「病気についての常識」で、改めて確認してみたいこと。
なるべく外出しないようにしているけれど、昨日は、出かけた。
帰りの電車は、人がぴったりくっつくほどの距離だった。午後8時くらいになっているのに、乗れないくらい混んでいたから、もう1台待って、それでも、けっこう混んでいた。列の一番前で待っていたから、座れた。隣の男性が少しせきをする。同じ車両の遠くの方で、せきをする声が、複数聞こえる。
この前は、これまでだったら、駅の男子トイレは手を洗わない人も結構いたのに、3カ所ある洗面台の液体せっけんが全部、空だった。スーパーのアルコール除菌はポンプを押しても何も出てこなかった。今もマスクをしている人は多い。感染を防ぐには無意味とも聞いたが、万が一、自分が無症状の場合の感染拡大の防止を考えたり、周囲の厳しい目を防ぎたいと勝手に想定して、自分もしている。
たぶん、ほとんどの人が、感染しないように、感染拡大させないように、注意をしながら、生活を続けていると思う。それでも、何かしら移動をしないと、ある程度は人と会わないと、社会生活は送れない。
感染拡大を防ぐのは正しいし、そのために適切な対策をするのは必要なことで、素人が何かを言うことはできない。それでも、感染の確率をゼロにするのは、ほぼ不可能で、どれだけ気をつけても、いつ感染するかわからないし、自分だって、病気になってもおかしくない。
少しでも外出すると、そのことは、いやでも感じる。それは、大勢の人が感じているのだとも思う。
病気は基本的に理不尽だ。
健康であるために、細心の注意と行為を、どれだけ継続したとしても、誰でも、病気になることはあるからだ。原因の分からない病気もあるし、感染する病気なら、100%避けることは、たぶん不可能なはずだ。無理をせざるを得ない環境の中で、病気になってしまう場合だって、少なくない。これは、素人でも言える「病気についての常識」だと思ってきた。
だから、病気にかかることは「悪」とは関係ない。それは、「不運」なことに過ぎず、病気になった人に、まず必要なのは、「適切な診断と治療」であり、「休息」だと思ってきた。
病気になったりするのは、前世で悪いことをしたからだ、といった因果応報という「常識」は昔のことで、現代は、それに類似することも、少なくとも公共の場では、言われるべきではない、と思ってきた。
それが、現代の「病気についての常識」だと信じていた。
だけど、今は、いくら注意をしても、もし自分が感染したら、すごく責められるような気がしているから、余計に世の中の不安がふくらんで、ひどくビクビクして、自分も含めて、疑心暗鬼になっているように思う。
「病気についての常識」は、今も変わらないままなのか、改めて、確認したい気持ちになる。
このビクビクが、自分の考え過ぎで、心配し過ぎだったら、すごく有難いのだけど。
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コロナに関して、いろいろなことが、うらやましくなって、自分が嫌になるGW 2020.5.2
読書感想 「それを、真の名で呼ぶならばー危機の時代と言葉の力」 レベッカ・ソルニット 著 渡辺由佳里 訳
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