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「親ガチャ」のハズレを生き抜くには?

 「親ガチャ」という用語が、物議のタネになっています。
 親に対する「産んでくれと頼んだ覚えはない」という悪態、あるいは「親は選べないしねえ」という嘆息は、おそらく1950年代や1960年代には一般的だったのではないかと思います(戦前は、「産んでくれと頼んだ覚えはない」という子の悪態に、親は「じゃ、勘当」と応じることができました)。
 「親ガチャ」という用語が示す内容は、多くの「イマドキの若い者は」「イマドキの言葉遣いといったら」と同様に、古くから一般的に存在していたはず。私は最初に「親ガチャ」という用語を知った時、むしろ「うまいこと言うなあ」と感心しました。同時に、「ガチャ」という用語に対する違和感も理解できなくはありません。
 いずれにしても、必要性があったから生まれて定着しつつある用語であることは確かです。

「子ガチャ」のハズレだった私

 私は、母親から「こんな子、産まなきゃよかった」と繰り返し言われて育ちました。4つ下の弟、9つ下の妹が成長してくると、弟妹も母親の「産まなきゃよかった」に同調するようになりました。
 私が高校1年生のとき、TVアニメ『うる星やつら』の放映が開始されました。アニメが大好きで『アニメージュ』を創刊号から購入していた弟が見るので、夕食どきに母親・妹と一緒に見ることになりました。主人公・あたるがトラブルを起こすたびに、あたるの母が「産まなきゃよかった」とボヤきます。すると、母親は私の顔を見てニヤリとうなづき、弟妹も同様にうなづいてニヤニヤするのでした。

 私は母親の胎内では多胎でしたが、生きて生まれたのは私だけでした。母親からは、「生まれてきた子が別の子ならよかったのに」「他の子を殺しても自分が生き延びようとする悪魔の子が生まれた」などと言われることも多かったです。

 「ガチャ」という用語を使って言うなら、母親にとっての私は「子ガチャ」のハズレだったわけです。この件について、父親が母親の考え方と明確に異なる考え方を示したことは一度もありません。おそらく父親にとっての私も、「子ガチャ」の当たりではなかったのでしょう。

親は「子ガチャ」を回し続けてきた

 子は親を選べません。生まれて来る子を選べるわけではないという意味では、親にとっても「子ガチャ」です。
 それは、今に始まった話でしょうか?

 親はもともと、「子ガチャ」を回し続けてきました。
 生まれる前に性別を知るのが一般的になったのは、そんなに昔のことではありません。男の子がどうしても必要なのに女の子しか生まれない(あるいはその逆)パターンだと、きょうだい構成は「女・女・女・女・男」となったり、「女・女・女(もう諦めた)」となったりしがちでした。いわば、親は性別で「ガチャ」を引き続けてきたわけです。家父長制のもとでは、子どもが増えて生活が苦しくなる可能性よりも、男の子が生まれない可能性のほうが恐れられていたからです。

親の「子ガチャ」機会が激減している

 育児の「重課金ゲーム」化など多様な事情によって少子化が進み、1組の夫妻が持つ子どもは1~2人にとどまることが増えています。このことは、もしかすると「ガチャ」要素を濃厚にしたのかもしれません。「ガチャ」を回すチャンスは1回きり、あるいは1回ハズレたら、もう1回きり、ということになります。

 今や、胎児の性別だけではなく、持って生まれる可能性のある障害や疾患まで診断されるようになっています。診断すること自体の是非、結果による「産む」「産まない」の判断の是非はともかく、1回か2回しかない「子ガチャ」を正しく回せるようにしなくてはならないという親のプレッシャは高まっているはずです。

 このことは、「親ガチャ」でハズレた方の救いにはなりそうにありません。でも人間を50年以上やってきた私から見ると、「親ガチャ」の当たりハズレという問題は、年齢とともに相対的に小さくなっていくものであり、そうであるべきなのです。現実はそうなっていないから、「親ガチャ」が深刻な問題になるのでしょう。

