少数人数での指導という観点はあまり持たずに議論していたので面白いなと感じました。たしかに習熟の遅いグループはオーダーメイドな指導をすることで学力の伸びにつながるかもしれないという納得感がありました。ご意見ありがとうございます。

  • 蜆一朗
    僕が高校生を指導していて感じたのは、中学校までの指導のされ方の問題で、点数は取れているものの実際には全然わかっておらず、そのつけが高校になって表れてしまう子が本当に多いということです。一応それなりにできるため、学力の高くない子に指導のリソースが割かれた一方でほったらかしにされてきた子たちでした。
     ただ、習熟度別に学習させるのではなく、けろたん君が仰るように少人数 (20 人以内) 形式の授業を導入するほうがいいなと感じました。非常にクリティカルなご指摘ありがとうございました。

■Takuma Kogawa

中高一貫校の問題として義務教育期間での早期の分化を挙げていますが、この理屈がよくわかりません。義務教育期間ならダメで、義務教育期間以降はよいと判断できる理由が思いつきません。仮に義務教育が小学校まで、あるいはもっと早い段階までという制度だったとしたら、教育研究部として同じ結論に至ったのでしょうか。義務教育期間であることが問題なのか、平均的な成長に照らしたときに12歳前後での分化が問題だと考えているのか、全然異なる理由なのか、どうなのでしょうか。小学校受験も分化を理由にダメだとなるのでしょうか。

  • チクシュルーブ隕石
    基本的には義務教育期間であるために、分化を強く進めていくのがあまり良くないことであると考えています。義務教育期間は国が国益に沿うために定義づけたものであると理解しています。つまり発達段階という背景があるかもしれないが、決まりとして定めてしまったものという側面が強いと思います。

    また、社会が異質な人同士の存在を容認しながら形成されていることを鑑みても、その準備期間である義務教育過程を同質な集団の中で過ごすことはその役割を十二分に発揮するのか非常に疑問です。
    このロジックから言うと小学校や中学校をお受験する事は分化につながってしまうために、推進するべきものではないと考えられます。
    特に小学校受験・中学校受験に児童などの意志が反映されているケースは非常に稀だと感じてしまいます。この意味で義務教育という社会の準備期間を終えた後にある程度自分の意志で選び高校・大学で分化をしていくのは不自然な流れではないと考えました。

質問3

■チクシュルーブ隕石

本日は新たに質問をさせていただこうと思います。

ここで次の質問をする前に教育の用語の定義を確認しておきたいと思います。
学校教育の段階区分には3つの区分が存在しています。その3つとは初等教育・中等教育・高等教育です。その名称からそれぞれ初等教育は小学校、中等教育は中学校、高等教育は高等学校で行う教育だと勘違いされてしまうことがありますが、実際のところ中等教育は中学校と高等学校の教育、高等教育は大学・高等専門学校などで行われる教育を指しています。特に中等教育を細分化して中学校における教育を前期中等教育、高等学校における教育を後期中等教育と呼びます。
今回はその中の中等教育についてフォーカスし、質問をさせていただこうと思います。昨日までに行ってきた教育研究部のWS内の議論などを参照されて考えていただけるとありがたいです。

第3問
中等教育の枠組の中に中学校・高等学校の両方が入っていることについてどう考えますか?

(追記)
中等教育について義務教育としての是非や2つを纏めてしまうことによる功罪などについての意見をいただきたいと思っています。賛否という形でも良いので考えを教えていただければ幸いです。

質問4

■チクシュルーブ隕石

本日が僕の担当する最終日となります。よろしくお願いします。

昨日に引き続きもう一つ質問を投げかけさせていただこうと思います。

本日の質問のテーマは「ゆとり教育」についてです。おそらくゆとりという言葉を聞くと教育政策のひとつというだけでなく、言葉のイメージが与えるものは多岐にわたると感じています。そこでゆとり教育に関して、皆様方が感じたことや経験などを教えていただきたいと思います。

第4問
あなたは”ゆとり教育”を人生の中で感じましたか?自分の世代や、調べた教育の歴史などと照らし合わせて答えてみてください。また、「ゆとり教育が失敗だった」という言明に関する共感度合いを教えてください。

また、昨日質問させていただいた中等教育に関する第3問についての回答もお待ちしております。

■YY12

第3問 中等教育という用語の捉え方の是非
確かに中等教育という言葉は一般的に使われていませんしややこしいので良い言葉ではないかもしれませんが、捉え方としては別に間違っていないように思います。現在の日本では小中高の進学率はほとんど100%で、その中でも異質な小学校を除き、中高をひとかたまりにラベリングするのは場合によっては必要だろうからです。(むしろ小中高をまとめた言い方があっても良いような気がするんですがそれはないんですかね。)

