まちづくりは人権とは無関係、ってこと?

 2021年9月19日、午後17時ごろ、信じられない発言を見聞してしまった。
 今、起こったことを、ありのままに話すよ。

とある「まちづくり」の集まりでのトンデモ差別発言

 この日の午後、住む人々も商店の数々も街自体も個性的かつ魅力的であることが知られる杉並区のとある街で、おそらく後年「まちづくり」の一つのマイルストーンとなるであろう出来事がありました。長年、この街のために尽力してきた方々を含むグループが新しい拠点を設け、オープニングの講演会(zoom)が行われたのです。私自身も、この街が注目されるはるか前から、かれこれ30年間住みつづけています。

 ところが質疑の時間に、信じがたい言葉をチャットと音声で見聞することになりました。一言でいえば、「2021年9月の日本で、なぜそんなことが堂々と言えるのか?」というレベルの障害者差別発言です。そして、スタッフも講演者も問題視しなかったのです。考え方の相違や気持ちや心がけの問題ではなく、「一発レッドカード」ものなのに。

せめて、何が問題なのかを理解してほしい

 最初にお断りしておきます。
 私は、発言者やイベント主催者、その場にいて問題視しなかった方々に対して「ぎゃふんと言わせたい」「ぶちのめしたい」「恥をかかせたい」とは考えていません。その方々の問題であるのと同時に、その方々のそういうありようが問題となっていない日本の問題であるからです。

 ただ、その方々の口や手からそれらの言葉が出たことについては、その方々に責任があります。そこには、やはり大人としての責任を問いたいと思います。せめて、何が問題なのかを理解してほしいです。相手は顔の見える範囲にいる方々、親しい人間関係をおそらく共有している方々ですから、正直なところ後腐れが怖いですけど。

自然保護活動をしている方からの「子ども・障害者・生き物」という発言

 まちづくり・まちおこしに関する2人の講演者からの興味深いお話と対話の後で、質疑の時間となったとき、地域を流れる川を中心に自然保護活動をしている方から、以下の内容の質問がありました。

1. 講演内に、話し合いが重要だという内容があった。行政とのインフォーマルな話し合いを可能にする方法は?

 杉並区のように、強権的な首長が自分のしたいように区政を動かし続けている自治体(現職の前の山田宏区政から数えると、かれこれ20年)では、行政との話し合いそのものが難題です。区内の障害者や家族や支援者は、それでもなんとか、話し合いの細いチャネルを維持して拡げつづけています。そうしないと、文字通り、生きていけなくなりますから。「殺されるか転居するか、ジリジリ消耗戦を闘うか」という状況に置かれたことのない健常者の皆様におかれましては、そんな経験はないのが普通なのでしょうね。私も、自分が中途障害者になる前はそうでしたから。

 問題の質問は、こちらです。

2. 社会的弱者を巻き込む方法のヒントがほしい。特に、声を出しにくい子どもたち、障害者、生き者の意見を吸い上げたい。

 文字通り、絶句しました。
 「巻き込む」「吸い上げる」という行動は、社会的弱者ではない側から一方的に行われるというのです。
 「声を出しにくい」人々やグループが「声を出しやすくする」「声を出した時に無視しない」のではなく、意見を「吸い上げる」というのです。
 最大の問題は、「子ども」「障害者」「人間ではない生き物」が、「声を出しにく」いので意見を「吸い上げ」られる対象として列挙されていることであり、そのことを講演者やスタッフの方々が全く問題視しなかったことです。

 子どもは、未成熟であり保護や養育の対象ですから、大人や社会からの関心や配慮を常に必要としています。とはいえ「声をあげられない」とは限りません。悲惨な虐待死事件では、しばしば「子どもが必死で訴えていたメッセージが結果として役に立たなかった」という事実が同情を誘います。問題は、子どもが声をあげるかどうかではなく、大人社会が聞くかどうかでは?

 人間ではない生き物は、人間の活動によって生存の可能性を大きく狭められ、現在は「第6の絶滅期」(CNN記事)という状況です。人間が自分たちの活動を大きく変容させなければ、生物種の絶滅や生物多様性の減少は続くだけでしょう。

 成人の障害者は、未成熟な子どもと同じ意味で「声を出せない」ので「意見を吸い上げられる」必要があるのでしょうか? 人間以外の生き物と同じ意味で、「声を出せない」ので「意見を吸い上げられる」必要があるのでしょうか? もしもそうであるとすれば、「成人の障害者は、障害者であるという理由によって子どもや人間ではない生き物と同じ」ということになります。「障害者」を「女性」に変換して、「女性は子どもと同様に扱われればよい」「女性は人間ではない生き物として扱われればよい」とすれば、なぜそれが一発レッドカードものの差別発言なのか明白でしょう。

障害者として、黙っているわけにはいかない

 私は率直に、チャットで理由とともに、以下のように意見を述べました。ことは「お気持ち」「言い方」の問題ではないということを、おそらく誰も気づいていません。そのことは、講演者の回答によって明確にわかりました。それらの回答を聞きつつ、理由も述べました。

a. 障害者として、非常に不快である。
b. 障害者は声を上げ続けている。健常者が聞かない、あるいは都合のよい声しか聞かないだけ。
c. 子ども・成人の障害者・人間以外の生き物をひとまとめにすること自体が差別。
d. このことは日本が締結している国連障害者権利条約に明記してある。(講演者がコミュニケーションの課題を話題にし、「声を上げられる人と上げられない人がいる」と答えたので)コミュニケーションにあたって何が必要で、何が差別で何が差別ではないのかは、その条約に書いてある。
e. (講演者が「少しずつ考えて少しずつ行動変容する必要が」というような内容を語ったので)すでに条約を日本が締結しており、国内法が全部発効している。今、そうできていないのはおかしい。
f. このあたりで終わらせておく。

