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不思議なテレビ画面 「AC元年」が始まる予感の形

 もう2週間くらい前になるけれど、テレビ画面が、違うものになっていた時は、すごく違和感があった。

不思議なテレビ画面

 平面の液晶画面の向こうに、大きいテレビ画面という平面がかなりの面積を占めているのが映っていた。それが縦に4つにも分かれていて、その細さは、スマホで撮影した画面なのだろうけど、並ぶことでもっと細く見えた。

 そこに出演者が、並んでいた。それぞれが、安全のために、自宅で自撮りをしている人も多かった。さらに、左上には、別の部屋にいるのであろうアナウンサーがいわゆる「ワイプ」で笑っていたから、いつもは、10人近く一ヶ所に集まって、そのことで「祭り感」を出していたのに改めて気がつくほど、静かな画面になっていた。

 立体としての人間は、司会が一人しか写っていなくて、あとは全員、画面の中で、平面として写っていた。しかも、自撮りに明らかに慣れていない出演者も少なくなかったから、その動画の質は、時々見るユーチューバーたちの映り方よりも、劣って見えた。それは、思った以上の生々しさを生じさせていたから、美術館などで見るビデオアートのようにも感じた。

 ただ、しばらくたつと、その画面に、視聴者としても慣れてきたし、出演者も自撮りに慣れてきて、そこまでの違和感は減ってきた。それなりの完成度に近づいてきたから、今の変わってしまった日常になじんできた。

 さらに、ニュースなどで、出演者同士がソーシャルディスタンスを保っている画面にも慣れてきて昔の映像で人がたくさん集まって、くっついていたり、バラエティのひな壇的なものを見ると、近すぎて、恐いような感覚になってしまっていた。そして、春になり、華々しく始まるはずだった新しいドラマも、撮影などができなくなってしまったために、近日スタートといったあいまいな状態に置かれて、昔のドラマの再放送で時間をうめるテレビ局が多くなってきた。そのことで、ある人の演技が、ひどかったことを思い出したりもした。

 この状況は、たぶん2年くらいは続くのではないか、と勝手に予測していた。そうなると、テレビで見る内容そのものも、ずいぶん変わっていくと思った。

 せっかく4K、あとは5Gといった技術の革新も、こうなってしまっては、あまり意味がないのではないか。
 今の状況だと、出演者が一人で話して、一人で撮影するのが一番安全だろうから、そうなると、それをずっと続けてきたのは、ユーチューバーだから、新しく収録できないテレビ界が、その動画をそのまま流す日も、近いのではないか。
 そうなったら、テレビ界が、出演を依頼しやすいのは、以前はテレビに出ていた人たちだろう。すると、芸人であれば(本人は、芸人ともう言っていないかもしれないが)、キングコングとオリエンタルラジオの時代が、またやってくるのではないか。
 先をよむ力がある一部のユーチューバーは、今のように早口で多くの情報を語る方法だけでなく、テレビ画面で流されることも想定して、高い年齢層にも受け入れられるように、情報量を減らさずに、口調をゆっくりするトレーニングなど、新しい方法を探り始めているのではないか。

 深夜の番組で、生配信をしている人たちがライバーと呼ばれているのを、恥ずかしながら、初めて知ったが、彼ら彼女らが、テレビに出る時のためのシミュレーションをしていた。だけど、とても近い将来は、今テレビに出ている人間が、一人でコンテンツを作るために、ライバーに、その方法を学んでいく番組になっていくのかもしれない。

 完全に別の場所で何人もが話していても、テレビほどの違和感がないラジオの方が、秘かに聞く人が増えているのではないか。


 そんなことを思っていられる、つい2週間前は、考えたら、新型コロナウイルス に関しての不安は強くなる一方だったのだけど、治療薬が出来るはずの、さらに未来に関しての予感は、まだ平和だった。どこかで、また「元に戻る」と思っていた。

もう「元にもどることはない」予感

 新型コロナウイルスのことは毎日のように目にして、耳にして、最近になると、アナウンサーが「新コロ」という呼び方をしだして、すっかり「日常」になったことも感じた。そして、「アフターコロナ」という言葉もよく聞くようになった。この状況を、生き残れたとして、そのあとの「アフターコロナ」も、元の世界に戻れるように、なんとか頑張る、というイメージがあった。

 ただ、つい最近になって、それは不可能ではないか、と思った。もちろん、新型コロナウイルスに関して、直接的には何も知らない人間でもあるのだけど、でも、もう人間の社会は完全に変わると思った。


 結核が治らない時は、死の病だった。かかってしまった人間は、人里離れた場所に隔離された。死ぬことへの恐怖だけでなく、かかった瞬間に、それが分かった時に、人と離れなくてはいけない孤立感もあったはずで、そのことへの恐怖もあったのだろうけど、治療薬が発明されて、その恐怖や孤立感は、たぶん過去のものになった。

 多くの感染病も、粗い知識で語るのは失礼だとも思うのだけど、そうした恐怖や孤立があって、それも含めて医学や社会の力で、克服してきたのだろうと、改めて思う。考えたら、本当にすごいことだと、この状況だと、少しだけど、身に染みて、わかる気がするし、治療薬を待ちわびる切実さも、今なら共感できるような気もする。

 今の状況が始まった最初の頃は、コロナに打ち勝つ、克服する、といった言葉があふれ、聞いている方も、そんなイメージがあった。ただ、さらに専門家もふくむ、様々な人たちが、ウイルスとの共生、といった表現もしているのも目にするようになり、それでも、まだ結核などの感染症のことを、勝手に頭の中で並べて想像していた。治療薬ができると、劇的に状況も変わるのではないか、といったイメージだった。つまり、また「元に戻れる」と思っていた。

