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4.そもそも、なぜ「速習」が必要なのか?

こんにちは。
さて、今回は「なぜ学習にスピードが必要なのか」つまり「速習の必要性」という根本問題を考えてみます。


⑴ 学習にスピード感が無いと学習が続かない

まず、皆さんにも経験がおありかと思いますが、勉強という作業はある程度サクサク進まないと、その学習対象じたいが嫌になってしまうことがあります。なかなか単元の学習が進まないから、そこでやめてしまうんですね。これは何とかしなければなりません。

逆に勉強が得意な人というのは、分からないところや苦手なところをとりあえず飛ばして先に進む、という小器用なことができます。まあ、最終的には苦手なところにも戻らなければならないのですが、それでも先に進めずに頓挫してしまうより遥かに良い。

ただ、世の中には要領は悪くてもひたすら根気強い人、粘り強く続ける人も一定数いるので、こういう人たちは早くから勉強をスタートするという条件をみたせば必ずしも「速習」が不可欠とまでは言えません
(ただし後述しますが、早く全体像をつかむ点からは、やはり早く一周することには意味があります!)

⑵ 「コスパ」・「タイパ」の良さ

次に考えられるのは「資格試験や大学入試には期限があり、その期限に間に合うように勉強を終わらせる必要がある以上、速習できるに越したことはない。もし対象分野を短期間で習得できる方法があるならば、それを採用しない理由はない」という意見でしょう。

確かに、大学受験生の方たちは複数科目を勉強しなければならないので、1つの教科あるいは1つの分野(英単語など)に割ける時間が限られていますから、そのように考えることには合理性があります。そして、その発想の根本にあるのは、いわゆる「コスパ」(コスト・パフォーマンス)や「タイパ」(タイム・パフォーマンス?)の発想でしょう。コスパ・タイパという経済合理性を「勉強の場面」でも追求することは、今の若い世代の方たちにとって、議論するまでも無く合理的な判断なのかもしれません。

⑶ 「速習」の本当のメリット

それでは、「速習」をめざすべき理由は本当に「コスパ・タイパ」だけなのでしょうか?もし、コスパ・タイパが「速習」のすべてなら、「語源で単語を暗記する」などという方法論は、語源という中間情報を確認し記憶しなければならない点で、非常に「コスパ」の悪いやり方と言えるかもしれません。

しかし、筆者は「速習」の本当のメリットというのは「コスパ・タイパの良さ」以上のものがあると考えています。以下、具体的に見ていきましょう。

A. 速習により「考えながら覚える時間」ができる

まず、「速習」をすることで、当然、「時間」ができます。その時間ができた時、次の問題集や2周目(2回転め)に移っても良いのですが、せっかく「時間」ができたのですから、できれば2周め以降は、学習対象の関係性を「考えながら」復習をして欲しいところです

しかし何も考えずに「2周めは1周め以上のスピードで終わらせようとする人達があまりに多すぎる!

確かに入試は競争試験ですから、より速く正確に問題を解くことが求められます。そのためいずれ解答スピードを上げるためのトレーニングが必要になる
ですが、問題演習中心の勉強法が主流になってから、頭を使わずに、ただのタスク処理として問題を解こうとする人達が激増していることを私は真剣に懸念しています。

人間のアタマは、自分の行動の意味を求めるとともに、その対象に対する意味づけも(無意識であれ)求めるものです。その意味づけがうまくできると、人間の頭はとても快感を覚える一方で、意味づけのできない(あるいは不十分な)作業には、一種のサボタージュを起こして本来の力を発揮できなくなる。これは、脳科学の研究が多く教えるところです。

ですから、ただの「タスクとして」問題集を解いたり単語帳を「無心に」めくったりしている受験生を見ると、「お、一心不乱に修行してるね〜」と感心はしますが、「考えながら勉強してるのかな?」と、一抹の不安を感じてしまいます。彼らの勉強が結果的に壮絶にコスパの悪いものになっていないことを祈るばかりです。

B.速習により、いち速く「科目の全体像」をつかめる

加えて、「速習」をするからこそ「全体を何度も反復できる」というメリットがあります。もちろん、その科目の体系性や、対象の関係性を「考えながら全体を繰り返す」必要があります。しかし一方で、全体を繰り返すからこそ「その科目の全体像=体系」が見えて来る部分も確実にあるのです。全体を繰り返して体系をつかむためには粘り強さだけでなく、ある程度学習スピードも必要なのです。

なぜ問題集を一生懸命解いている受験生が英文法全体を理解できないか日本史の全体像をつかめないのか。それは「全体を繰り返していないから」です。

裏返して言えば、言い方は悪いですが、凡庸な教師でさえ、毎日、毎週、複数のクラスで同じことを1年間通して繰り返していれば「その科目について自分自身の体系」をおぼろ気でもつかむことができる。なぜ、凡庸な教師にできることが、優秀な生徒にさえ難しいのか?それはただ「全体を何度も繰り返していない」からなのです。全体を繰り返す時間が無いから、なのです。

学習が進んで当該科目の全体像がつかめてくると、まず、非常に大きな達成感を得ることができます。またその科目に初めて自信が持てるようになります。何より、その科目の全体像(=学習用体系)をつかむことこそが、どのような初見問題が出されても対応できる応用力となるのです!

速習によって生み出すことのできた時間により、その科目の体系性や、対象の関係性を「考えながら全体を繰り返す」ことができるようになること。
そこに「速習」強くを勧める実質的な意義があります。






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