第36話.燻製ニシンの虚偽【Original Sin】



「……こういうのって、お金が入っているんじゃないの?」
 地面に落ちた香典袋をしゃがんで拾い集める八足(やたり)の背を、定まらない視界の中、見つめている鏡花。渡したら即座に立ち去るつもりだった八足は、黒と白の水引を直視して、溜息を吐く。
「……葬式で渡すものじゃん」
 受け取りを拒まれた袋を集め終えて立ち上がる八足。鏡花は動きにつられて上を向いて、しかし顔を強張らせ、動けない。
「昔からなんだよ。知らない人に声掛けられたり、頼まれたり」
 あからさまに嫌な顔をして、押し付けられる隙を捜すも、目の前の人物は自分よりも明らかに泣き出しかけている。諦める八足は昼下がりの駅に剥き出しで異質な、白い束を掴んだまま。
「あのさ」「……あの!」同時に声を出して、先に「は?」と警戒を込めた返しをする八足。
「……オレンジ色って……何年生……ですか」
 意味が分からず、暫く間を置いて、自分の学ランの刺繍を思い出す八足。
「あんた、鴗鳥中?」
「……え」
「うちとそこだけなんだよ。教室以外で一年中、学ラン着せられるの。他の中学の奴なら何で学ラン? って訊くんだけど」
 茫然とする鏡花。目の前の相手がどの程度、『臥待鏡花』を知っているかは学年で変わる。一年生は黄色。二年生は……混乱し続けるよりも訊いて自衛の糧にする筈が、却って、身元を明かしてしまう。
「……あんたが受け取らないなら、オレが行ってる塾の先生に渡しておくから」
 八足は歳下相手に困惑が伝わらない様に強がったワントーン高い明度で話しかける。
「警察に持っていくとさ。あんたもオレも平日昼間に中学生が何しているんだって話になるし」
「……何……をしていたの……ですか?」
 ハッとして、しかし、ぎこちなく訊ねる鏡花に一瞬唖然として「あんた、意味分かんないな」と逆に冷静になってしまう八足。
「親はどうだったとか、なんて声を掛けてきたとか、何でオレが引き受けたのかとか。訊く事、他にあるじゃん」
 痺れる手を口元に持ち上げて、考え込む鏡花。周囲は今も滲んだ儘に映っている。それは目の球体に沿い、涙が落ちずに留まっているせいとわかる。
「……死んじゃったら追加する設定がない」 
「は?」
「あの!」慌てて俯いて、鏡花は必死に声を出す。「塾だったら!」
 しかし続けようとしても言葉に呼吸が絡み込んで、もう丁寧にしか声を出せない。黒いジャンバースカートの縁と銀色のミュールにも涙がはらはらと落ちて、思わずに両手を目の下を拭う。
「……何も……訊かれ……ませんか? ……塾にうちの中学の……生徒……は」
 それでも鏡花は絞り出す様に八足に訊ねる。対応しきれない事態に八足は思わず「今から一緒に塾に行く?」と大声を被せる。
「あんたのとこの中学って、学区内の塾しか認めてないじゃん? でもあんたみたいなの例外だと思う」
 涙は落としても俯かない鏡花は微かに反応を示し、八足を正面からみつめる。灰色の横髪に手を掛ける。
「オレの行っているところさ。訳ありの奴しか居ないし、あんたみたいなの慣れてると思う。まあさ。オレも最近やらかして……温和しくしてて」
 止まらずに通り過ぎる電車に押し出された風は構内から改札口を抜けて、一瞬、二人の足元の砂を揺らす。
「オレが一年の時、鴗鳥中の先輩一人居て。あんたの学校の先生達、騒いだらしいけどさ。結局、その先輩、塾の協力で中学を辞めて、高校も行ったし」
 耳に残る後半。髪に触れる手と涙がやがて静かに止まる鏡花は八足をみつめる。
「……何とかしてもらえるんじゃねぇの?」
 ぽつりと云う八足に、鏡花もぽつりと訊ねる。
「……詳しく……訊いても良いですか?」


「りんね? うん。りんちゃんはね。本当は、りんねって云うんだよ。お兄ちゃんは……梅ちゃん?」
 和室に戻って来た桜海は雨粒を抑えたタオルを肩に掛けて、襖を閉める。上座と下座の間、怜莉と律の両方が見える場所に座り込む桜海。
「どうしたの?」
「この前、西の門を見に行ったら、外側に子供……兄妹が居て」
「だったら赤星さんとこの兄弟だと思うよ? あの道、狭いし、ほぼ赤星製麺の私道みたいになっているし」
 黙り込む怜莉の前方に流れるポニーテールを眺めた後、「何かあったの?」と桜海は律に訊ねる。律は怜莉の残した花梨のコンポートを食べ終えてから空の食器にフォークを掛けると「そうですね」と答える。

