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いつだって今日がはじまり

Saucy Dog……生意気な犬

彼らのバンド名だ。
生意気でもいつの時代も愛されてきた“スヌーピー”のような存在になりたい、という意味が込められているらしい。

2019年10月25日、僕は、時間が経つにつれて雨脚が強くなる仙台の街にいた。
Saucy Dogの「いつだって今日がはじまりツアー」に参戦するためだ。
土砂降りの中、会場に向かう。
開場を待っている時に、その場にいた大勢のスマホからエリアメールが一斉に鳴り、大合唱になった。
終演後無事に家に帰れるだろうか、そんなことをぼんやり考えているといつの間にか開場時間になっていて、並んでいたファンが続々と会場へ飲み込まれていった。

それから数時間後、大雨の中走る高速バスに揺られながらこの文章を書いている。

彼らの曲は、強く頷きたくなるような言葉が沢山散りばめられていて、共感性の高いものだと思っている。
そんな彼らの曲たちに綴られている言葉は、僕たちファンにとってとても大切なお守りのような存在であると同時に、彼らにとっても本当に大切な、心に刻まれた言葉だということを確信した。

彼らは、ずっと悔しかったのだろう。

《誰かの冷たい視線に怯えながら/ギターを掻き鳴らした日々も/ガラクタの山に見えるかも知れないが/これには夢が詰まっているんだ/別に理解はしなくてもいいけれど/馬鹿にだけはしないでくれ》"Tough"

アーティストや作家など所謂エンターテインメントを提供する人たちは、言ってしまえば、売れなければ食っていけないわけで、そういう人になりたいと夢を語れば、”大人“たちは「現実を見ろ」と声を揃えて、冷たい視線を向ける。
「叶うわけない」と嘲笑われる。
「いい加減”大人“になれよ」と呆れられる。
見向きもされずに心無い言葉ばかり浴びせられる、そんな時代が彼らにもあったのだろう。

《『大丈夫だよ/きっとあなたならできると信じてる』》"真昼の月"

《「言いたいやつらには/勝手に言わせておけばいいさ」》"ゴーストバスター"

この歌詞は、きっとそんな辛く苦しい時に彼らが誰かにかけてもらった言葉だ。
諦めかけて立ち止まっていた足をまた一歩踏み出す力になった言葉なのだろう。
そしてそれは歌詞になることで、彼らだけでなく僕らファンにとっても前に進む力を与えてくれた。
先述したゴーストバスターの歌詞はサビにあたる部分なのだが、1番では《お前の言葉で僕は今日も生きてる》と続き、彼らが受け取った言葉になっている。
だが、最後のサビでは後の歌詞が《今度は僕がお前を救ってあげるよ》となっており、彼らからのメッセージになっている。

諦めずに音楽活動を続けてきた彼らがキラキラした照明に照らされながらステージから投げかけるその言葉たちには説得力がある。
少し高いところから手を引いてくれている感覚だ。
薄っぺらくない、熱量のあるその言葉に救われたのはきっと僕だけではないだろう。

MCで、vocal、guitarの石原慎也が以前仙台で行われたとあるライブの話を切り出した。
なんでも、自分自身に苛立ってギターを叩き壊した事があったのだそうだ。

自分自身に苛立つ、きっと誰しもが経験したことがあるのではないだろうか。

やるべきことは自分が1番わかっているのだ。
それなのに、なんとなくモチベーションが上がらなくて、まぁ後でいいか、なんて言って先延ばしにして後々後悔する、そんなことがよくある。
自分自身に甘えてしまう瞬間だ。

《やる事があるのは分かってる/一番の敵はテレビゲーム》"真昼の月"

《できなかった事は大体/先延ばしにしていた事だったり/あの時やっておけばなんて/もう後の祭りだったり》"雀の欠伸"

こんな自分の弱さによって生み出される後悔の歌詞が、彼らの曲の所々に鏤められている。
先述したMCで語られた“自分に対する怒り“も後悔同様、どうしようもない自身の弱さから生まれるものだ。
普遍的な事だ。
でも、だからこそそんな日々から脱却するための言葉は大きな意味を持ち、多くのファンに力を与える。

