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植物を信じる人たちの力。

 最近、妻のお姉さんから、妻あてに、いつもの「植物通信」が届き、その中に、葉っぱを切り抜いた「作品」も入っていた。その「作品」が見出し写真だけど、一見して、何を表しているか分からなかった。

 少し見続けて、私のnoteを読んでくれてもいるので、このnoteのアイコンを形にして切り抜いてくれたものだと気づいた時は、とてもありがたく、同時にすごくうれしかった。


 元々、私は、植物については、そこにあってもほとんど目に入っていなかった。
 春になり桜が満開になったり、梅雨の頃にアジサイが咲いたりすることくらいには、さすがに気がついていたけれど、道端の草の違いについては、ほとんど分からなかった。

 だけど、妻が植物好きで、植物活動をしているので、それに影響された上に、こうしてnoteを書くようになって、その植物活動への興味も強くなり、いろいろと教えてもらった上に、記事にする機会も増えて、そのおかげで、自分も植物への教養や、見る目が少しだけ上がったと思う。

雑草の庭

 妻は、昔は自分の母親も、庭で植物を育てていたから、私から見たら、妻も同じように、草花に親しんでいるように思えるけれど、若い時はそれほどでもなかった、というから、ある程度、年齢を重ねた方が、植物への気持ちの距離が、近くなっていくのかもしれない。

 それでも、妻が微妙に独特だと思うのは、植物の中でも、雑草に対して愛着が強く、道端でも、雑草の小さい集団をみると、近寄り、可愛いと言いつつ撮影をしていることが多い。そして、近くの並木の根本に、雑草が生えていると、そこに自分が好きな草花を加え、さらには名札をたてて、雑草の庭を作ったりもしている。

植物通信

 妻のお姉さんも、草花が好きで、近所で見つけたきれいな花などが、画像付きで送られてくる。それを、私も妻と一緒に見たりするのだけど、私と違って、妻は画面に顔を近づけて、かわいい、素敵、などと感想を言いながら、見ている。以前は郵送中心だったようだけど、画像に関しては、やっぱりこうしてメールなどを使った方が便利で、しかも早い。

 それに加えて、植物そのものを、送りあったり、紅葉した葉っぱをコピーした紙を同封したり、さらに電話で話をしているのを聞いていると、それは、やっぱり豊かなことなのだと改めて思うが、私の植物への関心や知識は、まだ付け焼き刃なので、そこまでのレベルの会話には参加できない。

 ちょっとうらやましいのだけど、考えたら、植物について語り合うような習慣は昔からあって、それこそ詩歌には、ずっと表現されているのだった。(そんなに詳しくなくて、すみません)。

 植物は、ずっと変化をして、でも、季節が巡ってくるごとに、同じように花を咲かせたり、実をつけたりするから、そこに安心感もあって、時間の移り変わりみたいなものを、形として表してくれているのだとも思う。

 そう考えると、植生が変わっているとはいっても、場合によっては、何百年も前の人と、同じ花や紅葉を見て、心を動かされるとすれば、植物通信を日常的に行っている、妻とお義姉さんは、そういう植物に関する長い時間の流れの、真ん中を生きているのかもしれない、と思う。

植物の生の哲学

 そんな環境に影響を受けたために、それまでは読まなかった本にも興味が向くようになった。

 これだけ植物側に立つと、人類が敵に感じるのでは、というよりも、愚かに思えているのではないかと感じるような本だった。体積より面積。世界に浸る。植物は何より「葉」である。そういった表現の凄さ。植物への絶対視が、すごいと思った。

 触れるものすべて、存在するものすべてを食料に変える力には、独立栄養という名称がついている。独立栄養は食料自給のいわば根源的な形態だが、それだけにとどまらない。それはなによりもまず、植物に見られる能力のことをいう。つまり宇宙に拡散された太陽エネルギーを生命体に変え、世界を構成するいびつで雑多な素材を、まとまりや秩序、統一性をそなえた現実に変える能力である。

 そして、自分たちが人類という動物だから忘れがちだけど、植物の歴史の方が圧倒的に長いし、植物が存在したから、今の人類もいるはずだった。

 植物が陸地に出現し繁殖したことによって、多くの物質と大量の有機物が生み出され、高等生物はそれをもとに自身を構成し育んだ。だがそれにもまして植物がとりわけ恒久的に変化させたのは、地球の様相そのものだった。つまり、植物の光合成によって大気は酸素を多く含むようになったのである。 

 さらに、植物が直接的に「世界」に身をさらすように、「浸」っていることによって、光合成もして、ということについて、ここまで語っている。

 植物はわたしたちに、浸りとは単に空間的に位置づけられることではないということを理解させてくれる。浸るということは、自分たちを取り巻き自分たちに浸透してくるなにかの〈中に〉、身を置くことだけをいうのではない。すでに見たように、浸るとはまず持って主体と環境、物体と空間、生命と周辺環境との、相互浸透という〈作用〉なのだといえる。各々の両者を物理的・空間的に区別することは不可能だ。浸りがありうるためには、主体と環境とは〈相互に積極的に浸透し合う〉必要がある。浸透し合うのでない場合、それは単に境界面で接触し合う二つの物体の「並置」もしくは「隣接」でしかないだろう。

 これは、命のあり方にまで、迫っているように感じる。

植物を信じる力

 家のあちこちに、庭の植物をつんで、妻がさりげなく、飾ってくれている。
 その名前すら全部はわからないのだけど、それでも、その姿が目に入ることで、毎日、少しずつ影響を受け続けているから、そして、そのことで、もう少し歳をとると、もっと植物への距離が近くなるような気もする。

 ただ、今の時点でも、全く関心がなかった過去と比べると、大したレベルではないのを自覚しながらも、植物への距離感は少し縮まったように思う。

 だけど、妻や妻のお姉さんや、エマヌエーレ・コッチャのような人たちは、何しろ「植物を信じる力」が強いことで、植物に関して様々なことにまで気がつくのだと思うし、どれだけ時間がたっても、その境地に達するのは無理だとも思っている。




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