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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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#哲学

「病気についての常識」で、改めて確認してみたいこと。

 なるべく外出しないようにしているけれど、昨日は、出かけた。  帰りの電車は、人がぴったりくっつくほどの距離だった。午後8時くらいになっているのに、乗れないくらい混んでいたから、もう1台待って、それでも、けっこう混んでいた。列の一番前で待っていたから、座れた。隣の男性が少しせきをする。同じ車両の遠くの方で、せきをする声が、複数聞こえる。  この前は、これまでだったら、駅の男子トイレは手を洗わない人も結構いたのに、3カ所ある洗面台の液体せっけんが全部、空だった。スーパーのアル

「ゲンロン友の会」に、入会しました。

 知らない人には、「ゲンロン」も「友の会」も、何か分からない、もしかしたら怪しい話に感じるかもしれない。  「ゲンロン」というのは、東浩紀という批評家が創業した会社。 ゲンロンは、2010年4月に、批評家の東浩紀によって創業された小さな企業です。2020年4月で創立10周年を迎えます。 ゲンロンは、学会や人文書の常識には囚われない、領域横断的な「知のプラットフォーム」の構築を目指して創業されました。批評誌『ゲンロン』や単行本シリーズ《ゲンロン叢書》の刊行のほか、東京・五反

『「35歳問題」を、改めて考えてみる』。(前編)

 「35歳問題」というものが存在することを、35歳をかなり過ぎてから、知った。 「35歳問題」というものがあります。 この問題を一言で言えば、 「すべての人が、たったひとつの人生しか生きられない悲しみ」 のことです。 「プールサイド」と「クォンタム・ファミリーズ」  35歳の涙。  あまり短くすると、本質を取り落としそうだけど、まずは、そんなふうに表現され共有されているテーマらしいが、この「35歳問題」の元になっているのは、村上春樹「回転木馬のデッドヒート」の中の短編「

故郷のような「哲学カフェ」……東京都大田区「わたしも哲学」

 少しでも支援に関わるようになると、結局は、人が生きていくこと、死ぬとはどういうことか。そんなことが常に根底に関わっていると、分かるようになる。  そんなことを感じ始めると、自分が学んでいる心理学だけではなく、その源流の哲学のことも知っておかないといけないのではないか、と思い始める。  かといって、「哲学」と思うと、昔、読んだ「哲学者」の本を思い出す。ひたすら難しくて、ページを読み進むのが辛くて重い荷物を持って進んでいるような気持ちになり、油断していると、どこを読んでいる

「シブヤ大学」が、思った以上に刺激的で楽しかった話。

 私は、情報弱者に近いのだけど、それでも動画で、情報を得ることが、以前より多くなった。  本当だったら、同じ空間にいて、話を聞くことで、内容だけでなく、その人の気配も含めて伝わってくる要素が多く、そのことで、内容の細かいニュアンスや、その時の場所の居心地もあるから、より記憶に残る。  結果として、学ぶ総量のようなものが、圧倒的に多くなるので、やっぱり、できたら、直接会った方がいい。  でも、今のコロナ禍では、人と会うことが、とんでもなく難しく、ぜいたくなことになった。

「資本家」が、しばられている(かもしれない)「資本主義の呪い」を、難しいけど想像してみる。

 「100分de名著」という番組を見るたびに、伊集院光の理解力と、分かるところと、分からないところを明確に区別する姿を見て、感心もし、こうして仕事をしていく上で、さらに学んでいるのだから、もっと賢くなり、仕事も増えるかと思うと、うらやましいような気持ちにもなる。  確か、伊集院氏は、高校中退という学歴のはずだから、それから、おそらくは独学でいろいろなことを教養として身につけていて、そのアウトプットのあり方も品があるので、そのうちに、伊集院光が「学び方」についての本を出してく

「エビデンス主義」への、素朴すぎで未熟だけど、今のうちに伝えたい疑念。

 「エビデンス」という言葉をよく聞くようになったのは、いつ頃からかは、よく覚えていないのだけど、現在は、はっきりといろいろな場所で聞くようになった。  最初は、医療の世界で使われていたはずだった。それは、患者が、自分自身の治療を選択する時に、根拠のある治療を選びたい、といった文脈の中で、「エビデンス」が使われ始めたと記憶している。  患者となった場合には自分の命に関わる重要なことなのだから、そこで「根拠」を求めるのは当然のことだし、それは、「説明と同意」として「インフォー