《ぶつかった壁乗り越えずただ腐って/泣いた日々に手を振ったグッバイバイ》"グッバイ"

アンコールの最後、つまり締めの一曲だった”グッバイ“の冒頭の歌詞だ。
自分に甘えて、後悔をして、その繰り返しだった日々に、そしてそんな自分の弱さに手を振って別れを告げる、そんな曲だ。
石原慎也は数年前にこの場所でギターを叩き壊した自分に手を振る。
それに倣うように、僕も今までの自分に手を振る。
変わりたい、と言いながらも口ばかりで努力できずにいた自分に別れを告げる。
僕の夢を叶えられるのは僕だけだから。
僕を変えられるのは僕自身だから。

《描いた未来を創る事に必死に/食らいついていく まだまだやれる筈》"グッバイ"

色とりどりの照明が涙に反射してそれはそれは綺麗だった。
数多の光の欠片の向こうで彼らは幸せそうな笑みを浮かべていたように思う。

記憶が薄れていくのに抗えず、少しずつ色々なことを忘れていってしまう中でも、今日、たくさんの人に埋もれながら、過去の自分に手を振った瞬間、きっと変われる、という期待が、変わってみせる、という決意に変わった瞬間だけは絶対に忘れないだろう。

気づけば、高速バスは終点まで来ていた。
バスを降りて電車に乗り換える。
ライブという非日常からゆっくりといつもの日常に向かって最終電車が走りだす。
徐にスマホを取り出して、彼らとの出逢いとなったMVを再生した。
ある日、突如として「あなたへのおすすめ」に現れたとあるMV。
なんとなくタップしたあの瞬間から気付けば3年近くの月日が流れている。

https://youtu.be/agQ23NdBROY

出逢ったばかりの頃はバンド名を言っても、彼らの曲を口ずさんでみても「知ってる!いいよね!」と言ってくれる人は周りに1人もいなかった。
それが今では、「チケットが取れない!」という声をよく耳にするようになった。

ああ、確かに彼らは前に進んでいる。
確実に大きくなっている。
この先、ファンの数は増え、会場の規模は大きくなっていくだろう。
それこそ、バンド名の由来のようにスヌーピーのような存在になると思う。
よく使われる言葉で言うなら、「遠くに行ってしまう」だろう。

《またどっか遠くで いつか》"いつか"

イヤフォンから流れてくる最後のフレーズ。
画面には夕焼けに染まる海辺が映されていた。
ライブの終演を告げるような石原慎也のお決まりの台詞が、出会いの曲のこのフレーズによく似ている。

「いつか、またいつか、あなたに会えますように」

曲自体は所謂失恋ソングなのだろうから元は別の意味(別れた恋人へ向けた言葉)なのだろうが、歌詞によく似たこの台詞になった途端、僕たちファンへのメッセージに聞こえてくるのだ。
お互いにそれぞれの人生を一生懸命生きて、前に進んだその先で、また会いましょう。僕らはこれからもっともっと大きくなってみせるから、ともに頑張りましょう。
そう言ってくれている気がするのだ。
次に彼らに会うときは、胸を張っていられる自分でありたいから、そのためには今からの自分が頑張らなければならない。
きっとまたすぐ弱い自分が顔を出して、まぁいいか、なんて科白を吐いてしまう時があるだろう。そんなときは今日のことを思い出して前に進もうとしたい。
今日この日のことを無かったことにはしたくないから。

「いつだって今日がはじまりツアー」

今回のツアー名に込められた意味、それはきっとどんなに後悔しても、自分次第で未来は変えられる、ということでは無いだろうか。
自分の欲望や周りの空気に流されて、まあいいか、と言ってしまう、そんな甘ったれの"過去の自分"に別れを告げて、前に進もう、そう思えた日が「はじまり」になる。
そんなはじまりとなる「今日」を会場にいる一人ひとりに届けるためのツアーだったのではないか、とそう思う。