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平和と令成の狭間を生きる僕たちへ #003

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合理的経済人としての価値観


僕は、幼少の頃より、合理的な人間でありたいと考えていたように思う。

町医者に掛かる帰り道の図書館で初めて触れた合理的経済人という考え方にひどく感銘を受けたのがきっかけではないだろうか。

経済システムの理論は人間の醜さや感情を全て捨て去って、常に合理的な意思決定を行うという前提に数学的に構築されている。

もちろん、それが現実には往々として当てはまらないという点についても十分に理解しながらも、斯様なユートピアに一種の憧憬を抱いていたのである。

集合体としての僕たちの合理性


常々、欲にまみれた大人は嫌いであった。

欲の先にある合理的な意思決定こそが美しき世界のルールであるという思いが常に根底に流れ続けているのである。

翻ってみれば、今の僕は穢なきままでいるのだろうか?

いろんな欲を失って、何か正解のようなものにしがみついている様な感じさえするのである。

「果たして、今の自分の思考は合理的であろうか?」

こう有りたいという姿に対してのプロセスが目的化を起こしていることが少なくはない。

合理的であるがために人類が生物としての進化の過程で培ってきた一種の非合理性を手放すことは果たして合理的だと言えるのだろうか?

性欲や食欲や顕示欲やはたまた金銭欲であっても何か人間の根源に訴えかける本能のようなものではないだろうか。

それらの欲を捨て去った先にあるのは、空虚な吹き溜まりであって、霞のような正解をただただ指で掬っているのでは無いだろうか。

かと言って、それが不満な訳ではない。腹が減れば飯は食う。生物の根源たる三大欲求に従った結果である。

しかし、その指標は美味しいか楽しいかなどといった生易しいものではないのだ。

どんな栄養を摂取して、如何に健康であるかという指標に過ぎない。だから高級であることには魅力を感じない。

なぜ、味よりもまずは産地や料理人を気にするようなことがあるのだろうか?

睡眠欲も性欲だって同様である。

刹那的な快楽よりも永き人生の視点で判断できる方がよっぽど合理的なのでは無いだろうか。

・・・と僕は思うのである。

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