第4問 ゆとり教育について
ゆとり教育って細かく見るといくつか世代があるんですね。僕が中高生の時は円周率は3.14でしたし、その時には「ゆとり教育は失敗」云々かんぬん言われていたので、ここでは現在アラサーの世代くらいを想定します。「ゆとり教育は失敗だった」というのは、率直に考えれば自分達の世代でやっておいて「失敗だった」はおかしいだろと思いますし、少なくとも僕がそのように感じたことはありません。(むしろ今の学生の親達くらいの世代は暴力、未成年喫煙・飲酒なんて普通だったと聞きますし、そっちの方が「ゆとり」なんじゃないかとすら思ってしまう。)

  • チクシュルーブ隕石
    ご意見ありがとうございます。
    中等教育という言葉がかなりややこしいのではないかという見解は僕も同じです。おそらく教育学を学んでいない人が初めて中等教育と聞いて中学・高校だとは思わないと感じています。
    この背景にはyyさんがおっしゃるように中学校と高校をひとまとまりにして考える機会が多いことがあると考えられます。例えばいわゆる「部活」と言ったら中高の部活動を指すことが多いと言ったように類似点が多いのだと思います。
    小中高をまとめた言い方を調べてみたんですが、あまり上手く纏まっているものはないようです。小中高の代わりに学生時代という呼称も出てきましたが、学生は大学生のことを指すものなので僕はあまりピンとはきませんでした。もし何か既に使われているものがあれば共有させていただきたいと思います。

    教育政策の成功失敗を見極めるのは、ある一定の期間が過ぎてからでないと判断をすることができないため、非常に難しいと考えられますが、少なくとも教育を受けていた当事者が判断できるものではないということはその通りだと思います。
    加えてもともとゆとり教育が提唱され始めた時期が1970年代、政府内で議論が活発になっていったのが1980年から1990年頃なのでその頃の教育の反省として政策が提言されたという側面もあると思います。

■けろたん

問3:
いいんじゃないかと思います。
区分に何か意味があるというより、長期的に変えない制度を定めるとそれをもとに具体的な政策を行いやすくなる、という効果のほうが大きい気がします。
国家としての教育目標を実現する効率を高めるために、人間の発達段階に即した適切な教育ができるように、6+3+3(+4)年制が妥当かどうか、という発想で一旦は考えてみたのですが、大したことは思いつきませんでした。

高校進学率がほぼ100%なのは実質的に義務ではないか、なぜ義務教育にしないのか?という問いを思いつきました。
答え:受験の制度上の目的は、学習内容の習得度合いによって生徒の集団を再構成することだが、義務教育では留年がないので習得度は進級、学校の卒業ではなく高校進学のための選抜上の序列で測られている。よって、高校進学率がほぼ100%「なので」、習得の程度がどのぐらいか測定される機会があり、それを義務教育での品質保証に代えていると解釈すべき。
高校が義務教育にならないのは実際にはこのような理屈ではないと思いますが、高校と大学受験の関係と比べると、「高校の教科書が本当に全部理解できたら東大でも合格できる。」みたいな話だなーと思いました。

また、「高等学校」が「高等教育」ではなく「中等教育」の区分にあるのは紛らわしく感じます。教育行政に関係する方にとっては当然になっているので今になって変えるほうがコストが大きいのだろうとは思います。

■けろたん

「ゆとり教育が失敗だった」は、多くの場合、「ゆとり教育は学力低下につながったので失敗だった」の意味で言われるもののように思います。これに対しては、単なる事実の指摘ではなく「最近の若いものはなっとらん」的なものだと感じます。勉強させなかったらテストの点が下がる、という当たり前のことを国民教育のカリキュラム変更という世代論でわざわざ言い換えているのには批判的な含意があるのでしょうが、少なくともゆとり教育導入時点ではゆとり世代には決定権はないはずなので、この意味で言っている人がいたら、残念な人だなーと思います。

一方で意味するものが、「社会の潮流から教育目標を再設定し直す必要があり、学力と引き換えに新しい能力が身につくことを期待して学習内容を削減したが、「ゆとり」がその能力の獲得に寄与しなかった。」あるいは、「その能力は十分獲得されたが、時代を読み間違えていて、学力を犠牲にするほどの価値はなかった。」であれば検討する価値があると思います。個人的には、ゆとり教育についてはカリキュラムの内容どうこうではなく、教育政策がどの程度実験や事実に基づいた検証可能な形で実施されてい(た/る)かの意思決定プロセスに興味があります。

最後に冗談ですが、カリキュラムに変更がない場合、授業効率が年率数%で改善し、それによって勝手にゆとりが生まれていく、という話はあってもいいようなものの聞いたことはありません。

