発達障害天才論と自己肯定感。

 発達障害には天才が多いって主張する人、ときどきいますよね。どういう統計なんだとか天才ってなんですかとか、よく考えると意味不明な話ではあるのですけれど。

 この「発達障害天才論」は、ほめてるっぽいからまあいいんじゃないの、と思っていた時期はたしかにあります。わたしも天才、だといいな、みたいな軽いノリ。天才じゃないのはわかってますけど。わかった上で。

 軽いノリなら、いいんです。

 問題は、軽いノリじゃ済まない人を深く傷つける可能性のある主張だ、というところだとわたしは思います。軽いノリじゃ済まないというのは、現状人生がうまく行ってないと感じている人にとって、ですね。事実うまく行っているかどうか、他人がどう思うかではなく、本人が「自分の人生うまく行ってない」と感じている人です。なかでも、自分の能力の高さにプライドを持っているというか持たざるをえない人へのダメージが大きい。

 能力って、可能性と同義だと思うのです。〜する能力って、〜できる可能性、ですよね。「医者としてのすばらしい能力がある」って、いま現在その能力を発揮してすばらしい仕事をしているかどうかは問いません。やったらすばらしい仕事をするだろうね、という、あくまで仮定の話です。IQとかも同様です。「勉強すれば素敵な成果を上げる可能性がある」ということだと思います。現状の成果は問わない。

 人生、現状に価値が見いだせないと、可能性に価値を見いださざるを得なくなるように思います。それ自体は自然な話です。でも、本当は、現状がどうあろうと可能性がどうあろうと、自己肯定感がキープできるのが理想です。だってね、「〜ができるこの子はすばらしい」と「〜ができてもできなくてもこの子はすばらしい」であれば、後者のほうが安定した愛情っぽいじゃないですか。自分に対しても同じことだと思うんですよね。
 で、可能性に価値を見出して「〜の可能性がある自分はすばらしい」と思っていたとして、ほんらいは、「〜の可能性があろうとなかろうと自分はすばらしい」と思えたほうが、精神的に安定して過ごせるように思うのです。「〜の可能性」を強調することは、「〜の可能性がある自分はすばらしい」の方向に天秤を傾けちゃうんじゃないのかな。どうでしょう。
 そして、天才である可能性というのは、「〜の可能性がある自分はすばらしい」のなかでも、もっとも威力のあるもののひとつだと思います。実際何かしらの能力があるなら、なおさら。そして、実際何かしらの能力があってそして現状の人生がうまくいっていないと感じているときの悩みは、場合によってはとても深くなります。

 「〜であろうとなかろうと自分はすばらしい」すばらしいとまではいかなくとも「〜であろうとなかろうと、ていうかいろいろどうにもなってない気もするけど、でも、自分のことはきらいじゃない」みたいに思えたほうが、たぶん人生楽しいと思います。つきあう側としても気が楽です。多少情緒不安定な時があっても、人格の根本的なところがゆらがないので、安定感があるんですよね。ちなみに、「〜であろうとなかろうと、ていうかいろいろどうにもなってない気もするけど、でも、彼(彼女)のことはきらいじゃない」のほうが、人間関係も安定します。おたがい。

 発達障害天才論を軽いノリで楽しめる人って、現状にそれなりに満足している人、つまり、「〜であろうとなかろうと、ていうかいろいろどうにもなってない気もするけど、でも、自分のことはきらいじゃない」みたいに思える人、あるいは、自分の現状にそれなりに満足している人だと思うんですよね。そういう人が楽しむのはべつにかまわない。
 でも、そういうそれなりにハッピーな人たちに無害だからいいんじゃないの、とは、いまのわたしは思いません。だって、現状に価値が見いだせてなくてそういう自分を認めることもできない、いま追い詰められている人をさらに追い詰める考えは、端的に言って有害ですから。うつの人がこれ以上増えたら困る! という精神科医的な想いでもあります。

 というわけで、発達障害には天才が多い=発達障害の人は天才になる可能性がある、というのは、現状うまくいっていなくて自己肯定感も持てずにいることと表裏一体じゃないのかな、そしてそういう人をこそ追い詰めちゃうから、そろそろみんなそういう論調から卒業しませんか。

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