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FF16雑感、あるいはFF病患者の溜息

始めに

以下の文章には、
FF16に関するネタバレ、個人的感想や駄文が数多く含まれるので、
ご了承の上で読み進めてください。

私はFF病に近いものを患っているタイプの人間です、
ご同意いただけない意見が多く含まれるかも知れません。

もし、FF16をまだプレイしていないのであれば、何よりまずプレイされることを勧めます。
また、プレイしたけどレビューなどを見ていないのであれば、
この記事より、IGNJの読解力皆無の批判より余程ちゃんとしたレビューである、以下の記事をおすすめします。

感想文

FF16はすごく良いゲームだ。
ちゃんとまとまってて、人に勧めやすい面白いゲームである。
今のところ、僕の中ではGotY2023だ。
(他に今年のゲームはホライゾン2DLCとライザ3とゼルダTotKくらいしかやってないけど)

FFっぽさは確かにあるんだけどさ

それはそれとした上で、
FF16にどうしてもFFじゃない感を捨てきれない。

いや、確かにコレでもかってくらいにクリスタルとか出てくるし、
すごいオーソドックスなデザインの召喚獣たちが出てくる
ド王道のファンタジーなんだけど、
FFらしさたる癖が足りない、とどうしても感じる。

FFって王道か?

昨今は叩かれがちだが、
FFというのは制作者の作りたいものを押し付けられるような
濃いゲームだと私は思っている。
その濃さ故に引き寄せられる何かがあり、
それが多くのゲームへと影響を与えてきたと考えている。

だから、そもそもFFって万人受けするようなゲームじゃない。

テロリストが自分探しの旅をするFF7も
スポーツ選手が清楚な巫女とピュアな恋をするFF10も
英雄と呼ばれながら死ぬほどお使いする羽目になるMMOのFF14も
どれも人を選ぶ問題児ばかりだ。

でも、その分他にはない魅力が尖り切っている。
欠点を補って尚、突き抜けた魅力のあるゲームシリーズが、
ファイナルファンタジーなのだと僕は思う。

野島一成の書くシナリオは、他にはないメタ構造を持つゲームに仕立てる
FF7はRPGの喋る主人公とプレイヤーとの差を埋めるための物語で、
(だからこそ「君はもうクラウドになったかい?」が刺さる)
FF10は、無知に始まり消えて終わる主人公にすることでプレイヤーとの立場を限りなく同じにしてきて(だからユウナに恋をする)、
FF13はレールに沿って進むしかない世界とプレイヤーの選択肢とを重ね合わせてくる(にしても8割一本道はどうなのかと思わんでもないが)

FF14漆黒は80時間くらいプレイして数え切れないくらいのおつかいを繰り返したプレイヤーに、君の歩んで来た道は確かに君を支えてくれる、とか言ってくる(こんなの刺さらないわけがない)

物語に問題があるとされているFF15も
やたら喋りまくる仲間との冒険と勝手に撮りまくる写真が、
他の一人旅OWゲームにはない思い出になって、僕の中に刻まれている。

戦争モノにしても、
硬派なSRPGのファンタジー戦記物にして濃い台詞回しや救いのないシナリオの割に妹を救いに行く話のFFTと、13人も濃いキャラ付がなされたPCがいるアクションゲームにして学徒動員や死んだ人の事を忘れてしまう世界設定のFF零式とで、味付けは違うが強い個性のあるゲームだ。

「癖」がない

それに比べて、
FF16は癖がない、
万人受けするようなゲームだ。

謎のスノボミニゲームは無いし、
宇宙で彼女を探したりもしないし、
200回雷を避けないと最強武器が手に入らないようなこともない。

起承転結も伏線回収もよく出来ている。
物語の展開速度も速く、違和感のあるシーンも少ない。
(やたらおっさんの裸のカットシーンがあるのはまあアレだけど)

FF13のようなウィルゲージを削ってから大技を叩き込むシステムに、
スタミナ制のない機敏な動きを組み合わせたアクションは
手堅くまとまっていて、気持ちよく動かせる。
キツいディレイを掛けてくる敵は居ないし、
HP全快からの第三形態とかで絶望を与えてくるような敵も居ない。