  • チクシュルーブ隕石
    ご意見ありがとうございます。上のコメントに対する返信も兼ねさせていただきます。

    高校の準義務教育化というテーマは教育研究部でより深く議論していこうと思っている事柄の一つでした。けろたんさんの指摘の通り高校は実質的に義務教育のような扱いとなっていると教育研究部も考えています。「何故高校が義務教育とならないか」については、教育研究部でもう少し熟議をしてから考えをお伝えできれば良いと感じています。この議論を敷衍する形で、大学までを義務教育過程としてしまうという考えもあるようです。

    また「中等教育」という言葉自体を変えることが教育行政に関わる人に悪影響を与えてしまうということはその通りだと思います。このことについては言葉を変更することがやるべきことでは無く、教育を専門としている人と一般市民の認識のズレを少しずつ無くしていく事が必要だと感じます。

    ゆとり教育について前者の「これだからゆとりは…」という趣旨の発言は、僕もお門違いであると感じています。教育を受ける側は当然どのような教育を実施していくのかという事をコントロールできる立場にいないため、たとえゆとり教育政策が失敗であったとしても教育を受けた本人に失敗であった事を告げるのは、ただの憂さ晴らしをするための口実なのだろうと推察できると思います。
    もし後者なのであれば僕も建設的な議論となる可能性はあると考えます。僕個人としてはゆとり教育で何かしらの能力の獲得はされたがより上の世代には理解し得ない能力であるか、表出している事が分かりにくい能力であるかのどちらかであると考えています。
    ゆとり教育が1970年代に提唱されてから実際に実施されるまでには約25年もの時間がかかっています。これをみるとデータに裏打ちされた教育政策をしようとしてゆとり教育を行ったというよりも、1960年代の詰め込み教育の反動としてゆとりを持つような教育をしたいという理想が、長い年月をかけて世論をゆとり教育というものを受け入れる方向へと導いていったのではないかと考えてしまいます。面白い資料などを見つけたら是非共有しようと思います。

    カリキュラムの変更がない事で効率化が進み自然とゆとりが出るという考えは非常に面白いと思いました。それに関しては教員が学習指導のみを担当していないことが大きく影響していると思います。その結果仮に学習の効率が年々高まっているとしても、その割合は微々たるものであり認識するにも至っていないのだと考えられます。

Hirotoターン

質問3,4に対する部としての意見

■Hiroto

こんにちは!!!!ここからは私Hirotoが、3日間WSを担当いたします。よろしくお願いいたします。
第3問第4問への、教育研全体としての見解を述べたいと思います。僕個人の尖った見解ではなく、皆で共有した公約数的見解です。

第3問:中等教育の枠組の中に中学校・高等学校の両方が入っていることについてどう考えますか?
教育研としては、この用語は悪しき用語だと捉えています。まず教育研での共通の問題意識として「高校が準義務教育化している」というものがありますが、この用語はまさに中学と高校とをひとまとめにしてしまいかねない用語であり、さらに単純な用語としての混同も招くであろうことが予想されるため、その意味で悪だと述べたいと思います。しかし、だからといって新たな用語にすれば良いというわけではなく、それはそれで新たな混同を招くため、分化の本格的な始まりとしての高等学校の役目と、単純な用語の定義を啓蒙していくしか僕らにできることはなさそうです。

第4問:あなたはゆとり教育を人生の中で感じましたか?
これに共通見解を出すのは難しいので笑、個別の意見には個別に返すことにして、ここではその共通見解を出すことの難しさそのものに着目した意見を述べたいと思います。
教育に関する一般的な政策については、俯瞰してあれこれ語ることはもちろん許されますが、政策の影響を「受けた」側をその政策で揶揄することはあってはならないと改めて提言します。これは単に倫理的な話でもありますが、教育という概念の非対称性を象徴しているとも捉えられます。教育する側はあれこれその手法を比較して良いだ悪いだ言うのですが、教育される側はそれを「唯一解(=神)」として享受するしか(とくに義務教育では)なく、その意味である種の「被害者」であるところの人間に対して、例えば「ゆとり世代は〜」などということは断じて論理的でない(倫理的でないのはもちろんのこと)ということです。冷静に考えたら当たり前の話なのですが、教育に関する冷静な一般論を話すと、どうしても個別の(もっというと自身の)受けた教育と照らし合わせてしまって拒否反応を示す方も見受けられるため、今一度こういった認識を共有して議論を進めるべきだと考えます。

■けろたん

第4問について
他のトピックなら個人的体験から統計的事実を語ることに留保をつけられるはずの人でも、親の課金と子供の学歴の関係や受験の公平性などに関して不用意な発言をしているのを見ると、実存に関わる問題を冷静に語る難しさを感じます。

