第38話.バックルームのプロバカートル【Original Sin】

 
 車の助手席に乗り込む八足(やたり)。後部座席には、ふわふわとした金髪ボブカット、紺色の制服を着た少女が座っている。傍らにはラベンダー色のランドセル。
「落ち込んでる?」「別に」「連絡先、教えたんでしょ? 来たくなったら来ると思うよ」
 八足がシートベルトを締めたのを確認して、車を出す千景。
「莉恋(りこ)が熱出して、学校に迎えに行ってたんだよね。八足くんを塾で降ろしたら、今日は仕事早退するから」
「夏目先生」
 車列の流れを見て、国道に入るタイミングを窺う千景。
「橘さんの知り合いでした」
「え? そうなの? 橘って怜莉だよね?」
 千景が答えた瞬間。轟音を伴う強い雨が降り出し、車体に当たる。歩いていた人々は慌てて、様々に傘を広げ始め、行き交う半身を覆う。
「これから話す事、誰にも云わないって約束してもらえますか? 莉恋ちゃんも」
 後ろを振り返る八足に「分かった」と直ぐに返す莉恋。車内は豪雨の中に閉じ込められる。
「今日、見学に行きたいって頼んできた子。『自分はもう存在していない』って……でも……存在していないのは、さっき」
 八足は自身のスニーカーと通学バッグに視線を落とす。
「橘さんの影の上に一瞬だけ現れた、女の人です」
 国道に入って、車を進ませる千景はハンドルを握ったまま「んー?」と考えている。
「お化けなの!?」
 後ろから莉恋が好奇を含む大きな声を出す。


「限界です」
 鋏を持つ鏡花の耳を、壁向こうの遠くより響き渡る母の声が素通りしていく。
「授業を聞いていないなんて次元の話でなくて心此処に有らずといった感じで一日中鋏を持って家中の箱を切って突然食器棚や冷蔵庫の物を一列に並べて確かに年長の時に弟を亡くして構う余裕はありませんでしたし面倒を見ていた父方の祖父も祖母とは別宅に住んでいたので祖父も入学前に亡くなって通っていた幼稚園は養護教諭が卒園時には問題は確かに幼稚園の友達とは別の小学校もうすぐ二年生になるのに最初はカッターを持って」
 一軒家の奥にある隠し部屋の様な子供部屋。昼間もカーテンは閉められて薄暗い。フローリングの床に座る小学一年生の幼い鏡花はレトルトカレーの箱を手に取ると接着部分に鋏の刃を入れて、真っ直ぐに滑らせていく。

 そしてバックルームのドアは外側から押されて、コンクリートの床に一筋の光が入る。

 カナリア色のエプロンを掛けて、髪をポニーテールにしたまりかはカッターの刃を仕舞い、開いたばかりの段ボールを畳んでいく。
「まりかちゃん」
 名前を呼ばれ、まりかは、やっと気が付く。入って来た女性は同じ色のエプロンを外しながら「今日は二人とも上がっていいって」と声を掛ける。
「あ、はい」
 まりかは重ねた段ボールを持ち上げて、他に倣って壁に立て掛けていく。
「そういえばドラックストアカメヤなのに、店のキャラクターって犬ですよね?」
「それね。お客さんが教えてくれたの。昔は犬をカメって呼んでいたって」
「ますますよく分からないですね」
「まりかちゃんもレジ打ちに来たら? 暗い所じゃしんどくない?」
「お客さんの方言、良く分からないし、バックルームが好きなんです。其れに2月にはバイト辞めるつもりで」
 まりかは後ろボタンに手を掛けて、エプロンを外す。

