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京都住みのALS患者さんが嘱託殺人で亡くなった件についてのメモ

(2020.7.28 「委嘱殺人」→「嘱託殺人」など数ヶ所修正しました)
2019年11月、京都在住のALS患者さんが亡くなり、嘱託殺人を行ったとされる医師らが数日前に逮捕された。

世の中の関心は、嘱託殺人を行った側に集まっているようだ。

しかし、ご本人がなぜそこまで「死にたい」と思い続け、実際に嘱託殺人で希望どおりに亡くなったのか。私はそちらに関心がある。ご本人に死ぬ気がなければ、自殺したい仲間や「死なせてあげる」という人々を近寄せることはない。世の中にそういう人々や交流の場があっても、ほとんど関わらずに生き続けただろう。

近日中の記事化のために、ご本人が残されたブログやツイートを繰り返し読み、私は「なーんだ」と思っている。死にたさの源は、部分的にはありふれた、極めてわかりやすい話であるようだからだ。注目するなら、そちらに注目すればいいのに。差し障りありすぎて報道しにくく、ブーメランになりかねないので語りにくくなりそうではあるのだけど。

その患者さんは、24時間介護がなければ生きていけなくなった。老親に介護を期待するのは無理だから、生活保護を利用して単身生活をはじめ、24時間介護を獲得し、生き続けていた。

しかし現実の問題として、長時間の介護を必要とすることは、「どういう仕打ちも受け入れて介護を受けて生きるか、それとも、耐えがたい仕打ちを受け入れない代わりに生きるのを断念するか」の究極の選択へとつながりがちだ。

ご本人のブログとツイートを見る限り、その気配は濃厚だ。ケアマネの横暴、ヘルパーによる虐待。介護を受けている身では、抗議も抵抗も実質的にできない。たとえばヘルパーに虐待されたとき、まず申し立てをする相手はケアマネなのだが、そのケアマネが「やり手だけど横暴」というタイプだと、何も言えなくなる可能性がある。

この患者さんは、50代の女性だった。高学歴で留学歴もある。病に倒れるまではキャリアを積んできた専門職だった。しかし介護を必要とすると、「ALS患者」としか見られない。生活保護で暮らしていたわけでもある。彼女のそれまでの人生、彼女の過去の上にある彼女の現在は、「ALS」や「生活保護」というキーワードによって、乱暴に塗りつぶされてしまう。

それでも男性患者なら、まだ「死にたい」という願望に近寄りにくかったかもしれない。その人をその人として尊重するために、その人の過去は重要な手がかりである。今のその人を「その人」であらしめているものでもある。男性患者なら、介護や医療の立場で関わる人々も、その人の過去の歩みを尊重することが多いだろう。少なくとも、それゆえに本人が生きづらくされることは、女性患者よりも少ないと思われる。

女性の場合、残念ながらそうはなりにくい。そして彼女の残した文章を読む限り、彼女が「その人」として尊重されていたとは思えない。

彼女が介護を受けていたのは、生きるためだ。

誰もが、生きるために水を飲み、食事を口にし、排泄する。そして、さまざまな社会生活を行い、文化を享受する。人によっては、特別な道具や訓練された人手が必要な場合もある。

トイレで「大」を出した後、シャワー洗浄機を使いたい人は、我が手にトイレットペーパーを持って拭かないことによって人間としての価値が下がるのだろうか? 視力が低くてメガネをかけている人は、メガネによって人間としての価値が下がるのだろうか? 特別な免許を持った人の運転する車両(タクシーとかバスとか電車とか)に乗って移動する人は、そういう人と車両を利用したことによって人間としての価値が下がるのだろうか? いずれも「否」だろう。

しかし彼女は、生きるために必要な道具や人手によって、生きる気力を削り取られていったようである。女性障害者の「あるある」だ。

彼女の過去は、彼女の救いにならず、かえって脅威になることも多かったのではないだろうか。誰でも出来るわけではない仕事をしていた彼女は、今や介護がなければ生きていけない重度障害者だ。健常な身体を持っており、介護という立場で彼女に近寄ることの出来る人々の中に、たとえば強烈な「学歴コンプ」の持ち主がいたら? これは仮定の話ではなく、女性障害者の「あるある」だ。

