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好奇心、成長、孤独

目に見えるものだけをゴールとしたら、私たちは地平線の向こうには行けなかった。月にも到達できなかっただろうし、見知らぬ誰かと出会うデバイスも発達しなかっただろう。私たちの中には、生来、目に見えないものを追い求める傾向があるのだ。

「遠くを見る時は目を細めるが、はるか遠くを思う時は目を瞑る」と言ったのは大友のAkiraのセリフだった。私たちは遠くを想う術を知っているし、それは生来のものだと思う。

私たちには、未知の、自分に中にないものを受け入れる素地がある。その程度は人によって異なるが、自分の欠けた半身を探すようなところが人間には存在する。生物学的な多様性を維持するためにも、その欠けた部分こそが必要であり、欠けたもの同士を組み合わせることで、多様性は担保され、種として繁栄していく。

この欠けたものへの欲求を、古くはプラトンは「欲望」と呼んだ。キリスト教ではエロスとも言ったし、谷川は20億光年の孤独の中で万有引力と呼び、くしゃみをしたのかもしれない。

自分にないものを受け入れる素地として、好奇心は無視できない。欲望と好奇心は近いところにいるように思う。「なんだろう」という興味を生み、この想いに身を委ね、行動し、それを満たす。時に世界の果てまで欠けた半身を追い求める。なんとロマンティックであるし、なんとも厳しいとも思う。

しかし、である。

欠けた半身を欲望する私たちは、大事な事に気がつく。一つは、自分自身をよく知る事によって、初めて自分にないもの、欠けた半身に気がつくこと。もう一つは、それを手に入れても終わりのないこと。

扉の先にもう一つの扉があるのだ。どれほど世界が拡張しても、想いが実現し、半身を手に入れ、有機的になった身体は、より広く新しい世界を見ることができるようになる。つまり、埋めるべき新たな世界を提示する。結果、世界は拡張を続け、半身は永遠に手には入らない。そして、私たちはこの世界の拡張を成長と呼ぶ。

新しい扉を開けて次の世界に行った時、元の世界は切り捨てられるのかと言えばそうではない。好奇心は新たな好奇心を生み、成長は新たな成長を生む。

となると、私たちの成長とは、旅を続け世界の端っこにたどり着くような線形のものではない。元の世界を土台に新たな世界を得るという意味では、拡張していく領域/領野のような性格なのだろう。

広く世界を得て、それを土台にさらに広い視野を持ち、自分に属さない世界まで見えるようになる。成長においては大切な事だ。

一方で、その世界を見る事ができるのは、特別な土台を持った自分だけだ。結果、ある種の孤独も感じるだろう。もしかするとこの孤独感こそが、欲望や好奇心、成長の源なのかもしれない。

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