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」②「見えにくい政策を考える」

 毎日のように新しくコロナに感染した方々の人数は発表されていて、特に、東京都内の感染者数は、10月に入るあたりから、再び増加傾向のように感じています。(全国の中で、もっとも感染者数が多いので、そこを基準にしました)。  10月1日。235人。  10月2日。196人。  10月3日。207人。  それでも、すでに以前のように大きなニュースでの扱いではなくなり、かなり小さくなっているように思いますし、私も視聴者の一人として、それほどの関心の持続が難しくなっています。当初から

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「向いている」や「向いていない」を、考える。(後編)。

「向いている」や「向いていない」という言葉が強い意味を持つ場所や、「向いている」や「向いていない」という言葉が、どれだけの効力があるのかどうかを、前編(リンクあり)では、考えてきた。  その一応の結論として、その人があることに本当に「向いているか」どうかは、分からない。やってみないと分からないし、ある程度続けないと、わからない、ということに辿り着いた。  ただ、これだと、あまりにも素朴すぎる感じだし、「自分は、この仕事に向いているのだろうか」と悩む人が、もしいたとしたら、

職場の「心理的安全性」を考える

 すでに何年前かも覚えていないが、職場に関して「心理的安全性」という言葉を初めて聞いたのは、世界的に活躍しているというビジネスパーソンが、どこかの壇上で話している時だった。  ビジネスに関連して聞いたのは、それまで記憶になかったが、心理的安全性という言葉はイメージしやすく、そのビジネスパーソンが、つぶやくように言った内容とともに記憶に残った。  日本は世界でも、会社組織の中での心理的安全性が、すごく低いのではないか。  驚くというよりは、それを聞いた時に、納得感とともに

「目的」と「手段」の関係について、改めて確認したいこと。

 自分の無力も自覚しながらも、改めて確認したいことがあります。  それは、「目的」と「手段」の関係について、です。  世の中のいろいろな(本来ならなくてもいい)理不尽は、それを間違えたりすることから始まることが多いような気がしていますが、改めて、その関係性を振り返ったり、見直したりしても、何かがすぐに変わるわけでもありません。  それでも、これを読んでくれた人が、ここから先の考えを広げてくれたり、豊かにしてもらえたら、ありがたいと思っています。 「ルール」は「手段」  

『21世紀の「大人」を考える』⑤『21世紀の「まともな大人」の基準を考える」。(後編)

 21世紀での「まともな大人の基準」を(前編)、(中編)と考え始めたら、長くなってしまいました。人によっては読みにくい内容で申し訳ないのですが、個人的に、どうして「まともな大人」のことを考え始めたり、少しでも「まともになりたい」と思い始めたのか?を書いた方がフェアだと思い、書くことにしました。すみませんが、もし、よかったら、少し重い内容ですが、もう少し読んでもらえると、ありがたいです。 気遣う言葉  約20年前、母親が閉鎖病棟に入院することになり、希望もないが、ただ通う日々

『21世紀の「大人」を考える』④『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(中編)

 精神年齢のことを改めて考え(リンクあり)、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」も再確認しようとして、それで、前回から「21世紀のまともな大人の基準」(リンクあり)まで考えてきました。  もちろん、こうしたことに本当に新しいことを付け加えたりもできないし、未熟なのも当然なのですが、混乱し、下降している21世紀に、さらにコロナ禍で、本当に先が見えなくなったので、自分のためにも改めて考えようと思いました。  そして、前回の「21世紀のまともな大人の基準」について考えた時

『21世紀の「大人」を考える』③『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(前編)

 精神年齢のことを改めて考えると「老人」はどこにもいないのではないか(リンクあり)、と思ったり、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」(リンクあり)と考え、そうなると、じゃあ、「まともな大人の基準」って何?という話に及んでくると思います。  それこそ、ずっと昔から考えられ、語られ、検討されつくしたことだとは思うのだけど、21世紀に入って、また混沌に戻るような流れがあって、さらにコロナ禍によって、また大きく変わって、変わり続ける中で、自分の能力の足りなさを分かりながらも、