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妹の結婚式で見つけたヒーロー

親の愛情を改めて考えた日のこと

私は3人きょうだいの長女で、妹と弟がいる。
下の二人は優しくて頭も良くて、私の自慢だ。そんな私たちを育ててくれたお父さんとお母さん。彼らなくして私たちはいなかったし、今でも家族5人のLINEで週1はやりとりをするくらいとても仲が良い。

先日、そんな可愛い妹の結婚式に参列した。
自分の結婚式の時は、みんなが自分達を祝福してくれて、とにかく楽しくて、バタバタして一瞬で終わってしまった。
友達の結婚式は友達を心から祝福し、みんなのこれまでの生い立ちだったりを改めて知れて幸せを分けてもらってきた。
そして今回初めて姉妹の結婚式に出て、一緒に育ったかわいい妹が別の誰かと幸せになっていく姿を見送る、親でもないのになんだか胸がキューっとなる、そんな感動を覚えた。

この結婚式を通して私は改めて父が私にくれた愛情の大きさを知った。

幼少期の父との関係

私が8歳までは、父は割と家にいた。
私が4歳の時に妹が生まれたが、お母さんを取られたとか、お姉ちゃんなんだから我慢しなさいと言われたとか、悲しい記憶がない。
母が妹につきっきりの時は父が抱きしめてくれたし、先に生まれたからという理由で我慢を強いられたこともない。
それは私が8歳の時に弟が生まれてからも変わらなかった。

8歳になってからの父は時代もあるかもしれないがとにかく多忙だった。
夕飯を一緒にとった記憶はほぼない。
帰ってくるのはいつも夜中で、朝も私が起きるより早く家を出る。
昔みたいに週末は車で海や山にいくことも、本を読んでもらうこともなくなった。
ある日妹がたまたま朝あった父に
「おじちゃん、また遊びにきてね!」
と言ってる姿は、父の気持ちになると本当に切ないが、そのくらい家にいなかった。

母は子供3人に相変わらず愛情たっぷりで向き合ってくれた。
専業主婦とはいえ、3人の子供をワンオペで育てるのは本当に大変だったと思う。
しかし平等に育てられている我々は、3人いればなんとかなる精神で、電車で2時間かかる祖母の家に子供だけで行ったり、結構うまくやっていた。

ある日いつも通り遅くに父が帰ってきて、たまたま私はトイレに起きたので、父に話しかけた。父はクタクタだったと思うが、今自分がしている仕事の話をしてくれた。
8割くらいは理解できなかったが、父が外の世界で頑張りながらも、私に対等な目線で今自分が頑張っていることを話してくれたことがとても嬉しかった。
この時の気持ちを詩に書いて、私は小さな賞を受賞した。

父、ヒーローになる

小学校6年生の時に、楽しみにしていた林間学校の前日に私は熱を出した。
めちゃくちゃ落ち込んだのだが、その理由は楽しみにしていたからは2割程度で、8割はこの日のために新しいリュックやお洋服を買ってくれた母への申し訳なさだった。

「神様何ぞいない、なんで私だけがこんな目に遭うのだ、ひどい」
とメソメソしてもはや諦めていたら、いつも家にいない父がなぜか朝から家にいた。

夜になって熱が下がった私に父は
「明日5時に起きて、林間学校行こう!」と言い出した。そして本当に車をすっ飛ばして連れていってくれた。

小学校最後の思い出だから、きっと無理をして休んでくれたのだ。別に誰も頼んでいないのに。
「これはもう、ヒーローとしか思えない、本当にかっこいい!」
と思えるようになったのは、自分が働くようになって子供のために急な休みを取ることの難しさを知ってからだった。

そして迎えた暗黒期

私は中学生になった。ここからが暗黒時代で、自分でも引くくらい凄まじい反抗期を迎える。

私の母は共感力が非常に高く、常時イライラしている私にすら寄り添ってくれた。
今でも、なんだかよくわからないけどもどうしようもないイライラと、大人になりたいのに子供である自分へのもどかしさで発狂したい気持ちをはっきり覚えている。
その気持ちを、おっとりした優しい母が理解できるのだから、彼女は本当にすごい。ちなみに妹の優しさはこの母親譲りである。

父はその当時いわゆる出世競争真っ只中にいた。彼は昔から優しくて、そうゆう競争とか興味ないし、周りをフォローして成果を出していくタイプなので、今思うとあの日々はすごく彼の心を辛く蝕んでいたと思う。

そんなことは反抗期真只中の私は露知らず、時々夕飯が一緒になる父に、教科書通りの激しい罵声を浴びせ、大喧嘩をして、母が止めに入る。
おそらく3人姉弟で唯一、父と殴り合いの喧嘩をしたのも私ぐらいのものだ。

おいおい、小さい頃あんなに可愛がってもらったのにどうしたんだい!と突っ込みたくなる。

父も日を追うごとに反抗期っぷりが激しくなる私に悩み、「反抗期の娘との付き合い方」なんて本を買っていた。
それを発見した優しい妹は、「私がいるよ、パパ!いつでも甘えてね」なんて可愛いことを言うのだから、私のよくわからない怒りの炎は更に燃え上がる。もう本当に悪循環の日々で、ついに私は家族旅行も欠席して一人でおばあちゃんの家にいく始末だった。

