「猫と暮らす」ということについて。
猫というのは不思議な生き物だと、共に暮らすようになって日々感じている。
我が家には、三匹の大きな猫がいる。
兄弟で、ブラックとレッドのオス猫。
シルバーのメス猫は、ベルリン郊外のブリーダーから譲り受けた。
年齢は2歳半で、一緒に暮らすようになって丸2年が過ぎた。
コロとチビのこと
私が子供の頃にも、犬と猫がいた。
生後1,2ヶ月で捨てられていた子猫は“チビ”と名付け、同時期に花屋さんからもらった、洋犬の血が入った子犬の“コロ”と仲良くするなら、という条件で一緒に飼えるようになった。
昭和の話らしく、両方とも外飼いだった。
しかも親切なお隣さんが、世話の大半をしてくれるという、かなりいい加減な飼い方だった。
家と家の間の通路を通り、両家を自由に行き来できる環境で昼間の大半はお隣の家で過ごし、糞の始末もブラッシングもしてもらいオヤツも貰っていた。
まさに至れり尽くせり。
お隣の老夫婦は、自分たちが60歳を越えて愛犬が寿命で死んだときに、
「最後まで面倒をみれないかもしれないからもう飼えないね、って決めてたから、コロとチビが来るようになって本当に嬉しかったのよ」
と話してくれた。
コロとチビは夕方になると戻り、夕食をもらって庭にある犬小屋で寝た。
一応「自分たちの家はこちらだ」という認識はあったらしい。
子供時代を一緒に過ごし、多感な時期に側にいた“コロとチビ”は、姿が無くなった今でも心のなかのすぐ隣で、寄り添ってくれている気がする。
子供時代を思い返すと一番先に想うのはコロとチビのことだ。
いつか死ぬ時、きっと私を迎えに来てくれる、と密かに信じている。
子供はあらゆるものに対して親和性が高いと言われている。
縫いぐるみも、子供にとっては大切な友だちで、
犬や猫はペットという感覚よりも、兄弟や仲間に近いのかもしれない。
だから、自分の子供にもそんな存在を持ってほしかった。
子供が生まれてから飼えるタイミングをいつも考えていた。
しかし猫を実際に迎え入れると決めたのは、夫との離婚話で揺れている最中。
冷静に考えてみたらかなり無茶なタイミングだった。
それでも踏み切ったのは私には助けが必要で、この状態でいるのはマズイと本能が告げていたからだ。
子供は日々成長する。
上の学校に進学したり、私にとっては未知な新しい世界を広げていっている。
そして私には、
この子たちを「親として守っていかなければ」という気負いがあった。
夫婦関係が揺れているからこそ「自分が~せねばならない」と強く思った。
「~ねばならない」はしんどい。
気がつけば、私の閉塞感はどんどん強まっていった。その状況をなんとかしたかった。
何とかしなければ、ここで生きていけないとも思った。
夏に別居が始まり、秋に彼ら三匹が来てくれた。
それに合わせて、家の中の模様替えもした。
リビングには、大きなキャットタワーが据えられて、色々ネコ仕様になった。
小さく頼りない生きものがいるだけで、こんなに家の雰囲気が変わるものか....と思った。
田舎にある我が家は、庭の奥が森に繋がっている。
周りで飼われている猫たちも、みんな外をウロウロしている。
今年になって猫ドアを付けたので、夜間外出まで可能になり一層、自由気ままに暮らしている。
彼らが外で何をしているのか、どこまで遠征しているのか?