 疲れ切って帰宅したまりかは居間のビーズクッションに凭れかかり、今日の仕事を思い出しながら、意識を混濁させていく。

 かたんっと音がして、目が覚めて、発話する。
「おはよう。桜海くん」

「……え?」
「え?」
 ローテーブルにティーポットを置いて、ソファの縁に片膝を載せていた怜莉は、りんねの顔を見つめる。
「……何で……桜海?」
 夢現のまま、りんねはベランダ側の壁を端から端まで眺めて、視界に黄色の椅子をみつける。ソファに寄りかかっていた身体を起こして「私、眠ってた?」と訊ねる。テーブルの下の無造作に置いたトートバッグから雪崩れる香典袋。目にしてしまった途端、はらり、とソファに涙が落ちて、りんねは「怜莉さん」と口にする。
「あたし、どうしたら良かったのかな? ……飛行機」
 泣き顔を上げて、怜莉と目を合わせるりんね。
「梶さんに予約してもらったら良かった? 梶さんに話せば良かった? どうして、あの時も助けてって、云えなかったの……か……」
「りんね? 何の話?」
「……ごめんなさい。わから……な……怜莉さん、私……りんねだよね? りん……」
 俯いて、りんねは「どうしよう。どうたらいいの?」と口にし続ける。
「りんね」
 耐えきれずに、覆い込む怜莉。温度もあるのに手応えも確かに感じるのに、確かに顔も声も『りんね』ではあるのに、正体が分からない相手を怜莉はきつく抱き締める。