 日本が国連障害者権利条約を締結したのは、2014年です。国内法の整備は、民主党政権時代から始まり、2017年には全部発効しました。なのに、なぜ、こんな発言が白昼堂々と? 私はそのことに心から驚きました。

 長いチャット発言をすることが望まれない場面であることはわかっています。そんな必要が発生しないように、最初から「差別を甘受しない社会的弱者の参加は禁止」とか書いておいてほしかったですね。皮肉ですけど。

質問の主、スタッフからの応答

 当該質問を行った自然保護活動家からは、「弱者という言葉を使ってすみませんでした。今後は気をつけます」というチャットDMがありました。そういう問題ではないということはご理解いただけていないままです。「とりあえず謝っとけばいいだろう」ということでしょうか。
 応答に困っていると、スタッフからのDMで、そのDMが転送されてきました。そこで、スタッフの方に対して、以下の内容をお答えしました。私は前述のとおり、「ここで議論を続ける必要を感じない」という意思表示をしていましたが、こうなった以上は説明の必要はあると思いました。ムダなことをしてしまったのかもしれません。

g. 障害者がマイノリティであり社会的弱者であることは、事実としてそのとおりである。
h. しかしながら、成人は障害の有無にかかわらず成人であり、障害のある成人は障害のない成人と同様に完全な社会参加をするものであり、完全な責任能力を有する。これが、この数十年の人権概念の建て付けである。障害によって困難な場合、本人のニーズによる支援や環境調整によって、社会参加の障壁を取り除くものである。

  h.については、「障害があっても、障害のない人と同様に完全な社会参加ができ、完全な法的責任能力がある」ということについて、日本の一般的な方々にはイメージが沸かないのかもしれません。たとえば国連の障害者権利委員会などで活躍してきているロバート・マーティン卿には、日本の尺度でどうなるのか知りませんが、半端ない知的障害があります(会ったことあります)。が、バリバリ活動し、活躍しています。日本でも、同様の試みが行われた事例はあります。つい最近、民主党政権の時期です。日本だって、やればできるかもしれない。

 さて。
 スタッフの方からの応答は、「ひとまとめにしないということだと思うのですが、いろいろありのままに見ることは難しい」というものでした。よくあるパターンです。何も伝わっていないようです。私はそんなことは言っていません。

 私は次の応答を加えました。子どもと成人の障害者の区別がついていない状態を放置するわけにはいきません。

i. 子どもは未成熟なので法的社会的に保護される必要があるけれども、成人は保護の対象ではない。障害等を理由に成人を保護することは、障害者権利条約に違反。日本にはまだ成年後見制度が残っているけれども解消の方向。

 スタッフの方からは、「オペレーションがあるので、ここで議論は続けられない」という応答がありました。私、さっき書きましたけどね? ここで議論続けるつもりはないって。

これが日本、これが「杉並クオリティ」、これが善意の市民、かも

 不愉快ではありましたし、当初は驚きました。しかし、私が運営を妨害しているかのような終わり方を含めて、「あるある」でした。これが、2014年に国連障害者権利条約を締結してから7年以上経過した2021年の日本です。

 障害や貧困の界隈では、「杉並クオリティ」という用語がしばしば使われます。杉並区の福祉は、特に2007年に障害者福祉課の当時の課長さんが病気に倒れて障害者になってしまってから、「新宿以西の東京市区部で最悪」と言われています。この「杉並クオリティ」には、「それでいいと思っている住民が多いから変わらない」という面もあるでしょう。地域住民多数が参加したと思われる本日のイベントで私が経験したことは、ある意味で「杉並クオリティ」です。

 私たちが「してあげる」「わかってあげる」という上から目線の善意は、提供する側にとっては気持ちよいものなのでしょう。国連障害者権利条約や日本の国内法に知らんぷりをしながらでも、日本には来なかったり入管の中にいたりするので見えなかったりする難民問題に心を寄せることはできます。声をあげる成人の障害者が鬱陶しかったら、「本当に困っている人を見つけて助けてあげる」という名目のもと、そういう鬱陶しい「社会的弱者」を見て見ないふりすることもできます。このような市民の善意、あるいは善意の市民は、国策として意図的に温存され強化されている感があります。「自助・共助」、そして存在が不明瞭になりそうな「公助」って、そういうことですから。

結論:謝られても、どうしようもない

 この、極めて根深い問題に対して、私は簡単に解決することを望んでいません。
 当該発言を行った方やスタッフの方に対して、謝罪してほしいとは思いません。私が謝ってもらえば済む問題ではありません。

 議論したいとも思っていません。議論して結論を導いたり落とし所をつけたりすべき問題ではなく、「日本が国として受け入れると世界に宣言した原則を、ないことにするのですか?」という問題です。今のところはそうしてしまっている方々が、私と議論したからといって、どういう意味があるのでしょうか? 議論なら、国連障害者権利委員会としてください。気が済むまで、「あなたたちの原則を私たちは受け入れられません」と主張なさったらよいのでは?

 当面は、この「まちづくり」のグループを中心に、この街が差別を容認しない大人社会へと変貌できるのかどうか、私も生きていける街でありつづけるのかどうか、危機感をもって注視していようと思います。

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