質問5

■Hiroto

今日の質問です。
最初の方にkogawaさんから問題提起されていましたが、改めてそこについて問い直します。
Q:「早期からの飛び級制度導入の是非」このテーマについて、あれこれ思うことを投下していただきたいと思います。YESNOでも構いませんし、具体的なケースを挙げて考えていただいても構いません。よろしくお願いします。

質問6

■Hiroto

答え辛い質問だったでしょうか。もうしばらく待ってみることにします。似た質問なのでもう一つ。
Q:「早期からの留年制度導入の是非」ぜひこれも一緒に考えてみてください。いつまででも構いません。よろしくお願いいたします。


飛び級制度を導入するなら、、
:1: 小学生未満から
:2: 小学生から    5
@chiffon cake, @Naokimen,@イスツクエ, 
@Shun, @Yuta
:3: 中学生から
:4: 高校生(程度の年齢)から    5
@コバ
, 
@Tsubo
, 
@ゆーろっぷ
, 
@Yujin
, 
@ていりふびに
:5: 大学生(程度の年齢)から    1
@YY 12
:6: 大学院生(程度の年齢)から
:7: その他(できればテキストでお願いします)    1
@けろたん
留年制度を導入するなら、、
:1つの: 小学生未満から
:2: 小学生から
:3: 中学生から    2
@chiffon cake
, 
@Tsubo
:4: 高校生(程度の年齢)から    6
@コバ
, 
@Naokimen
, 
@ゆーろっぷ
, 
@Yujin
, 
@イスツクエ
, 
@ていりふびに
:5: 大学生(程度の年齢)から    2
@YY 12
, 
@匿名希望
:6: 大学院生(程度の年齢)から
:7: その他(できればテキストでお願いします)    1
@けろたん

■YY12

1.早期からの飛び級制度導入の是非
早期の飛び級制度に関しては大きな必要性を感じません。
現状のシステムでも、才能とやる気があれば学校外(塾やら自習やら)で勝手にやるだろうと思うからです。ただ、(先走った質問かもしれませんが、)Hirotoさんくらいの学力を持った人だとやはり飛び級制度があったらいいなと思うこともあるのかは気になります。2.早期からの留年制度導入の是非
留年制度を導入すれば、その年の内容をもう一度学習し直せるメリットはあるかもしれませんが、早い段階で年齢が食い違うデメリットの方が大きいように思います。習熟度別学習(個人的には懐疑的だが)でカバーすれば良いんじゃないでしょうか。

  • Hiroto
    「勝手にやる」ことができる環境をどこまでインフラとして整えるのか。難しいですね。僕はそんなに飛び級には興味ありませんでした。御山の大将なので。政策みたいなことを話すときはやっぱり完璧な解はなくて、妥協案になってしまいがちですよね。懐疑的な案をやむを得ず通さなければならない立場(政治家等)も辛そうではあります。

■けろたん

あれこれ思ったことを投下します。まとまっておらず申し訳ありません。

・前提
小中学校は履修主義なので、学習リソース(テキストや教師)へのアクセスが学年に制限されている。そのため学年を繰り上げることでしか、次の段階の学習リソースを提供できない。学習リソースが学校(小中高大)の物理的な場所に紐付いているので生徒に学年、学校を移動してもらう形で学習リソースを提供するために飛び級制度が必要。

・学校を何をする場所だととらえるか
学習vsそれ以外(学校行事、集団生活、、、)
特定の知識を習得をさせるのが目的ならテストを受けさせて合格点の人間から卒業させてもよい。→修得主義
それ以外だと捉えるなら、拘束自体が目的なので、経験の減少につながる飛び級には否定的になるはず。

・「教育の個別最適化」が進むという前提の下での飛び級について
個別最適化が進むと、「学年」がだいたい同じような内容の授業を一斉に受けている集まり、を意味しなくなる。
学んでいることが違って当たり前なので学校の役割はむしろコミュニティ、サークル機能になっていき飛び級が必要なくなる。

・飛び級制度の目的
才能が学校への不適応の形で現れて潰れる子供を減らす or エリートを選抜する。

・公教育で飛び級を導入するにあたって必要なこと
生徒の家庭にとって追加コストなしでさらなる学習リソースにアクセスできる、ということが大事。

・大学受験への影響
飛び級があれば学年の上澄が抜けていくことを前提にして受験の問題を簡単にできるかとおもったが、、、
→入試問題の質に影響が出るほどの数いるのか?
→競争の原因は相対的な差なので、上澄みが抜けたからといって競争の度合いは変わらないのではないか。

