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高校生の困窮に関する記事を書くために振り絞った「勇気」について

 2020年8月7日、『ダイヤモンド・オンライン』の連載「生活保護のリアル」シリーズ最新記事として、コロナ禍のもとでの高校生たちの困難に関する記事を公開した。

コロナに奪われた高校生たちの青春、報道されない「それぞれの涙」

 記事執筆にあたって、どうにも筆が重くなった。締め切り7時間前には準備が済み、もう「書くだけ」になっていたのに、机の前から逃げ出したい心境のまま時間が過ぎた。

障害者が「今上天皇ご夫妻」と書いてよいのかという悩み

 筆が重くなった理由は、今上天皇ご夫妻だった。7月、今上天皇ご夫妻は、子どもの貧困を解消する取り組みを続ける民間人3名と接見し、現場の状況を熱心に聞き取った。この事実を記事に書かないわけにはいかない。むしろ書きたい。だが、しかし。

 敬語はどうすればよいのだろうか。通常の皇族向けの敬語を使うことになるだろう。それで良いのか。そうするしかないだろう。だが、しかし。

 そもそも私は天皇制への関心が薄い。「あらせ奉る」といった敬語を使いたいとは思わないが、「ナルヒトがAさんを呼び出して話を聞いた」と書きたいとも思わない。だが、しかし。

 それは、一部といえども障害者に対する裏切りになるのではないか。人の平等に対する否定となるのではないか。「本人が障害者でありながら、こんなことを書くなんて」というパターンの中傷には慣れている。私が障害者だから書いてはならないことは、何一つあろうわけがない。だが、しかし。

 私は障害者でありながら、自分の同類である障害者を裏切ろうとしているのではないか。その思いを吹っ切れず、数時間にわたって机の前でグダグダしていた。

そのとき、地域にいてはならない「障害者」がいる

 今上天皇ご夫妻は、一貫して障害者差別をなくしたいと考え、行動しておられるようだ。皇族があからさまに身体障害者や知的障害者に対して差別を行おうとした事実はあるだろうか? 少なくとも戦後、私の知る限り、そんな事実はない。関係者も、結果として皇族が差別したことにならないように、その時代の制約の中で最大限の配慮をしてきていると感じる。

 しかし、精神障害者に対しては、この限りではない。そもそも日本の障害者福祉制度の成り立ちが、「障害者(精神障害者を除く)」「精神障害者」となってしまっている。皇族と障害者の接触に関しても、この区分は何らかの形で反映されてしまう。

 事実として、皇族がなんらかの行事で地方に赴く時、「そういう状況なので、精神障害者を病院の外に出さないように」という内容の通達が、警察からその地域の各精神科病院に出されていた。文書として確認されているものの最後は1980年前後だが、その後「警察等が、180度とは言わないが140度くらいポリシーを転換した」という事実はない。ならば、前例踏襲で現在も同様であるはずだ。

 国家的大イベントや皇族の各地訪問があると、必ずこの手のことが起こる。

なぜ、東京は精神科強制入院が多いのか?

 特段のイベントがなくても、ふだんから東京の強制入院件数は日本全体の20倍近い。しかも、すぐ他県の精神科病院に転院となる傾向がある。もともと東京都の患者だった入院患者をカウントすることが可能なら、東京都の強制入院件数は全国の20倍以上に達するだろう。人口を考慮しても、東京の精神科強制入院の多さは異常だ。理由として有力な説は、「皇居と霞ヶ関があるから」。たぶん、そのとおりなのだろう。

 これらの事実の一部は、2020年の東京五輪の準備が本格化しはじめた2014年、『週刊金曜日』で記事化している。1964年の東京五輪も、1970年の万博も、繰り返されるサミットや各国首脳の訪日なども、「精神障害者は閉じ込めたり監視したりしておくべき」という方向性を強めることにつながった。逆の動きは全くなかった。

昭和天皇来訪にあたって弾圧された精神障害者団体も

 1979年には、天皇行幸に際して精神障害者団体が弾圧された事件も起こっている。その団体のメンバーは、たまたまその地域で行事予定があり、その地域に集まっていただけだったのだが、メンバーが集まっていた3週間ほどの期間が植樹祭の時期を含んでいた。植樹祭期間の数日間、メンバーらは尾行などの弾圧を受け、落ち着いていた精神疾患が悪化したりもしたという。「今、そんなことはありえない」と言えるだろうか? 否。合法的に弾圧できる法的基盤は、2000年以後、着々と整備されてきている。2020年現在、一般市民が目をつけられて監視されて弾圧される可能性の高さは、1979年の比ではない。ましてや、精神障害者においておや。

「未復員」のまま精神科病院で生涯を終えた元兵士たちも

 日中戦争や第二次世界大戦に従軍した旧日本軍兵士の中には、心身の「心」に重い障害を負った人々もいた。戦後を精神科病院の中で送り、そこで亡くなった人々もいた。少なく見積もっても数千人が、そのような戦後を送り、「平成」の期間に全員がこの世を去っている。その人々が、従軍して戦争と関係した精神障害を負ったことについては、昭和天皇が関係している。天皇を国のすべてのトップと定めた大日本帝国憲法下で、天皇の名の下に行われた軍事行為によるものだからだ。

 その人々は、戦後昭和の間にも平成の間にも救われなかった。それは事実だ。救済に関する責任は、終戦と同時に宙に浮いて、そのままになってしまった。

「天皇制があるからいけない」の一言で済ませてよい問題なのか?