一度は知りたいが、自由を満喫しているのは間違いない。
おそらく家族の中で一番のリア充だろう。
宿題も家事もしないでいい。
息子達は「ボクもネコになりたいよぉ」と言う。
いつも美味しいご飯があって、ニャーとひと鳴きで人間が飛んでくる。
ゴロゴロと喉を鳴らせば、おやつなんかもホイホイ貰える。
ちなみにサイドドリンクは“ヤギミルク”だ。
猫のもつ不思議
あらためて猫と一緒に暮らしてみて、不思議な生きものだと思う。
勝手気ままかと思えば、そうでもないらしい。
とてもよく私達を観察しているし、こちらが思っている以上に周りに気を配っている。
何より驚いたのは、私が辛い時や泣きたい時に、
すごくよいタイミングで、そこに居るのだ。
最初は偶然かと思ったが、そうではないみたい。
そばに来た子を抱き上げてもふもふの中に顔を埋める。
温かくって優しい匂いがする。
時々、甘い花の香りがすることもあって不思議だ。
そうやって抱いていると、自然に本音がこぼれ出る。
ほろほろっと溢れる言葉が、猫の毛のぬくもりの中に消えていく。
あまり抱っこが好きでないはずなのに、そういう時だけ私の気持ちが落ち着くまで腕の中にいてくれる。
心が落ちつくだけでなく、フッと見えなかった事が解る時がある。
ずっと探していた答えが、胸に浮かんでくる。
ネコが教えてくれているのだろうか。
自力では到達できない、自分の中にある深い場所に、猫が連れていってくれるのかもしれない。
猫には、目に見えないものを繋ぐ不思議なパワーがある気がする。
人間が一番偉いのか
再び動物と暮らしてみて、いつの間にか「人間が一番偉い」と思っている自分に気がついた。
自分の尊大さにドキリとして、
子供時代のコロとチビがいた頃を思い出してみる。
私は子供の頃、動物が大好きだった。
昆虫も爬虫類のヘビやヤモリも平気だった。
将来、漠然とだが獣医さんもいいなぁと憧れた時もあった。
それが思春期を迎えた頃くらいから、だんだん動物の世界から離れていった。
看護婦(まだそう呼ばれていた時代だった)になるために、18歳で親元を遠く離れ医療の世界に飛び込んだ。
看護の世界を通じて「人の奥深さ」に触れ、人間に惹かれ興味が湧いた。
“人間という種”に自分も含まれるから、その心模様をもっと知りたいと思うようになっていった。
そしてそれと反比例するように、動物への興味が薄れていった。
それだけではなく、いつの間にか私は「人間中心主義」になっていたのかもしれない。
人間だけの世界に暮らし、人間が作り上げた価値観や世界観が絶対だと信じて生きることは苦しい。
なぜならこの世界は、あらゆる生物が織りなす偶然や必然で成り立っており人間もその一部だから。
人間中心主義は結局、自分の逃げ場を無くし「不寛容」を産みだす気がする。
結婚が壊れてしまった時に、子供と一緒に日本に帰ることを真剣に考えた。
結局、そうしなかった理由はいろいろあるが猫たちの存在が大きい。
無心に心を寄せてくれ、安心して外から帰ってくる彼らを見ていると、私にはそれを守る責任をヒシヒシと感じる。
最後まで面倒をみること。
良い猫生を全うさせること。
彼らがいなければ、「私は日本に帰る」という決断をしたかもしれない。
その可能性は、実はすごく高かったんじゃないか・・・と今にして思う。
「猫がいるから日本に帰らない」と、ドイツに残る理由を話すと、あまり共感は得られない。
それはそうかもしれない。
きっと、猫を飼う前の私だって同じような薄いリアクションをしただろう。
物言わぬ生きものと生活するなかで、私の動物観は明らかに変化した。
日々の生活のなかで、彼らが側にいるからふっと気が抜けて、息がつけることがある。
思いつめなくてもいいじゃないか・・・と彼らの匂いが教えてくれる。
温かな体温を感じると、独りぼっちで生きているわけではないと気がつく。
“人間がなによりも重要ではない”と、いろいろな生がこの世にあると感じて、視野が広がっていく。
いつの間にか自分で自分を、小さな枠組みの、小さな価値観にはめ込んでいることに気がつく。
人間の世界は、彼らの世界よりも複雑で不条理だ。
でも....そういう世界に己れを埋没させて生き続けなくてもいいんじゃないか。
人間世界に生きるしかなくても、色々な視点を持ってやっていけばいい。
そして、日々の暮らしのなかにある、不思議や楽しみを、これからも彼らと一緒に探していきたいと願っている。
時々苦しくなったら、彼らを抱っこさせて貰って、
モフモフに顔を埋めよう。
そして顔を上げて、またやっていこうと思う。
未熟な、ひとりの人間として。
「これからもどうぞよろしくね💓」
2021年12月7日(火)
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