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あいつにだけはみられたくなかった

どうにかこうにか最低限の暮らしの維持はできているかもしれないが

もう少しお金が欲しかった。

 私がトロントで生活していた頃、日本人の経営する割烹でアルバイトをしていた。

 トロントでは名の通った日本食のレストランで寿司カウンターが私の担当だった。

英語もろくろく喋れないくせに平然とアルバイトに応募して採用されてしまった。商売人の家庭に生まれついての性か接客業の面接で落とされたためしがなかった。

 初日はフロアマネージャーに付き添われていたし滞りなくことは過ぎたものの2日目からはそうもいかない。

 「Would you like something?(何になさいますか?)」と尋ねてみても返ってくる返事が聴き取れない。

ある時飲み物を聞いているのに、何度聞き返しても「kuri〜」としか聞こえないオーダーを頂いた…「クリ?」それはどんな飲み物なんだ?

2度確認してもやっぱり「kuri〜」としか聞こえない…

ホールにいるマネジャーに尋ねてみた

「あの〜、くりってどんな飲み物ですか?」

マネジャーは「はーっ?」って、「もう一回聞き直しておいで」って。

で、再度カウンターのお客様の元へ行って尋ねるもまたもや

帰ってきたのは「kuri〜」…もうどう聞いても私の耳には「くり〜〜」としか聞こえない。…しかたなくマネージャーに泣きついた。

マネージャーは「仕方ないわね」という顔して代わりに聞きに行ってくれて戻ってくるなり大笑いされた。「あのね〜お客様は何度も言ったそうよ!キ・リ・ンってね!」

…なんだキリンビールのことだったのか…。

よくもこの英語もろくろく喋れない酷いレベルの人間をアルバイトといえど雇ってくれたものだ…しかも寿司カウンターに…と感心する。

感心ついでに自分のことを過信しすぎてしまったのかもしれない。

私は新聞広告で日本の大手企業の求人広告をみつけてしまった。

今のバイトの倍は稼げるサラリーが載っていた。事務のバイト。

…そうだ、もう少しお金があったら旅行にも行けるし高級な料理店にも入れる。

それに貯金だってできる…だいたい夕方までの勤務だから今とは違って夜は遊べるではないの…。

勘違いというか、血迷ったか、どっちだかわからないがその有名企業の面接に行ってみることにした。そんな私に相応しい言葉がある…「身の程知らず」だ。

「何事もやってみなくちゃわからない」…というのが我が精神である。

そりゃあそうさ間違いない…「やってみなくちゃわからない!」

だけど何事にも限度というものがあろうか…とも思う。

その日面接に訪れた巨大なビルはひっそりと静まりかえっていた。

日曜日ということでビルのテナントはお休み、ロビーの巨大な吹き抜けからは人の気配すらなく、面接をしてくださるフロアにだけわずかに人がいるらしい感じだった。

私の他にも何人か面接に来ていてどの人もみな優秀な顔ぶれに見えてすっかり意気消沈してしまった。

 どだいはなから私はお呼びでない。

そんなことはわかっていたはずなのに…世界が違いすぎた。

だからだったのだろうか…

面接を終えて、まるで手応えのかけらもないどころか、ひたすら恥しかかけなかったような気がして真っ暗なトンネルをおずおずと歩いているような気がしていた。

そんな私に受付のお姉さんが丁寧に帰り方を教えてくれた。

1階のフロアーの正面玄関から帰るのだけれど、休日で閉まっているビルの巨大なガラス扉を手動で開けて…つまり自分で開けて帰らないといけないらしい。

その説明ぐらいは私でも聞き取れた…聞き取れたはずだった。

私は言われたように壁にあるボタンを押した。

…その途端、静寂をぶち破る全館を揺るがすような大きな音で警報器が鳴り響いた。私はびっくりして耳を覆った。

私は一瞬、頭が真っ白になって何が起きたのか理解しかねていた。

この警報器を鳴らしたのはもしかして私なのかどうかさえ理解できなかったかもしれない。だけど帰ろうにも目の前の大きなガラスの自動ドアはピクリとも動かない。

…呆然と外をながめていると同じレストランで働いている大嫌いな男が向こうからやってくるではないか…

ドアの向こうとこっちでお互い顔を合わせたものの、その男はことの次第を直ぐに飲み込んでしまったらしく私を指差して目を見開いたあと、天を仰いで大笑いした。

…最悪ってこういう事なんだ。

そうこうしているうちに後ろから走ってくる足音が聞こえ、面接のときに案内してくれた女性が「どうされたんですか?」と尋ねるので、事情を話すと

「そのボタンを押すのではありません。その下のレバーを引っ張るのです。」

と、私のミスを指摘してくださったものの、時すでに遅し、ガラス戸の向こうに日本の消防車よりずっと大きな立派な消防車が乗り込んできた。

その一部始終を見ていた同僚の男は腹をかかえて笑っている。

ドアが開くと「もう、本当に最高だよ。何をしでかすやら…」といって、私の横をすり抜け、多分彼も面接を受けに行った。

…案の定、その日の夕方、バイトにいくと、会う人会う人みんなに「今日は大変だったんだってね!」と含み笑いで言われた。

内心「あのヤロー」と何度もこぶしを握った。

私の嫌いないけ好かない男は中国人なんだけど多分少し別の国の血も混ざっていそうであった。中国人というには肌が浅黒かった。目が顔の両端に離れ気味で美男子とは程遠いにもかかわらず、なぜか日本人の私の友達も含めていつも誰かと付き合っていた。日本語も英語もペラペラでトロントの大学に通う大学生だった。そして普段から自分は頭が良いのだと吹聴して歩くような品のなさで、日本の東工大に行くのだと豪語しているのも気にいらなければ、過去に付き合った女(あくまで本人の弁なので定かではないが200人もいるらしい。)のリスト(一人一人の様々なデータ)をパソコンに入れているというからさらに気持ち悪く、心底いけ好かない。もっともいけ好かない男であった。

そいつに私の弱みを握らせてしまったことにむしゃくしゃしていた。

その日から事あるごとに私のやらかした失敗談を持ち出しては馬鹿にするのが悔しかった。どうあっても彼の英語はペラペラで私など遠く及ばなかったからだ。

 だけどどうしたことかその後私がそこを去るときも彼はまだ同じ店で働いていた。あの面接はどうなったのだろう。あんなに頭の良さを自慢していたくせに落ちたのだろうか…私はその後を知らない。

 でもトロントのバイト時代を思い出すたび…否、消防車を呼んでしまった珍事件を思い出すたび、あのいけ好かない男のこともセットで思い出す。

果たして彼は東工大へいけたのだろうか…?


…人の「嫌い」や「大嫌い」の向こうには必ずその原因がある。

その原因は相手にではなく自分の中にあるものだ。

いけ好かない男の向こうに何をみていたのだろう。

自分の中にもある汚れた欲だろうか…

その欲を見続けて見続けて何もなくなるまで見続けることが必要かもしれない。

…好きも嫌いも消える境地まで

 



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