彼女はその人として尊重され、尊厳ある生を送るのが当然だ。それを阻害する介護は、背景に学歴コンプがあろうがなかろうが許されない。それは、彼女に対する人権侵害である。そういうことを誰にもさせないために、障害者団体をはじめとする人権活動団体がある。

しかし、障害者団体もその他の人権活動団体も、高学歴でキャリアがあった女性が受ける人権侵害に対しては、実に無力だ。基本的に想定外であったり、これまで組み立てられてきた人権運動のモデルに適合しない部分が多かったりするからだ。もちろん、「ただいまALS患者である」という部分には対応できるのだが、それ以外の部分、彼女をその人として尊重して生きやすくするために重要な部分には、おそらく手をつけられないだろう。介護者による人権侵害に対してあまり強く抗議すると、「それじゃ、ALSからは退かせてもらいます」ということになりかねない。それは、その人本人を含めて、何人もの患者が肉体的に生きていけなくなる事態を引き起こす可能性がある。

介護を提供する側の、圧倒的に強いパワーバランス。介護を提供される側は、自分の肉体を死なせられたくなければ、「連帯責任」的に自分の同類ともども肉体的に「介護しない刑罰」を受けることを避けたければ、自分らしくあることを断念せざるを得ない。せめて自分の魂だけでも救いたければ、尊厳死を選ぶしかない。これは、論理的にまったく正しい結論だと思う。前提が変わらない限り。

私自身は、「こうであってはならない」と思っている。こんな前提は変えたい。まだ、諦めていない。女性であり障害者になった人々を、そういう選択に追い詰める現実があるのなら、現実が間違っている。「尊厳死」させられなくてはならないのは、その現実のほうだ。私も結局は、「何も変えられなかった」と悔し涙に暮れながら死ななくてはならない運命なのかもしれないが、今のところは、時に悔し涙に暮れながら、なんとか死なずに生きてきている。

考えてみてほしい。

それまでの職業経験やスキル、積み重ねてきた専門性や努力が、今後の自分の人生で何ら意味を持たなくなったら?

学歴も職歴も何もかもが、「その時期にその街に住んでいた」という個人的経験と同じく価値のないものとして片付けられてしまったら?

そのような扱いを受けることが、自己責任論の入り込みようのない「ALS」、そしてALSによる「障害」「介護を受ける立場」「生活保護」で正当化されたら?

その状況、その生き地獄で生き続けなくてはならないことを解消しようとする人々は現れず、その生き地獄を結果として温存する人々しか現れないとしたら? 死にたくなるのは、むしろ自然ではないだろうか。

彼女の生きづらさの根源に手当てして生きやすくしようとする人々は、少なくとも彼女に間に合うタイミングでは現れなかった。もともと、ほとんどいないだろう。少数派すぎて現れにくい。いても、ニーズのある人に近寄ることが難しい。

彼女と似た部分をいくつか持つ私は、自分のために、自分と似たところを持つ人々のために、何がどのように自分の世界を生き地獄にしてきた(している)か、せめて声を上げ続けなくてはならないと思う。

私は、まだ死んでいない。肉体的に死んでいないだけではなく、社会的に死んでいない。職業人として死んでいない。

私を、私の仲間たちを、どのような意味でも殺すな。

「自殺はいけない」「生きてほしい」というのなら、私と私の仲間たちの世界の「生き地獄」度を増しているものを、まず取り除いてほしい。それが貴方自身の言動なら、貴方がまず止めてほしい。そして、その見返りを私たちに要求しないでほしい。ハラスメントや人権侵害は、ないことが正常な状態だ。異常を正常に戻すことは、言葉や表情での感謝を含め、どのような報酬の理由にもならない。

私は黙らない。自分と仲間たちを生きやすくするために。

多くの女性が気づいているはずだ。言いたいことを飲み込んでも、愛され受け入れられやすいキャラを演じても、生きづらくなるばかりだったことに。「そうしないから、貴方は辛くなるのだ」という、善意めいているけれども自己責任論でしかないアドバイスに従っても、何も良いことはなかったことに。

その悔しい現実を現実として受け止め、「こんなのイヤだ」と声をあげたい。肉声を発することができない人を思い、その人の分まで声高く。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。