すでにAC元年かもしれない

 だけど、情報も知識も足りない未熟な人間であるのだけど、本当に「アフターコロナ」が、もう始まっているんだと急に、思えた。それは、いろいろな方々の言葉に触れることで、頭の中で、あるラインを超えたのかもしれない。社会の構造が、後戻りできない構造的な変わり方をするから、西暦を「AD」と表現するように、本当に「AC」といわれ、少しあとから振り返ると、2020年は「A C元年」と呼ばれるかもしれない、と思った。

 昔、映画などでも繰り返し描かれたような、感染力が強く、致死率も高く、それで人類が滅んでいく、というような感染症による、劇的な変化ではなく、もっと微妙に、だけど、決定的に、人類が築いてきた社会の構造を変えるだけでなく、変え続けてしまうと思った。


 これから先、治療薬が発明されると、致死率は劇的に下がるはずだ。予防薬もできれば、感染者も減るだろう。早くそんな時が来て欲しい。だけど、インフルエンザと同様に、完全になくなることはないはずだ。そうすると、毎年、新型コロナウイルスは、新型になり続けるのだろう。インフルエンザと同様に。

 感染症に対して、無知な人間でも、この新型コロナウイルスのやっかいさは、少しわかるようになった。

 感染しても、症状が出ない期間が長い。その上、症状が出てないのに、人に感染する。だから、知らないうちに感染が広がっている。そういうわかりにくい「強さ」を持ったウイルスは、治療薬ができたとしても、この特徴が変わることはないのではないか。ウイルスにとっては、自らが生き残るために身につけた、人類にとっては、やっかいであり続ける特徴が、社会を変えてしまうのではないだろうか。

微妙だが、完全に変わるかもしれない社会構造

 そうだとすると、治療薬ができたとしても、いつ誰が感染しているかわからない状況は、これからもずっと続くはずで、そうなると、人にうつしてはいけない、ということでマスクをつけるのは日常になるだろう。検査薬もできて、どの家に必ずあって、毎日、それぞれ個人が検査するという毎日になるかもしれない。それでも、その検査で陰性になったとしても、100%ではないから、「念のため」マスクもするし、人とソーシャルディスタンスをとるのが普通になるし、知らない人と会話したり、ましてやハグしたり、握手したりは、「やってはいけない」ことになるかもしれない。親しくて、感染してもいい、といった間柄だけ、可能な贅沢なことになる可能性もある。不倫などは劇的に減るかもしれない。

 治療薬ができたとしても、本人が気がつかないうちに感染し、感染を広げ、急激に重症化して、死亡する、という症状が変わらないとすれば、致死率は、さらに低くなったとしても、その亡くなる可能性を減らすためには、基本的に感染を防ぐしかない、という状況は、深刻さは大きく減るとしても、変わらないかもしれない。

 不特定多数の人が集まることはなくなる。人だかりはタブーになる。それぞれが孤立したまま、つながるとしたら、画面を通して、になるから、SNSなどが発達したのは、ぎりぎり人類にとっては幸運だったかもしれないと、もっと思うようになるかもしれない。

 プロスポーツは、基本的にスタジアムは、限りなく少数のほぼ無観客が基本になるだろう。十分に距離をとった特別室のような、少数の高額の観客席はできるかもしれないが、基本的には、観客席には液晶画面が並んでいて、料金を払った「観客」が、画面を通して試合を見て、スタジアムに設置された液晶に自らの姿もうつり(アバターも可)、声もプレーヤーに届けられるから、応援は可能になる。

 音楽のライブや演劇も、似たようなシステムになるかもしれない。

 そうしたことによって、初めて、新型コロナウイルス での死者は、おさえ続けることが出来る。そんな、まったく変わってしまった時代になることもあるかもしれない。

 もしも、治療薬ができて、ワクチンもできて予防もできるようになり、検査も完璧に近くなり、陰性であることを完全に保障されるようになれば、ここまでの変化はないかもしれないが、いったん変わってしまった意識は、元に戻るのは難しいのではないか。

 人との関係性は、変わったままになる可能性もある。「知らない人と、近くでしゃべってはいけません」、もしくは「知っている人でも、二メートル以内で、会話をしないこと」と、学校で言われるようになるかもしれない。

 ただ、そういう変化に、自分も含めて、人類が耐えられるのだろうか。多少は死んでもいい、というような方向に、人類の多数派が振り切ったら、治療薬ができた時点で、社会は、一度は、完全に元に戻るのかもしれない。

 だけど、それまで元気だった人が、1週間もしないうちに、急に亡くなる、といったことを、全体から見たら少数であったとしても、再び目の当たりにし始めると、それに、近い未来の人類は、やっぱり耐えられないことがわかって、そして、マスクとソーシャルディスタンスの日常に、もう一度、戻っていくのかもしれない。


 もちろん、ここまでのことは、根拠の薄い妄想に近いことですし、もっと明確なイメージを語っている専門家の方もすでにいらっしゃるかもしれません。その時は、無知を振り回すことになり、申し訳ないと思っています。

 ただ、いろいろな方の言葉に接することで、共生のイメージが少しできたと思いましたし、社会そのものの構造まで変えるのが、新型コロナウイルス の一番怖いところかもしれない、などと、改めて思いました。だから、少なくとも、イメージして、生き残れた時に、少しでも、変わってしまった未来に適応できるように、今から考えたほうがいいのかもしれないと思いました。

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