初めての受験戦争

そんな私もついに中学3年生になった。

そう、進路だ。

公立中に通っていたので受験は避けられない。
しかし反抗期真只中、興味あるのは流行りの音楽と恋愛と授業をどうやってサボるか、くらいの私に勉強なんて本当に興味が持てない。なので本当に勉強しないでいた。
そして中3の夏休みの通知表は、もう本当に散々たる物だった。

「あぁまたお父さんに怒られる、嫌だな。どうやって言い返そう」
と意気込んでいた私に、父は
「単語帳持ってきなさい」と言い、渡すと(ここは素直)、3時間くらい書斎に父はこもった。
出てきた時に彼が持っていた単語帳には、単語を覚える順番と、覚え方のコツがびっしり書いてあった。
「次、数学のノート持ってきなさい」と言われ、また渡す(やっぱり素直)。パラパラ眺め、次にどこから持ってきたのか、自分の学生時代の数学のノートを見せてくれた(今思うと、きちんと説明するために祖母に探してもらって用意していたのだろう)。

「これから毎日、お父さんと夜の23:00〜24:00まで、数学をやる。それから、1週間後にこの単語帳のテストをやる。これは約束だ。」
その後、父は夏休みの勉強スケジュールを作って渡してきた。反抗期の私の怒りは爆発、猛反抗し続けるのだが、それでも父はめげずに、本当に毎日数学を教えてくれたし単語テストも毎週やってくれた。
朝から晩まで働いてクタクタの父が勉強を教えてくれるので、さすがに人の子の私も申し訳ない気持ちが少し芽生え、暴言を吐きながらも、しっかり勉強した。

こうして一ヶ月の夏休みが明けたら、私の偏差値は20上がっていた。
ここまで来ると勉強が楽しくなり、相変わらず口をひらけば
「うるさいくそ親父、指図するな!!!」なのだが、通学中も学校の昼休みも人が変わったように勉強した。
そして私は、見事トップクラスの高校に合格した。
そして同じ頃父も、職場でかなりのポジションに就いた。

「俺のおかげだろ、とかお父さん言うんでしょ。頑張ったのは私なのに!」
と想像していた私に父は

「おめでとう!自分で道を開いたね。正しい道がわかればちゃんと自分で歩ける子だと思ってたよ」
と言ってきて、喧嘩腰だった私はまたしても呆気に取られた。

この私の反抗期は妹の中で相当衝撃的な日々だったみたいで、結婚式の親への手紙で読み上げていた。
「おいおい、なんでこんな晴れの日に私のしょうもない過去を言うんだよ」
と思って聞いていたが、このエピソードには他の兄弟から見ても父の愛情が詰まっていたのだ。

アドバイスの仕方は人それぞれ

父は私以外の妹弟にも、進路に迷うと必ず時間を作って向き合ってくれていた。
私は高校進学で大きな壁に当たったが、妹と弟は大学進学で壁に当たった。

私と違って勤勉で良い子だったが、自分が本当にやりたいことがわからず、そうするといまいち勉強に身が入らない。それでもいいのだろうけど、良い子なので親に申し訳無くなってしまう。
そこで父は、自分の職場や、自分の知り合いに頼み、職場見学をさせた。
文字通り見学させながら、その仕事の難しさと面白さ、他の職種との違いや関わり方を自分の知る限りで教えていた。
あぁしろこうしろ言うのではなく、心を揺さぶって本音を自分で探させていた。
真面目で良い子な二人だからこそ、そうゆうアプローチをしたのだろう。
これをきっかけに二人とも自分が学びたいこと、将来やりたいことを見つけ、無事そのキャリアを今歩んでいる。

「子供のために沢山の時間をかけることだけが愛情ではない。本当に困った時に正しい道を歩けるように、しっかり向き合ってくれたパパに感謝しています。」

妹は手紙の中でそう言った。

両親が教えてくれた、自己肯定感の高め方

振り返ると、私の両親は子供たちが幼い頃から何か決める時に、
「なぜそう思う?」「それは自分で考えて、納得して言ってるの?」
と聞いてきた。子供の頃は少々鬱陶しかったが、このwhy?を突き詰める発想は大人になってかなり役に立っている。

諸説あるが、私は自己肯定感を高めるのは
「自分で一生懸命考えて出した答えの積み重ね」の先にあると思っている。
小さくても良い。自分で考えて出した答えに自分で責任をとる。

時に約束を守れないこともある。でも自分で出した答えに自分で責任を取るという難しいことができたのだから、それで良いのだ。
誰のせいでも、誰のためでもない。自分が一生懸命考え納得して行動したのだから、それで良いのだ。

そうやって、自分で道を少しづつ作っていくことで自分を信頼できるようになり、自己肯定感が育っていく。

私はそんなことを愛情深い両親から沢山学んで生きてきた。
嫌なこともあるけれど、生まれ変わったらまた私に生まれたいくらい、私は自分の人生を誇りに思う。

妹の結婚式を通して、両親の愛情を改めて感じた。
このもらった愛情を、関わってくれる人に循環していきたい。

快晴の丸の内で、思うのだった。

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