だが、どうにも物足りない。

絵はキレイなんだけどね……

確かに召喚獣との戦いやラスボスとの戦いは盛り上がったし、楽しかった。
ゲーム自体に不満は殆どないし、
きっと沢山売れるし、
評価も高いゲームになるだろう。
今年は激戦区だが、いくつかのGotYも取るだろう。

だが、私には深く刺さるものが無かった。

「大人」のFF

大人に向けたFFという開発者の言があったが、
どちらかといえば大人が作ったFFという風に感じた。
無論、どのFFも大人が作っているのだけれども。

FF16は、インターネットで揶揄されがちな要素は徹底的に排除されている。
・ひょろい少年が世界を救うとか非現実的www
  →大剣担いだ33歳のおっさんが今作の主人公です
のような感じでパッと思いつく揶揄要素は凡そ取り除かれている。

開発者インタビューで度々語られるFF15は物語面で不安にさせてしまったので、そこを強化した物語体験を提供するという話。
それは分かるし実現できているのだけれども、
そういうことではないと私は思う。

前作への批判や語られている問題点を市場調査して、
インターネットでFFをバカにする言論をかき集めて、
一つ一つ潰していったら、面白いゲームになるのだろうか?

確かによく売れそうな面白いゲームにはなっていると思う。
でも、それは面白いゲーム以上のものではないのだ。

私が幼い頃に遊んでいつかこんなゲームを作りたいと憧れた
あの狂気と熱意が詰まった
プレイヤーのことなどどれほど考えているのか確かではない、
ファイナルファンタジーではないのだ。

概念としての「FF」には近いと思う

アベンジャーズのようなきれいな映像と、
ゲーム・オブ・スローンズのような中世ファンタジー世界観と、
DMCとFF13を足して2で割ったような良く出来たアクションとで満たされたFF16は、決してつまらないゲームではない。
むしろ、現代的で至極真っ当に面白いゲームだ。

だが、FF委員長の北瀬佳範曰く

ファイナルファンタジーとは、そのときどきの担当者が最高だと思って作ったもの。おもねったり引き継いだりは誰もしてないから,そこは縛られないでほしい

4Gamer「FINAL FANTASY XVI」プロデューサー・吉田直樹氏にインタビューより

FF16は、
良くない意味で「ファイナルファンタジー」に縛られていないだろうか?

クリスタルと召喚獣、魔法と戦争、自由意志の意味を問うストーリー、
ド安牌で、王道100%のような物語。

王道が好きなのは分かるんだけどね

でも、FFだろ
そうじゃないんだよ、
FFって、クリスタルと魔法と召喚獣じゃないんだよ
見たことない世界、見たこと無いシステム
新たな地平を開いていく姿勢だと思うんだよ
前廣、お前にしか作れない世界を見せてくれよ
ノムリッシュも、松野節も、石川夏子も
こんなどっかで見たことある世界観と物語と演出じゃなかったよ
原作に沿った展開にさせようとする勢力を敵としてゲーム内に登場させる
トチ狂った所業をやってるFF7Rを見習えよ


具体的に何が足りないのか

どこか見たことがあるような

一つには、既視感の多さが原因としてあるだろう。

どこかで見たような中世ファンタジー世界観
神のルールの支配する世界から人の世に変えるという神殺しの物語
DMC、プラチナの系譜にあるスタミナレスのアクションバトル

それらの要素は安定した面白さを担保してくれる代わりに、
FF16の唯一性を奪い去る。
同じようなシナリオが見たければ、過去のFFやゲーム・オブ・スローンズを見れば良いし、アクションを極めてスコアアタックしたければDMCがある。
このゲームでしか味わえなかったというような
新しい体験、感動がないのである。

それらの既視感に咥えて、台詞回しのかっこよさが足りない。

FF16はセリフの一つ一つが丁寧だ
ちゃんと1から100まで説明してくれるし、分かりにくい比喩も少ない。
だからこそ、多くの人に受け入れられるような物語になっているとは思う。

でも、
それでは外連味のあるセリフにはならない。
セリフや演出からFF16らしさを感じられるような
癖があって欲しいと思った。

個人的にグッと来たシーンが2つある。
1つはバイロン=ロズフィールドとクライブの再開時の小芝居(とエンディングでそれが引用されたところ)で、
もう1つがガブの「俺はシドを継ぐ気はねえぞ」だ。