・制度の運用について
才能の程度と対象人数を具体化する必要がある。
1学年100万人として、1万人に1人レベルの「才能」は1学年に100人しかいない。
参考までに、異常値としてのIQ130以上が2%ぐらい。これだと2万人なので結構いる。
どれぐらいを対象にすると制度的に効果が高いのかよくわからない。

・留年について
習得主義の立場から義務教育の留年が主張されると理解している。
社会にとってAであることと、構成員全員がAを満たしていることは別。
義務教育の内容を修得していることがすべての国民に保証されているのはちょ〜〜〜〜〜すごいことだと思うが、
→高認/大検的な「中学卒業認定試験(仮)」への合格を原則にして、学校で教育を受けることを例外にすれば、留年を制度化しなくても行けそう。
現状では大学受験浪人が実質的に留年として機能している気がする。

・個人的なアイデア
小中高の教科書無料配布。放送大学の全科目OCW化。(+インターネットへのアクセスを保証するなにか。)
テキストのつまらなさの問題は別にして、形式的には大学無料化みたいなもんではないでしょうか。

・学習リソースの提供(コスト順)
テキストを渡す
===壁
標準化されたテストを受けさせる
講義を受けさせる
質問に対応する
===壁
ゼミ、輪読、研究活動

学習リソースの提供といっても程度がある。飛び級できるかできないかの2択だと、科目毎、段階的に生徒のレベルに応じたものを提供するにはどうすればいいかという観点が抜け落ちがち。 (そもそも制度目的が違う、という反論はありえる気はします。)
一人ではできないやつのままの人間をできないやつからできるやつに変えることが教育だとすれば、一人で勝手にできるやつになれることを才能というのかもしれません。

  • Hiroto
    「現状浪人が留年の実質的役割を果たしている」という観点はかなり面白いと思います。浪人なんてのは「みんなやってるからやってる」もので、正規の制度でもなんでもないのが面白いと前から思っていました。高校浪人に否定的な人が多いのも結局「周りがやっていないから」に尽きると思います。けろたんさんが前にdiscordでもおっしゃってくださったように、教育の本質はわりと伝統とか同調とかにある気がします。

  • けろたん
    真偽は不明ですが、「山形東高校」というところは1割ぐらいが高校浪人で入学するらしいとの情報を目にしました。

シトターン

質問5,6に対する部としての意見

■シト

本日から僕が残りの4日間WSを担当します。よろしくどーぞ。まずは、Hiroto君の質問に対する教育研究部としての意見を投下させてもらいます。前ターンのトピックは飛び級と留年制で、この2つを早期の段階(義務教育段階)で導入することについてどう思うかが質問でした。この問いに対して私たち教育研は、その両者いずれも義務教育段階で導入するべきではないと考えています。理由は、2つあります。1つ目は、社会の常識の形成です。飛び級は、それに該当する児童が周りの児童を見下す可能性があります。小さいころに飛び級できるような子が将来影響力を持つ可能性は非常に高いでしょう。そのような人物が自分は優秀で他は劣っていると思い、社会に大きな影響を与えることは非常によくないと思います。例えば、社会のシステム自体に分化を組み込んだりしてしまうといったことが挙げられるでしょう。留年制は、それに該当する児童が周りの児童から劣っていると見られ、自身も劣っていると思うようになる可能性があります。この場合、一般人の間で共有された分化が生じてしまう恐れがあります。前者は、上からの分化であるため、システム自体がそうであっても、国民がそう思っていなければ、まだ何とかなる余地があります。しかし、この場合は国民という全体レベルでの分化となってしまいどうしようもなくなる恐れがあります。義務教育という国が受けてくれとする教育に、社会を構成する共生と分化というものを無視し、分化だけをむやみに進めるようにする制度を導入することはおかしいと考えます。2つ目は、常識の固定化です。小学生段階で何が得意か不得意かを判断するのは無理があります。たとえ、今そうであったとしても成長によって変わる可能性は大いにあるからです。また、その段階の子に、自身の立場を決めるという力はないですし、それを判断できるほどの経験がありません。それにもかかわらず、自身で選んで立場を表明したとみなされる懸念が早期の分化にはあります。小さい頃から以上のように分けてしまうと、そういうものだとして子たちは認識し成長していくでしょう。彼らが次の社会を担うため、その考えが固定化される恐れがあります。これに対し、義務教育以降における飛び級や留年制は概ね賛成です。なぜならば、義務教育以降はそもそも分化を進め、個人の適切な居場所を確定させる機関だからです。そのためにも、義務教育段階は共生を強く進める必要性があると考えます。本日の投稿は以上になります。明日から僕の質問を投下します。

