1969年の地球上では100馬力競争をGT-Rが制し、究極のZがとどめを刺す
世界が固唾を呑んで生中継をみつめたアポロ11号の人類史上初の月面着陸。そんな1969年の日本車を一言でいえばパワー競争元年、と言ったところでしょうか?東名高速が名古屋まで全通し、東京~大阪が高速道で一本につながって、日本も本格的な高速走行が求められる時代になった、という印象です。
この時期には大気汚染を防ぐアメリカのマスキー法案と共に自動車の安全向上も叫ばれ始めた頃。北米基準を満たすために、国産車の計器盤も軒並みパッド付の大袈裟な造りのものに替えられていました。
GT-Rと聞けば大半の人は現行型R35を思い浮かべるでしょうが、旧いRと言ったらR32の四輪駆動でしょうか?それとも初代のPGC10=ハコスカGT-Rの方?
あの当時のGT-Rは異色中の異色づくめの存在でした。
今なお語り継がれるGT-Rの神話が市場に降臨したのは69年初頭、レーシングカー・ニッサンR380のエンジンをスカイラインというファミリーカーのエンジン・ルームに押し込んだGT-Rが具現化し、その同じエンジンが年末に登場したフェアレディZにも最強版として搭載されたのでした。
フェアレディと言えば英国が得意としたオープン2座のスポーツカー。それを屋根の付いたジャガーEtypeクーペ風に大変身させるのは勇気のいる改革でした。しかし,時代はもはや屋根無しのクルマを許容しない環境となっています。大変身したフェアレディには究極の意味を込めてZというサブネームが付けられ、さらに究極の最強版がZ432として70年代の始まりを飾ります。
GT-Rに刺激を受けたのか?それとも旧モデルトヨタ1600GTの刷新なのか?1900ツインカムを搭載したスポーツモデルがマークⅡGSSと銘打って発売されます。車両形式を見れば実質的な1600GTの後継車であることは明白(RT55➡RT75)
この年のホンダは歴史に残る二輪車を開発・発表していました。ナナハンの愛称で世に知られるCB750fourは英国製大排気量車に対抗するため、バイクに直列4気筒エンジンを抱えさせて、高出力・高性能がアメリカ市場で大人気に。ホンダの躍進にも大きく寄与する事になります。
さらにアポロ11の月着陸より少し前から業界の話題をあつめたのがホンダ1300という前輪駆動の4ドアセダン。N360の成功を土台とした高出力・高性能セダンで5ナンバー乗用車の市場にホンダが殴り込みをかけるぞ!と色めきだったのでした。1300でありながら100馬力を発揮すると言う高性能ぶりはほかのメーカーには真似出来ない芸当です。が、N360のような大ヒットにはなりませんでした。もしなったとしてもコストをかけ過ぎたと言われるこの車が経営のプラスになったかどうか?以降ホンダの高出力路線は仕切り直しになるのでした。
名車スバル360も11年目にして初めてのモデルチェンジを敢行、ベストセラーの座・奪還を期してホンダN360に挑んだのはフィアットにも似た可愛いスタイルのスバルR2。リアエンジン×後輪駆動の2代目のイニシャルが由来で、伝統のメカニズムは継承されています。
これには老舗の軽・三菱ミニカも応戦,プロペラ・シャフトを残したまま窓の大きなハッチバック付きの2ボックス・ボディを纏ったミニカ70に生まれ変わります。
三菱の大変身ぶりは5ナンバーにも及び,それまでは地味で保守的なセダンだったコルト・シリーズを名前も(コルト)ギャランに刷新し、角型ヘッドライトにシャープなウェッジデザインをまとった魅力的な4ドアセダンをデビューさせました。サターン・エンジンと銘打った新型エンジンで、最高速度は1500AⅡGSで175kmを謳うなど、型破りの高性能も発揮して三菱車のイメージを根底から覆してみせました。
前年ファミリアにロータリークーペを追加したマツダはルーチェにもロータリー・クーペを追加します。こちらはお値段でファミリアの倍近く、少量生産の高級パーソナルカーの位置付けでした。これまでより一回り大型でパワフルなエンジンで前輪を駆動するFFはマツダ車で初の試み。センター・ピラーの無いハードトップもマツダ車で最初の例でした。その美しいプロポーションは後に続くルーチェ後継モデルとは一線を画した孤高の存在です。
前年トヨタは、スプリンターを専売車種としたトヨタオート店を組織していましたが、カローラのエンジン等を流用したお買い得車種、パブリカ1000を投入します。それまでの非力な2気筒空冷800ccとは打って変わってスポーティー・イメージをアピールしたのはカローラ登場時に倣ったもの。実はこの時、資本関係を結んでいたダイハツの工場に生産を委託して,ダイハツからもコンソル・テベルリーナという瓜二つの乗用車をリリースします。ダイハツが自前で開発したコンパーノ・ベルリーナの実質的後継車となるものでした。アメリカでよくみられた双子車という手法で,エンジンはそれぞれ自社のモノ.ボディは共通化してコストダウンを図った合理化策でした。
ここを起点に日本車にも兄弟車の時代が到来する事になります。
大阪では千里丘陵を舞台に万国博覧会の準備が着々と進み、1970年を目前に迎えようとしていました。人類の進歩がテーマの一つ、あくなきパワー競争は続くのか?それとも人間が暮らす環境との調和が重視されるのか?
日本車は、とりわけ軽自動車は第1期の黄金時代を迎えようとしていました・・・・
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?