「んーんー」
 フリーペーパー冊子のKAREN11月号を両手に握り、テーブルに肘を付く桜海もまた難しい顔をする。
「偽名に使うには不自然な名前じゃないとは思いましたが、過去の話にも類似点が多いんですね。他は……辻褄は合わせようとすれば合ってしまうものだし」
 律も頬杖を付いて、悩んでいる怜莉の顔を下から覗き込む。
「つまり怜莉さんと一緒に住んでいる女性が『りんね』と名乗って、此処に書いてある『今月死去した事になっている水野花』の偽名も使っている上に、年齢もわからない。
 実生活でもペンネームを使っている娘さん本人か、娘さんのフリをして水野花を名乗っていた母親か」
「りっちゃん。母親の可能性は薄いと思う」
 桜海の声に顔を上げる律。
「ネットでも創作を疑われて、りっちゃんには正体がバレたんでしょ? 尻尾が出ちゃう『秘匿』も居るけど、『秘匿』って実はバレたいのにバレなくて、あれ? 説明出来ない? えっと、こうなってこうなって、こうなる感じ?」
 冊子を置いて、ぱたぱたと手を動かす桜海。手から頬を浮かせた律は桜海を見て「との事です、怜莉さん」と今度は怜莉の方を向く。
「あとは、そうですね。架空の『水野花』に成りすましている……何の関係無い人の可能性もあります」
 桜海は説明を補いきれずに動かしていた手をぴたりと止め、怜莉も濃い影をテーブルから遠くして、二人は律の言葉に注目をする。
「花さんの情報は誌面に何度も書かれています。第三者でも『水野花』のフリは出来ますし、現に掲示板に降臨したり、ブログを開設したり、巧妙な『なりすまし』もそれなりに居ました」
 また両肘をついて、組んだ指の爪先を見ている桜海に「桜海は」と怜莉が話し掛ける。
「オレが薬指の指輪について訊いても答えなかったの、分かってもらうのは難しいと思ったから?」
「ううん。全然。だって、分かる訳ないじゃん?」
 深刻に問う怜莉に対して、唐突にカラッとした口調で答える桜海。
「ずうっと一緒に居たまりかちゃんが何を考えているのか、全然分かんなかったんだよ? 理解って、経験の応用の想像力だと思う。だから理解なんて相手の想像任せ。オレ、こっちに来るまでコロッケパンって食べた事無くって。初めて食べた時、めっちゃくちゃ絶望したの。なんなら半年も落ち込んだし」
「どういう事ですか?」
「こんな美味しいパン、どうして今まで知らなかったんだろうって。あの絶望感を分かれ、って云われても……困る? よね?」
 疑問形で律に首を傾げる桜海。暫しの沈黙の後、律は思わず笑いながら「確かに似た経験はありますが、絶望はしませんでした。理解ではなく想像しただけですね」と答える。
 まりかが遺してくれたという、シルバーの細い指輪。目を微かに伏す怜莉は難しい顔を続けたまま。
「けど、桜海は、まりかさんには大事な事を訊かなくて後悔しているって」
「うん。理由を話してほしい訳じゃなくて、いつでも話を訊くよ、いつでも何処にでも付き合うよ、って伝えられなかったの」
 二人のやりとりを訊きながら、食器をテーブルの端に寄せる律。
「怜莉、あのね。『印章』って、わりと小さい時にね、保身しようとして使い方に癖が付いちゃうんだよね? 怜莉レベルの影響力なら本当は暗黙知も分かっちゃってたと思うんだよ。でも情報量が多過ぎるから形式知の表面? 表層? ブレーキを踏んで、情報を選んできたと思うの」
「ああ。本来なら相手の脳内の映像にBGM、味覚、嗅覚、触覚の『曝露』も出来ちゃうんですね?」
「そうそう。りっちゃん、話、早―い! もっと五感以上の、重さとか温度とか、湿度とかも。でもね、怜莉は相手が『言語化出来ている』ところだけ拾っちゃうの」
「そこまで万能じゃないと思うけど……ね。律。花さんの誕生日は公表されて」
 怜莉が話している最中、律は身を乗り出すと、親指で弾みをつけた人差し指で怜莉の額を思いっきり弾く。
「痛っ。はあ?」
「!?」
 思わず額を抑える怜莉。桜海は驚いて固まっている。
「怜莉さんと同じ1984年。梅雨生まれだそうです」
「……冬じゃなくて?」
「桜海さん。怜莉さんって、職場でもこんな感じですか?」
「え? う? いや? あ、でも最近は情緒不安定?」
 元の位置に身を戻す律。庭の濡れた樹々に光が当たり始めて、窓に届く。畳に映る影は形を変える。
「単刀直入に訊きます。怜莉さん。彼女の正体が狐でも狸でも、幼女でも老婆でも、女でも男でも」
 怜莉の目をじっと見て、
「貴方は引き止めるつもりですか?」
 と訊ね終える。


 律に玄関迄送られて、赤い車での帰り道。怜莉と桜海は市内に入ってからも幾つかの話をして、やがて桜海が亀を助けた話も終わる。
 桜海はハンドルを回しながら「りっちゃん、やっぱり恰好良いし、優しかったね」と云い、次の信号を確認して、ブレーキをゆっくりと踏む。
「オレは会う度に怒られている気がするんだけど」
「うん。りっちゃんは怜莉のママって感じ。本当は、今日は夜勤って云…」
 停止しようとした車を点滅する寸前の青に勢いよく突っ込ませる桜海。
「え? 何?」
「え? いや、気のせいだと思うけど……思……灰色の」
「灰色の髪?」
「う、うん。……怜莉の彼女が駅前に居た様な」
「停めて!」
 慌てて、助手席のシートから背を浮かせると、怜莉は走行中の車内でもうシートベルトに手をかける。


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