どん底の時代を描いた映画;フェラーリ、どう悩んでも買えないのが実車のフェラーリ

正直なところこの映画をどの様に評価していいのかまだ分からない。エンツォフェラーリの名前はカーマニアでなくとも広く浸透してることでしょう。そんなカリスマの栄光でもなく、サクセスストーリーでもない、最悪だった時期を描いたこの映画。正直、エンドロールを見ながらフェラーリファンにお薦めすべきなのか考え込んでしまった。


なぜ?
映画の冒頭は愛人宅からの帰還風景。幼い隠し子を起こさぬよう、フランス製の地味な4ドア・セダンを坂まで押していって、押しがけで静かにエンジンを始動して(昔私も多用しました)朝食までに自宅に帰る。おまけに、戦前から付き合っていたこの愛人と隠し子の存在もやがて共同経営者の妻にバレてしまう。
正式な妻との愛息ディーノが夭逝したことや、毎朝エンツォがその墓前に花を手向ける程溺愛していたことは6気筒の新型車にディーノと命名しフェラーリの名を冠さなかった事からも窺い知れます。

彼が没した昭和の終わりの頃と同様に1957年のフェラーリ経営状況は芳しくなかった。イタリア国内1,000キロ(ミッレ・マイル)を昼夜の別なく走り抜けるミッレミリアと言う危険な公道レースに優勝する事で賞金を獲得し、起死回生を図ろうとしたエンツォを描いたのがこの映画。1957年だから、まだ東京タワーもスバル360も特急こだまも生まれる前。クラウンとかダットサン位しかお店に並んでいなかった時代。レース事故で僚友を失い若き才能の命を幾度となく奪い愛息を病魔に奪われ、一般公道でレース観戦中の観客の命までも奪ってしまうことになる、そんな彼の死生観がもう少し詳しく垣間見られるのかとも思ったが、あくまで事象の描写に留まっている。
イタリアのメディアは事故のたびに殺人鬼とか、人喰いの罵声を浴びせる・・・・フェラーリ礼賛一辺倒ではなかったようだ。


事故で仲間のドライバーを失った翌日の月曜に引退を決め次の日曜日にはレースに復帰を決める、と言うセリフに彼の死生観が凝縮されているのかもしれない。あるいは・・・・

コーナーリング手前でたとえラインが一本しかないとしても相手に譲る様なブレーキングは決して認めない。それが死に直結する危険なものであってもだ。

この2つのシーンだけから彼の本性を垣間見ることができる気がした。


あまりに危険な公道レースということでこの年のミレミリアが結局最後の正式な開催となってしまいます。が、優勝者Piero Taruffi spanned が10 時間 27 分で真っ先にフェラーリ315sをゴールに導いたことなんて知らなくても、この家族映画は多分楽しめます。レース・シーンも一生懸命演出されてはいますが、回転系の針と効果音がシンクロしていない事を不思議におもわず、イタリアの風光明媚な景色をバックに往年のレースカーが疾走する姿をボーッと見ている方が幸せかもしれません。フェラーリ・マニアには・・・・・

それより街をゆくフツーの車に大注目!よくまあフィアットやアルファ、プジョーの古い車を動員できたものだとことらの方が感心します。小道具もプレスが構えるカメラの数々もまた然り。沿道で手を振るエキストラの衣装も?・・・・・

監督自身も熱狂的なフェラーリファンのはずで、いったいこの映画で何を描きたかったのか?今しばらく考えてみます・・・・・

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