1つ目のシーンはバイロンがクライブが生きているということを信用せず、嘘を語る不届き者を成敗しようとしているという緊迫した空気感の中始まる。
剣を持っているかのような仕草で芝居がかったセリフを話し始めるクライブに(プレイヤーも)バイロンも疑問を抱くが、バイロンにはそれが幼い頃甥と行っていた騎士物語の遊びだと分かり、クライブが本当に生きていたことを実感して泣き崩れるというシーンだ。
正直、他のシーンに比べて分かりにくいシーンだと思うが、それ故に過去にクライブとバイロンが伝承を元にした騎士ごっこをしていたというシーンが思い浮かび、そして、そんな思い出がある叔父と甥が、様々あった事件を経て再開するときの心情と、叔父に自分の証明をするためにそう振る舞ったクライブの心意気にグッと来るものがあるのだ。
というか最後の最後にこれを引用してる辺り、制作陣もこういうのもっとやりたかったんでしょ?

もう1つはシーンと言うかセリフなのだが、バルナバスとの戦いを前にガブがクライブに言うセリフ「俺はシドを継ぐ気はねえからな」だ。
これは、主人公のクライブがシドルファスから彼の死をきっかけに大罪人シドの名を受け継いでいるという文脈が前提として存在する。
そして、俺はシドを継ぐ気はない=お前に死なれるわけにはいけないということで、「死ぬなよ」という思いを伝える為のセリフであるが、
これも相対的に分かりにくいセリフだ。
だが、こういった比喩がすんなり通じ合う関係が、
長い間で培った絆を感じさせて良いシーンだと感じさせるのだと思う。

そういった少し分かりにくいけれど、
ゲーム内の文脈を踏まえて発せられるようなセリフが私は好きだ。

同じ物語であったとしても、
その語り口には様々なバリエーションがあっただろう。
だからこそ、FF16を特徴づけるような
独特のシチュエーションや台詞回しが少なかったことが残念でならない。

ゲームでなければならない理由

もう一つはメタ的な構造、文学性だ

FFは、特に7以降のFFはなぜこれがゲームであるのか、
ゲームでなければならないのかという点を重視してきたように
私は思っている。

色々とご都合主義を感じる物語のFF15であっても
エンディングでプロンプトが撮った写真を見たときには、本当に感動した。
突如遅い来る強敵に苦戦しているときの写真、面倒なダンジョンの中で撮られた写真があって、それぞれがゲームプレイ中の思い出と結びついて、
今までの旅路、50時間ほど掛けてようやくたどり着いた
ゲームプレイの終着点に来て良かったと思った。
受動的なメディアである映画や演劇では語り得ぬ
プレイヤーが自らボタンを押して進めるしか無いゲームというメディアで
多くの時間を消費して紡いできた物語だからこそ、
その記録としての写真に感動したのだ。

それを踏まえてFF16をプレイすると、
FF16がゲームであらねばならない理由は希薄であるように感じられる。

既に宝塚歌劇団の題目として採用されたことが発表されているが
(長さを抜きにすれば)FF16は歌劇として見ても面白い物語だと思う。
NETFLIXでドラマ化しても驚かないくらい、よく出来た物語だ。

でも、
「ゲーム」というプレイヤーが何十時間もかけて、
テレビの前に座ってコントローラを握って遊ばなければならない
タイムパフォーマンスの悪いメディアでしか語れない物語を
追求してほしかった。

「人が人として生きられる世界」という目標を掲げるクライブがメタ的にはプレイヤーに操られる存在であることに言及せずとも、
(サブクエスト悪くはなかったけど、)ゲームプレイを通じてずっと隣に居てくれたトルガルとの物語や、
青年期にベアラーとして扱われていたクライブが、壮年期にベアラーの刻印を目立たなくして異なる扱いを受けるようになった変化について、
エンディングでFFTのように主人公の活躍が一冊の本としてまとまっているという演出をするのなら、サブクエストクリア時にその記録をつけているというようなシーンを入れる(で、エンディング時にその本の厚さで旅の長さを実感させる)など、
もっと語りようがあったのではないだろうか?

次回作、期待してます

まあ、ともあれ色々と思うところはあるのですが、

FF16チームの次回作を期待してます!

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