「ね? りんね。どうしたら良い? オレ、りんねの事……何も……」 

 言い掛けて、やめる怜莉。


 ケータイを切ると、立ったまま、雨が打ち付けた後の窓を眺める松田。梶と國村が座る和室の入り口前に戻ってきて、腰を下ろす。
「桜海、何の用だって?」
「怜莉くんが早退したって」
「なんで?」
 國村は傍らに資料を積み終えると、梶を見る。
「修治の電話はなんだったの?」
「代表の入院前に尋ねて来られた元警部さんです。梶さんと一緒に怜莉くんの面倒を見ている……小松刑事の、元上司です」
「何が何だか分からないな」
 20センチ程の高さになった資料の山に、國村は手を置く。
「多くの登録者が、仮定、推測を元に研究をしてきました。貴方の役に立ちそうなのは此の辺りでしょう」
 云うと立ち上がる國村に、松田が勢いよく声を掛ける。
「待って! 何処に行くの!」
「千景くんが早退しましたから、夕方以降の授業は引き受けます」
「一日中、開けている塾ってのも大変だね」
 襖の丸い引手に指を掛けている國村と、見ていた和綴じにまとめられた束を閉じる梶。
「此の期に及んで、未だ二人とも話する気も無いの!?」
 叫ぶ松田を向く梶と國村。
「……足並みは揃えない方が良い。結局、『於菟の研究』は見たい物しか見えなくなります。しかし正体は鏡。同じ考えになれば、同じミラーハウスに閉じ込められる」
「でも省吾さんはいつまでも勉強しないし!」
「えー」
「また適当な返事! 修治も動かないで!」
 松田は其の場で電話を掛け始めて、スピーカーにした通話口から呼び出し音が長い間、響く。
「千景? 何処? 莉恋は私が面倒見るから。戻ってきて! 授業して!」
 云うだけ云うと、電話を切る松田に溜め息を吐く國村。
「千景くん、返事していませんよ?」
「そういえば、オレを名前で呼ぶのって百音ちゃんだけよね?」
「だから! 省吾さんは何で話を逸らすの!」
「ちょっと不味いなって思って」
 作務衣を着た梶は持っていた資料集を床に置く。それから壁際額縁の12種類の印章の図を指差して、松田だけが先を見る。
「そもそも『印章』なんて単なる『影響力』に過ぎないんだよね。でも影響力の強さが可視化、数値化され、万人の知識になれば、大抵は相当、面倒になる。光輪や光背が罪人にあっちゃ不味い。聖人以外の影響力を認めたなら、パワーバランスが崩れる。偶然に辻褄の合う理由が成り立ったのが仏教。けれども一過性であり、『於菟の下』にしか残らなかった。と、まあ、百音ちゃん、こういう風に一通りは勉強してきたけど?」
 松田を見る梶の話に、國村は諦める様に再び畳の上に座る。
「大人同士の話なんて、聞き手と話し手に分かれなければ、互いに好き勝手を云うだけになりますよ」
 今度は國村が松田を見る。
「先日も梶さんに話しました。あらゆる疑問には宗教的回答が用意されている。納得が行かないのならば他の宗教を当たれば良い。ありとあらゆる学問すら行き着く先は神の域です」
「で、オレさ。『中央』に来て思った事があるのよ。日本各地から赴いて、異端者である『於菟』に触れようとしている人達の多さに対して『印章』を持っている人間の少なさ。此処は自らに箔をつける為の場所になっているの」
 二人から話掛けられる松田の握り締めるケータイの、ストラップの鈴の音が鳴る。和室の入り口前片隅で梶と修治は、お互いに気遣いながら丁寧に思う事を口にしていく。
「『中央』に来る為だけに僧籍を貰う者も居ますからね。通信教育もありますし、短期間での得度は出来る。現に小松刑事も資格は持っている」
「まあ、但しよ? 虎の絵を渡された登録者は『印章』を持っている者が多い。『秘匿の印章』を持っていた修治の母親の遺した『虎の絵』は現在の『中央』よりも確実に秘密を守ってくれる」
 國村はもう一度、大きな溜め息を吐く。
「利用されているとは思いませんでした」
「修治さ。代表の息子が『13番目の印章』を持って生まれたのは『印章のジンクス』じゃないの?」
「……捉え方によってはそうなるかもしれませんが」
「でさ。修治の始めた無料塾の生徒はどうよ? 県外からも『印章』を持った子供だけを受け入れて、分かった事あるの?」
 考えながら黙り込む國村をじっと見た後、松田は梶と目を合わせる。
「少なくとも『イブ』は来ていません」
 今度は梶が意味を捜したまま、黙り込む。
「桜海くんはあくまでも『13番目の印章』の半分である『アダム』の印章。過去の記録によれば、後発である『イブ』の印章を持った者は追って11年以内に産まれる。
 『アダム』は『イブ』を捜そうとし、『イブ』は『アダム』を捜す様に作られている。しかし彼女を桜海くんと会わせる訳には行きません。
 まりかさんには、知らせず『イブ役』を押し付けていた。しかし、彼女はもう居ません」
「オレはさ。日本でも『印章のジンクス』は発生するし、オレ自身も発生させると思うのよ?」
「どういう事?」
 松田は視線を投げ、ケータイを握る指に力を入れる。
「オレの『印章のジンクス』は、オレが心配している人間に起こるらしくてね。インドに留学中。友人の助けと思い、『背後にある円』を記録し出して間もなく、彼は無理心中に巻き込まれた。『中央』に所属して『印章』の概念を知って、ジンクスとの関連を疑う様になった。そして、まりかちゃんを亡くした。更に当時は、怜莉の面倒を見ていた」
 梶は松田を見て、「ね?」と云う。
「修治。桜海が『イブ』と会ったら、何の問題がある訳?」
 國村は躊躇いつつ、答えを返す。
「桜海くんには善悪を求められません。『アダム』の行動決定は『イブ』にあり、『イブ』の意思決定は『他者』にある。『イブ』が禍を招こうとするならば、残念ですが、桜海くんは手を貸してしまうでしょう。更に質が悪い事に歴史が繰り返すうちに『アダム』が可能を『イブ』は覚えてしまった。『アダム』に出来る事は近代の『イブ』には出来る」
「じゃあ何? 桜海がまりかちゃんに懐いているのはまりかちゃんが『イブ役』だったから?」
「そうなります」
「だったら怜莉は」
 梶は、一気に話していた流れを止める如く、深い息を吐いて、國村と松田、どちらの顔も見、話を続け始める。
「だったらさ。怜莉は『アダム役』を押し付けられていたりしない?」
「ちょっと待って! なんで私の可愛い怜莉くんまで、どうして!」
 松田が梶の前に身を乗り出した瞬間。梶の真後ろで襖が開き、梶が振り返る。
「えー?」
「あれ? 本当に入って来たら駄目な奴……でした?」
 千景がまとまって集まっている三人と、和室に散らばっている多くの冊子に目をやりながら、敷居を跨ぐのを辞める。
「百音と國村先生のどちらにも用が合って、梶さんにも」
「え? オレ?」
 梶が素直に訊ねて、國村は千景から梶に目を移す。松田だけは開いた口が塞がらず、千景をじっと見ている。



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