質問7

■シト

私の1つ目の質問は選択の幅についてです。
Hiroto君ターンでは、前提として分化のみを推し進める考えである飛び級と留年制について質問させていただきました。
今回は、前提として分化を推し進める考えだけではない選択の幅を義務教育段階に導入することの是非を考えていただこうと思います。
ここで言う選択の幅とは、小学校から中学校へ上がるときに、中学入試を受けることができるという進路選択に関することです。Q選択の幅を義務教育段階に導入することについてどう思いますか?また、その理由について教えてください。

選択の幅を義務教育段階に導入することについてどう思うか?
:1つの: いいと思う    7
@コバ
, 
@Naokimen
, 
@けろたん
, 
@Shun
, 
@Takuma Kogawa
, 
@イスツクエ
, 
@Yujin
:2: 悪いと思う    1
@シト
:3: どちらでもない

■けろたん

義務教育の段階で生徒が触れられる教育リソースは多ければ多いほどよい、という意味で、「いいと思う」に投票しました。中学受験と「選択の幅」の関係についての質問:
中学受験という言葉を、進学校といわれるような中高一貫校への進学を目的にした受験だと捉えました。これは、小学校中・高学年の生徒に学業面でのプレッシャーを与え、成績によって選抜するため、学力層にもとづく分化をすすめるようなしくみだと思います。親の課金力や、そもそも中学受験ができる中学の存在など、中学受験が単に「選択の幅」を広げるだけのものとは思えないのですが、この点についてどうお考えなのでしょうか?例えば、地域の中学校に学力上位層が進学しないとなると、家庭に課金パワーが無い生徒にとっては、中学受験が存在しなければ得られたような学力層との交流の機会を一方的に奪われていると捉えることが可能だと思います。そのような中学への進学を目的とした中学受験は、選抜的でない中学受験よりも量的には少数派だったりするのでしょうか。僕は中学受験をしていないので見当違いの意見だったら申し訳ありません。

  • (事後スレッドにて)
    返答したいのですが、親の課金力や、そもそも中学受験ができる中学の存在など、中学受験が’単に「選択の幅」を広げるだけのものとは思えないという部分がよくわからないので教えてほしいです。

  • けろたん
    (1)通学可能な範囲に、学校が複数存在している
    (2)家庭に、通塾料、受験料、学費などの追加支出を支払えるだけの余裕がある
    1,2どちらとも満たされなければ、複数ある進学候補を比較し自分にあったものを選ぶという選択の機会は実質的に存在しません。「進学する中学校を選ぶ」という選択において、1,2両方が満たされている児童は、1,2両方とも満たされていない児童に比べて選択肢が多いことは事実だと思います。
    「単に選択の幅を広げるだけのものとは思えない」というのの例として挙げたものは、1,2を満たすAくんと、1のみ満たす同地域のBくんを比較したときに、Aくんにとっては学力や家庭の金銭的余裕において地域の上澄みがあつまる環境に進学する選択肢があることを認めた上で、Bくんにとっては、(本人に中学受験という選択肢が存在しないにも関わらず)中学受験が存在していなければ得られたかもしれないのに中学受験が存在することでなくなってしまったものがある、という意味です。
    学費が3倍高いので先生が3倍優秀、ということはないと思いますので、公立中学との差分の学費で学習者に提供されている価値は教育というよりは、選抜の結果としてまわりも上澄みである環境だと思います。そうであれば、選別は手段ではなく目的で、上記のAくんとBくんの境遇の違いは中学受験に内在する問題です。部分的にであれ選択肢が増える児童がいて総量功利主義の立場からは肯定できるので選択肢の上では賛成に投票しましたが、中学受験のしくみを維持するために誰が何を負担しているのか、また失われるものに見合っているか、という視点は大事だと思います。
    またこの例では、両者とも1は満たすので顕在するのは家庭間の金銭的余裕の差ですが、この他に教育格差としてよく言われるものには、そもそも通学可能な範囲に学校がいくつもない地方部と中学受験の風習が根付いている都心部の違い(条件1)や、教育機会は女性よりも男性に与えられるべきとする家庭文化やそのほうが経済合理的な状況のもとでは、同じ家庭内でも児童の性別によって受けられる教育に差がでる(表に現れない条件2)ことがあると思います。

  • 選択の幅としておいているだけですが、結果として広げるだけになっていないので、中学受験が単に「選択の幅」をひろげるだけのものではないと思います。置いた結果、学力層と階層の分化が起きてしまいます。個人的には階層の分化が怖いなと感じています。リソースが多くても、それの中でどれを選ぶのかは、ほとんどの場合親となります。書いていただいている通りすべての親がそれを有効活用できるわけではありません。それは同時に子供も同様だということを意味しています。それなのに子は、自身で選んだとみなされてしまいます。中学受験のしくみを維持するために誰が何を負担しているのか、また失われるものに見合っているのかという視点は僕も大事だと思います。しかし、それについて考えている人はあまりいないように感じます。それは中学受験塾に通っていた時に見た受験ママたちからものすごく感じました。