 天皇家の方々を含む皇族各個人は、自らが皇族であるというだけで、予期も意図もしていない波風が立っている可能性に気付いているのかもしれない。いずれにしても、その波風はご本人には見えない。今上天皇ご自身にとっても、事情は同じだろう。コントロールしたいと望んだとしても、「象徴」天皇ゆえの限界がある。「だから、天皇制をなくせばいい」という主張もある。その主張は、部分的には正しいのかもしれない。だから私は、相手に質問をする。あなたが考える天皇制のなくし方は? なくした後、現在の天皇制が果たしている機能をどこにどう移転するの? 「とにかく武力でもなんでも使って、なくせばいい」という相手に対して、私は「もしかしたら、なくすことが正解かもしれないから、聞いているんだけど」と繰り返す。そういうやり取りは、悲しい展開をするだけだった。答えらしい答えは、未だ一度も聞いたことがない。もう、思い出したくもない。

既に痛めつけられた人々を、ペンでさらに痛めつけることは許されるのか?

 さて、私は目の前の原稿をどう書けばよいのか。事実であっても、今上天皇ご夫妻を好ましい文脈で描くことは、私と「障害」という共通点を持つ人々を傷つける可能性がある。直接の弾圧を受けた精神障害者たち、間接的に「退院が遅れる」という影響を受けたりした可能性のある精神障害者たちのことを思うと、筆が重くなる。想像や妄想の話ではない。顔と名前が一致する範囲に、そういう経験をした人々がいるからだ。

 しかし今上天皇ご夫妻は、日中戦争や第二次世界大戦の時、まだ生まれていなかった。終戦から20年近くが経過したころに生まれ、戦後民主主義教育の中で育っている。ご本人たちが、日本人を兵士として戦場に送り出したわけではない。
 今後に関しては、立場に伴う責任があるだろう。しかし、過去の祖先の戦争責任や、祖父や父を守るために周辺がやってしまった弾圧その他の責任は、問われようも負いようもないはずだ。

普遍的な人権は、誰にとっても普遍的であるはず

 さあ、原稿を書かなくちゃ。私は何回も深呼吸をした。

 今上天皇ご夫妻には、同時代を生きる一人の人間として、貧困問題について知ったり発言したり出来ることをしたりする自由はないのか? 自由を奪われるようなことがあって良いわけはない。過去にそういう時代があったとしても、今、許されることではない。

 今上天皇は、好きで天皇家に生まれたわけではなく、生まれた時から職業選択の自由がなかったわけである。雅子さまは、そういう立場にある男性であることを重々理解して結婚したわけだが、それを「自己責任」として、「皇族なんだから」というレッテルのもとで言いたいことを言うことは、行為だけを見れば「生活保護だから」「生活保護のくせに」というレッテル利用と同じではないか。誰に対してもやってはいけないことは、相手が誰でも同様なのではないかという気がする。
 一人の人間が、自分の立場を踏まえて知って考えて発言して行動しようとする自由を、誰が奪えるだろうか。誰が、その事実を「なかったこと」に出来るだろうか。誰かにプラスの下駄を履かせることは、正義ではない。天皇や皇后であるという理由でマイナスの下駄を履かせることに正義があるとは、私には思えない。

読者さんにとっては? 編集さんにとっては? 敬称敬語は?

 私は、媒体の読者さんのことを考えた。天皇家が好きでたまらない読者さんも、安倍首相を熱烈に支持する読者さんも、読者さんである。読者さんの思想信条の自由を、私は尊重したい。

 さらに、媒体の編集者さんたちのことを考えた。もちろん私には、顔の見える精神障害者が繰り返し語る1979年の弾圧のトラウマへの理解を、「ナルヒトが」といった用語法で示す自由がある。一般的な編集者には、自らの編集権にもとづき、修正したり削除したりする自由がある。これは「検閲」というわけではない。記事公開の最終的な責任が編集者にあり、責任に対応する編集権がある以上(普遍的人権とは違います)、折り合いがつかなければ不掲載になるだけ。私は、同じ読者さんたちの方を向いて共に仕事をする編集者さんたちを困らせたいとは思わない。

 さて、今回の記事の目的は何なのか。コロナ禍の高校生への影響と現時点で取られている対策、そして今後の可能性を読者さんたちに伝えることだ。そのために欠くことができないから、今上天皇について述べるわけである。本題ではない方向への関心の分散は避けたい。皇族に対する敬称や用語法を一般的なものにしておくことは、関心の分散を避ける方法の一つである。

 私は結局、現在の大手メディアで一般的な用語法のうち、最も「おとなしめ」の敬語を使用することにした。

結局は、レッテル貼りによる排除を毎度のように避けただけ

 さあ勇気を奮い起こせ。原稿を書けよ。自分に繰り返し言い聞かせる。私は、誰かを出自や地位や何らかのレッテルによって排除するのはおかしいと思っているし、排除は極力避けてきた。今回もそうするだけだ。今回が特別なのは、「対象が今上天皇ご夫妻である」ということだけではないか。

 「だから許せない」という人々は、もちろんいるだろう。私にとって好ましくない脅威のリアクションもあり得る。でも、社会的関心の高いテーマについて書くときは、いつもそうじゃないか。

 私は自分を説得し、勇気を奮い起こすことに成功した。結果として、記事を書くことができた。書けて良かった。このグダグダに使ったエネルギーと時間を、記事と読者さんたちのために使えれば、もっと良かった。

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