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不合格のレモン

ここは、クラシキの路地。

観光地と住宅地のはざま、陽気な空気がひと段落する曲がり門に、小さなお茶スタンドがあります。リヤカーを手直しして作られたであろう調理台と、店主と、あと一人くらいを雨から守るパラソルがあるだけの小さなお店。

とある2月の日曜日、午前11時。ダウンコートやマフラーはまだ手放せませんし、雨も降っている。そんな天気ですが、中学生でしょうか、数人のグループが、傘とおしゃべりの花を咲かせながら、お茶スタンドの前を通り過ぎました。

「じめっとした天気も関係なし。いいなぁ。学生の笑い声というのはなぜこんなに活気を感じるのでしょう」
店主らしきおじいさんは、穏やかに目を細めます。

「ええ……」
しかし、お客さんでしょうか、となりに立つ男は、むしろ沈んだ面持ちで、コップで口を塞いでしまいました。

「どうされました?お茶が、お口に合いませんでしたか?」

「いえ。失礼、そういうわけでは。少し、家族のことを思い出してしまって……」

「ご家族のことを思い出して落ち込んでしまわれるとは、きっと、ただ事ではありませんね」

「いや、大したことではないんです。ただ、どうすればいいのか、わからなくて…」


客の男、名はBといい、若い医師でした。B医師は、くたびれた黒い折り畳み傘以外何も持たないまま、まだ寒さが芯に残る2月のクラシキの路地を歩いていました。表情は暗く、目線は自分の靴先にへばりついているかのようです。

賑やかな場所に行く気にはなれず、観光客の集まる通りから2つ3つ奥に入ったところを、しばらく歩いていると、『お茶』とだけ書かれた素朴な看板が目に入りました。

そこは、どうやらお茶スタンドで、簡素な出張カフェのような印象を受けます。人当たりの良さそうなおじいさんが、湯気の上がるティーポットを楽しそうにのぞいています。

こんな店、いつからここに?と、長く見すぎたせいか、B医師の視線に気づいた店主が声をかけてきました。

「こんにちは。今日も冷えますね」

「あ、いや。ええ……そうですね」

「ちょうど紅茶がいい頃合いです。どうです、一杯飲まれませんか?」

「いえ、結構。財布を、今は持っていないので」

「お代はいりません。この店は少々商売が下手でして、値札というものをつけ忘れているんです。あっはっは」

なんなのでしょう、この人は。どうやら少し変わったお人のようです。

「とはいえ、たまに寄付をしてくださる方がおりますし、私も儲けたいとかではなく、人を待っている間の慰めですから。そういえば、今日はいいレモンがあるんだった。これをカットして入れようではありませんか」

おじいさんはレモンを一つ取り出しました。調理台の下部に収納スペースがあるようです。

そのレモンの溌剌としたこと!そそくさと立ち去ろうとしていたB医師は、なんとなく、見入ってしまいました。

「いい色でしょう。まんまると太ったカナリアのようです」

「え、カナリア?あ、あぁ、きれいな黄色ですね」

店主のおじいさんは、備え付けのまな板で、レモンを輪切りにカットしました。

「はい、できましたよ。うちのレモンティーです。お召し上がりください。温まりますよ。私も一杯、もらいますがね。ほっほほ」

B医師は、ためらいながらもコップを受け取りました。まぁ、たとえお金を請求されても数百円のことでしょう。

B医師は、レモンティーを一口啜ります。あ、おいしい顔。紅茶とレモンの豊な香りにつつまれているようです。

ちょうどその時、学生の賑やかな声が、春を待ちきれない風のようにお茶スタンドの前を通りすぎ、やがて凪ました。

B医師の表情は、悪い夢でも思い出したかのように、曇ってしまいました。


「申し遅れました、私はクラシキのアルフォンスと申します」
丁寧に頭を下げながら、お茶スタンドの店主が言いました。

「アルフォンスさんですか?」
《見た目は、日本人のようだが》

「余計なお世話ではあるのですが、あなたが、こちらに歩いて来られている時から気になっていました。とても暗い足取りで、歩いておられましたので。こんな天気です。気も滞りましょう。ですが、あなたはそれ以上に、落ち込んでおられるようです」

雨は、しずかにパラソルを濡らし、コップの中では、ゆらゆらと茶葉が舞っています。

「そうかもしれません。元気がある、とはいえませんね」

「せっかくの日曜日なのに。ご家族のこと、とおっしゃっていましたね」

「大したことではありません。むしろ、よくあることと言える。息子が受験に失敗した。それだけです」

B医師は、まるでプラスチックスプーンを折り曲げてゴミ箱に投げ捨てるかのように、大きいため息をつきました。たとえ熱があっても、今の彼には診断してほしくないですね。

「そうでしたか。息子さんはおいくつで?」

「小学6年生で、次は中学です。志望校には落ちましたが、地元の公立校に行けますし、別にこの世の終わりではありません。ただ、私と話をしてくれなくなってしまいました。私の方もです。どう声ををかければいいのか、わからなくなってしまいました……」


「わかったよ、お父さん。塾に行く!僕、受験頑張るよ」

《ふぅ。ようやくわかってくれた》

B医師とその息子は、数ヶ月間の話し合いの末、中学受験への第一歩を決めました。約束だった、筆箱とシャープペンシルを新調し、駅前の評判のいい進学塾に通うことにしました。