質問8

■シト

今日の質問を挙げる前に、一回振り返えってみようと思います。
公教育は個人と全体のバランスを取ることが重要でしたね。
蜆さんターンでは以下のように書かれていました。
「教育には、社会全体の利益・福祉を追求すること、そしてその構成員としての個々人の利益・福祉を追求することの両方が求められています。個人が自分の生きたいように生きるための知恵や技術を身につけさせることももちろんですが、そうして得られた能力が社会に還元されることが望ましいです。逆もまたしかりで、集団の利益を重視するあまりに弱者を見捨てたり労働者個人の権利や生活を侵害することがあってはいけません。このように、どちらかに偏るのではなく、全体と個人という相互依存する存在のバランスをうまくとりながら"公共性"を備えた体制を作っていくことが非常に重要であります。」この視点から見るとWS内で出てきた学力重視、個別最適化、中高一貫、飛び級制度、留年制度は、個人の能力をのばして競争させるものだとわかります。これを競争原理と言います。
競争原理の反対として、個人の差をできるだけ生じさせないようにするものを共生原理と言います。学校の授業でいうとグループワークや発表などが例として挙げられます。特に、蜆さんターンで出てきた全体主義や徒競走で順位をつけないなどといったものは、この原理の極端な例に該当します。教育研で読んでいる「義務教育を問いなおす」の筆者は、小学校では共生を重視し、高校からは競争を使った分化を進めていくべきだと書いています。そして、小学校と高校をつなげる中学校では、競争を徐々に導入するべきだとしています。Q:皆さんは、この筆者の考えをどう思いますか?また、その理由について教えてください。

筆者の考えについて
:1つの: 賛成    5
@コバ
, 
@Naokimen
, 
@Hiroto
, 
@ていりふびに
, 
@イスツクエ
:2: 反対    1
@けろたん
:3: どちらでもない    3
@Takuma Kogawa
, 
@Yujin
, 
@YY 12

■けろたん

競争させて選抜するのは、できるやつをなるべく低コストで収穫するための方法であって、できないやつをできるようにする手段としてはいまいちだと思います。生徒数に対して学校が足りていない時代は、選抜するだけでできるやつの絶対量が確保できていたと思うのですが、少子化で生徒数が少なくなっていくので、競争・選抜にかける労力をほかの教育活動に割り振ったほうがほうがよいと考えます。

  • (事後スレッドにて)
    大学以降に関しては結局競争社会になります。社会に出たら差があるのが当然な資本主義社会にさらされるので、そこへの準備として教育は競争を導入しないといけないと思います。それに関してはどう思いますか?選抜で言うなら、確かにうまみはあまりないと思います。

  • けろたん
    シトさんの主張は、社会において必要とされている競争的な資質を選抜を用いて身につけさせることができるので競争主義は有効だ、と理解しました。
    これには、
    1. 社会においてどのような資質が必要とされているのか。競争的であることがその中で大きなものを占めるか。
    2. (競争的資質が重要であると認めた上で、) それを身に着けさせるのに、学校の試験や入学試験での選抜システムが最善の手段か。
    の2つの論点が含まれていると思います。個人的には1はかなり怪しい主張だと思うのですが、2を中心に述べます。
    まず、資本主義が個人や会社に要請する競争と、学校で選別上実施されている競争はかなり性質が異なります。そのため、学校教育での競争の最たるものとしての入学試験におけるスコア向上トレーニングが、直接的に「差があるのが当然な資本主義」で有用な能力に直結するわけではないと思います。投下時間と結果がおおまかに比例するという前提のもと、決まった範囲のなかで得点率を上げる訓練の中で醸成される能力は、均質な競争者集団の中で投下時間に差をつけるための学習時間を捻出する自己管理能力が主たるものです。投下時間と結果の比例、決まった範囲の中で得点率を競う、競争者集団の均質性、このような条件での競争は資本主義ではむしろ特殊ではないでしょうか。よって教育上の競争を促進することが資本主義に適した資質を養うことにはつながらないと思います。また、(知識、学習内容として教えるのではなく) 競争的な資質が必要とされる環境を制度として強いることで能力を身に着けさせる、という考えはやや危ういように感じます。
    入学試験は建前としては、入学後の授業についていけるかだけが合否を決める基準であるべきです。学力テストは本来的に受験者同士が直接対決するバトルゲームではないので、競争があるとしたら希望者に対し定員が不足しているからです。適切な競争率がどれほどかという議論はあるにしても、この観点からは、競争は、教育資源の拡充によって対処すべき課題であって、受験者のセルフスクリーニングを促し適性検査コストを削減するための言い訳ではあってはなりません。教育資源が限られている状況での競争の当座の有用性を正当化するために、現状発生している競争を必要悪として伝えるのではなく、あえて制度として課すことで習い性として身につけさせる必要性はないと思います。