「ガチャ」だらけの人生で誰もが絶望しないために

 自分の選んだものばかりの人生を送れる人はいません。
 人は「いつ、どこのどのような親のもとに生まれるか」を選べないだけではなく、いつも環境やめぐり合わせの偶然に取り囲まれています。時には、自ら回した覚えのない「事故ガチャ」「難病ガチャ」が降ってくる場合もあります。

 偶然だらけ、選べないものだらけ、自己責任ではないものだらけの人生。不幸や不運の「当たり」が続く人もいます。それでも、社会保障や社会福祉がある程度充実していれば、人生や世の中が不幸や不運や「死にたい」でいっぱいになってしまうことはありません。

 自分が回したとは限らない「ガチャ」の結果がハズレばかりになってしまう場合があることは、もしかすると避けられないのかもしれません。でも人類は、少しでも「救いがあるかもしれない」「希望はあるかもしれない」と言える社会を作るために、じわじわジリジリと努力してきました。だから、「人権」というお約束が共有されています。そして、まだまだ不完全といえども、社会保障や社会福祉の必要性は認識されています。

「親ガチャ」問題の解決は?

 「親ガチャ」の当たりハズレは、子が個人で解決できるものではありません。そもそも子に「親ガチャ」の責任はなく、心身ともに成長して生涯の基盤を築くべき子ども時代は一度きり。すると自動的に浮かび上がるのは、「子育て支援や保育や教育によって、ハズレの悪影響を少なくする」という施策の必要性です。「育児経験を持つご近所さん」といった存在では、代替になりません。

 結局、自分自身の経験を相対化できる知識と専門性を持った人々が、職業人として安定した良好な心身状態で、子育て支援や保育や教育に従事できる必要があるのです。

「親ガチャ」「毒親」といった表現が可能にすること

 「親ガチャ」「毒親」という用語には、数多くの議論があります。
 私は、前述のとおり「子ガチャ」のハズレでしたから、「親ガチャ」という用語には気持ちがザワザワします。「うまいこと言うなあ」とは思いますけど。
 それでも、自分自身が使うかどうかはともかく、用語自体は「あっていいんじゃないか」と思っています。

 親子関係の中で子どもが使える言葉は、年々増えています。「産んでくれと頼んだ覚えはない」という対決の言葉は、そういう対立が起こる家庭において、男子には使えても女子には使いにくいものであったりします。でも今は、親と子のどちらの性別とも無関係に使える「毒親」「親ガチャ」という言葉が追加されています。

 実際に起こっていることが、子どもには自覚も言語化もしにくい家庭内での性差別、あるいは深刻過ぎるゆえに語りにくい性暴力被害であるとしても、「『親ガチャ』でハズレた『毒親』育ち」という表現なら、「重たい子」と思われては都合の悪い友人関係の中でも、当たり障り少なく言語化することができます。何らかの形で意識し言語化し口に出すことができていれば、しめたもの。どういうハズレなのか、どういう毒親なのか。少しずつ具体的に意識し、自分に適した解決や救済につながることの第一歩です。

 「親ガチャ」「毒親」といった表現は、見聞する大人たちにとっても便利なはずです。込み入り過ぎて深刻すぎる問題を抱えた比較的若年の人々と接する時、「親ガチャ」「毒親」という頑丈で不透明なカプセルのやりとりなら、互いに傷ついたり傷つけたりせずに出来る可能性が高いからです。当たり障りないやりとりのなかで、こじれた何かが自動的に修復されることもあります。少なくとも「重すぎる、ごめん」と逃げ出して絶望や無力感を残す結末は避けやすくなります。

 どなただか知りませんが、これらの用語法を生み出してくれた方に感謝します。
 ありがとう。
 私も、時にはありがたく使わせていただきます。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。