ところが、性に合わなかったのでしょうか、息子はだんだんとサボるようになりました。授業中はボーッとしてしまい、宿題はこっそり解答を写しこなしていたので、模試の成績は全く上がりません。

ある日、解答は正しいのに、途中式が全く書かれていない算数ノートを見つけたB医師は、成績不振のわけを知りました。
B医師は、怒られていじける息子を、努めて冷静に諭そうと試みます。

「知っての通り、お父さんは医者だ。たくさん勉強しなければなれない仕事だ。お父さんだって勉強は得意な方ではなかったよ。でも、努力した。おじいちゃんおばあちゃんに怒鳴られながら、踏ん張ったんだ。今、この家族が豊かな毎日を送れるのは、お父さんが若い頃に勉強を頑張ったおかげだと思っている。君にだってできる。中学受験はその一歩目だ。わかるだろう?君のため、君の未来のためなんだ」

さて、息子は、どう感じたのでしょう。生意気をすることもありますが、根は素直な子です。B医師は、受験が終わるまで、なるべく叱りつけず見守ることを決意しました。実際、勉強を毎日手伝えるほど、医師の仕事も暇ではありませんし。
息子も、やがて気を入れ替え、答えを写すことはやめたようでした。


「不合格の通知ハガキが届いた時、息子は無表情でした」
B医師は、ため息まじりに話しました。

「受験なんかさせやがって、と怒ることもありません。でも正直、僕の方こそ、なんて声をかけたらいいのか、わからないのです」

アルフォンスは、口を挟まず、B医師の話に耳を傾けます。

「少しは期待していたんです。息子ですから。私が正解だと知っている道を、信じて努力して欲しかった。私が息子に期待するように、彼にも私のことを信じて欲しかった」

「ふむ……」

「でも、その道が塞がれた時、私はなんと言えば良いのでしょうか。
『君なりに頑張ったね?』『次のチャンスに活かそう?』
とんでもない、落ちたのは努力不足です。
『お父さんだって失敗したことあるよ?』
なぜ自分をコケにしなければならない。私は……、私は、息子にまた期待したいんです。でも……それが、できそうにない……」

B医師が一気に喋り切るのを見届けたアルフォンスは、一口、お茶を啜った後、こんなことを語り始めました。

「一つ、昔話をいたします。古代ローマのお話ですが。ある貴族が、隣人から、庭に実ったというイチジクを一個譲ってもらったところ、とてもおいしかった。それで、自分の庭にある木にも美味しいイチジクが実ることを願い、お祈りをいたしました。毎晩、神々にお願いをするのですが、残念なことに、彼の庭にあるのはレモンの木だけ。翌年実ったのは酸っぱいレモンでした。怒った男はレモンの木を切り倒してしまいました」

含みのある、こっけいな話ですね。B医師もそう思ったようで、
「それは、息子がレモンの木で、頭の弱い男が私、ということでしょうか」

「あなたは成功されました。イチジクの美味しさを、よくご存知だ。そして、息子さんにも、あなたと同じように成功するよう、期待をしていた」

「はい、それはもう」

「でも叶わなかった。次回を信じて期待しても、また裏切られるかと思うと、もう期待などしたくないと思ってしまう」

「まぁそうかもしれません、けど、今だけでしょう!どのような励ましが正解か、わからないだけです。息子には、こんなところで折れてもらっては困る!」

レモンの香りが、すーっと二人の間を通り抜けました。

「息子さんに期待をかけるのは、親として普通のことです。自分の子に期待をするなという方が、非情に思えます。しかしです。一体何を期待しているんでしょう」

「それは、未来の幸せを願っています。そのための受験だったんです。社会の中で、少しでも有利になれるための武器を親は渡すべきです」

「その武器は、あなたの子の幸せを約束するのでしょうか」

「それはさすがに分かりませんが、多少は……」

「お父さん、子の幸せを願わない親がどこにいましょう。疑いようのない、自然なことです。しかし、レモンの木にイチジクが実ることを願う、これは不自然です。私たちは忘れてはなりません、人さまの幸せは、決して思い通りにコントロールできるものではない。たとえ自分の子供でも」

B医師は、黙って聞いています。

「あなたは、思うかもしれません、それは責任放棄だと。でも、あなたは、操り切ることができない物に、どうやって責任を持つというのでしょう。息子の受験結果やその先の幸せは、あなたの圏外にある。あなたは、自分ではどうしようもできない事柄が、思い通りになるように、期待しておりませんか。それは、苦しみをともなうものです」

「では、何もかも諦めるべきということでしょうか」

「まずは、受け入れてみてはいかがか。息子さんの不合格を。これは、彼の不幸せを約束するものでしょうか」

「いいえ。そんなはずはありません」

「私も、そう信じます。受験は不合格。それ以上でも、それ以下でもありません。あなたの息子さんの小さな魂は、何一つ否定されること、ありません」


B医師は、ゆっくりと、最後の一口を飲みました。おや、先ほどより少しだけ、頬が暖かそうに見えます。

少し考えた後、B医師は言いました。
「たしかに、レモンだって、こんなにおいしい」

お礼と共に、アルフォンスにコップを返します。

「帰られますか、はい、それがよろしいでしょう。いいえ、本当にお代は入りませんよ。またお会いしましょう。さようなら」

(fin)






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