  • 競争と言ってもどのような競争なのかが違うため、学校の競争が社会の競争に最適ではないのではないかというのは面白かったです。競争について考える必要がありそうですね。このWSのもとである『義務教育を問いなおす』を読み進めている途中でかお読み終わってでかはまだわかりませんが、競争について本を読んでじっくりと考えてみるのもいいかもしれないと思いました。ありがとうございます。

■Takuma Kogawa

「個人の差をできるだけ生じさせないようにするものを共生原理」という説明は正しいのでしょうか?特に公立小学校では差があることを認めたうえで一緒に生活するものかと思っていました。

  • ちゃんと書いていなくてすみませんでした。ありがとうございます。前提として差があることを認めながらも、それを露骨にはっきりさせるわけではなく、なおかつ差を広げようとしないものがここでいう共生原理です。

質問7,8に対する部としての意見

僕のターンの質問に対する教育研究部の意見を投下させてもらいます1つ目の質問:選択の幅を義務教育段階に導入することについてどう思うか。

これについて2つのことを考えました。

1つ目は必要性です。
義務教育でやることは基礎を固めることであって、応用的なことではありません。
応用は、基礎がしっかりと固まっていないと意味がないです。
高校や大学で応用をやるにも基礎があってのことです。
また、義務教育と言われる以上、それ以降の段階を前提としてシステムに組み込むことは間違っています。
その意味で導入する必要がないと考えます。

2つ目は分化を起こさないかです。
中学入試が必要な中学へ入った場合、そこで成長していくことになります。
その環境で育つ期間における社会とは、その学校内のことを指します。
中学からの成長は非常に大きなものです。
その大きな成長期間を狭い層で過ごすのは非常に問題があると考えます。
受験して中学に入った彼らにとっての標準は、社会一般の標準とはかけ離れてしまいます。
それ自体が分化であるため、分化を起こすものだとわかります。
教育は、社会全体と個人の両方に働きかけるものです。
分化は個人への偏りを促進し、両者のバランスを崩壊させてしまいます。
そのため、分化を起こしてしまう義務教育段階における選択の幅導入は問題です。
以上の2つから、私たち教育研究部は、選択の幅を義務教育段階に導入することについて反対です。

2つ目の質問:筆者の考えについてどう思うか

賛成です。
義務教育後から自身の立場を決めていくとなると、その前は、自身の立場が決まっていないとなります。
つまり、義務教育段階は、自身の立場が確定していない段階を意味します。
高校などからしっかりと分化が進んでいくとなると、義務教育機関で共生をしっかりとやる必要があります。これは、基礎と応用の関係性と似ています。
しかし、義務教育期間で共生しかやらなかった場合、それ以降の段階でいきなり分化が始まってしまいます。上記にもあるように教育とは、社会全体と個人の両方に働きかけ、その両者のバランスが重要なものです。いきなり分化が始まった場合、そのバランスを取ることが非常に難しくなるため、分化は段階的に導入する必要性があります。そのため、義務教育後と接している中学で導入するのが妥当だと判断できます。となると、残った小学校では共生をしっかりと教えないといけません。
以上の理由で、私たち教育研究部は、小学校では共生を重視し、中学からは競争を徐々に導入し、高校からは競争を使った分化を進めていくべきだと考えます。

[まとめ]

今回のWSでは、様々な質問をしましたが、それらに一貫したテーマは共生原理と競争原理についてでした。
もう一度この原理について説明します。
まずは、共生原理についてです。この原理は、前提として差があることを認めながらも、それを露骨にはっきりさせるわけではなく、なおかつ差を広げようとしないものです。例えば、このWSで出たものだと、グループワークが該当します。
次に、競争原理についてです。この原理は、個人の能力を伸ばして競争させるものです。例えば、このWSで出たものだと、学力重視、個別最適化、中高一貫、飛び級制度、留年制度などが該当します。教育は社会全体と個人の両方に働きかけるものです。社会全体を重視しすぎても個人を重視しすぎてもダメです。どちらかに偏るのではなく、社会全体と個人をバランスよく重視した教育にすべきだと考えています。僕のターンの質問の返答は、事後スレッドで行います。
他にも意見などありましたら、事後スレッドにお願いします。2週間ありがとうございました。


以上が、教育研究部WS「義務教育を問いなおす 第1回」のログです。
次回もよろしくお願いします。

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