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Interview with 帯化

謎の音源、反社会的なジャケットワークによるカセット、そして"石"の音源を送りつけてきたのがこの帯化というバンド。その音はサイケデリック、フォーク、トライバル的要素を混ぜ合わせたカオスだが、音源のフォーマットそしてZINEにもこだわりのような思考が詰め込まれている。そもそもなぜ石なのか。3LAとしては異色の音のバンドだったがそのインタビューの内容も少々異色なものになりました。音を聞いて「批判性のあるバンド」だと思ったがそれは間違いではなかった。

ロックバンドをやる上で参照にできるロックバンドはほとんどいない

3LA : まずは「何故石なのか!?」というを聞きたいんですが、結論を急がずにそこに至る経緯みたいなものが聞きたいです。最新作『河原結社』は、前作となる1stアルバム『擬似縁側型ステルス』と比較するとそれぞれが対極にあるものに聞こえます。フィールドレコーディング的なアプローチと、スタジオワーク的なアプローチなんですが表現している方向性も違うのかなと。
さて、遠回りしながら聞いていきたいのですが、帯化というバンドはいわゆる「トライバルミュージック」とは違いますよね?
バンドがこの「トライバル」という要素についてどう考えているのかお聞きしたいです。

帯化: 帯化において「トライバル」という要素は重要だというのは確かです。が、仰るとおり帯化はいわゆるトライバルミュージックとは違います。ここには微妙なアイロニーや捻れがあります。

 それを説明するためにも、まずぼくらの現状認識の話でもしましょうか。ロックバンドをやる上で参照にできるロックバンドはほとんどいない、そして結果、民族音楽やエクスペリメンタルやトライバルあたりしか聴けるもの、参照できるものがない、というのがぼくらの現状認識です。しかし同時に、ぼくは0年代〜10年代前半のインディーの熱や、80年代のポストパンク、そして現行の僅かな「ロックバンド」に決定的に影響を受けています。なので、ぼくらはロックバンドをやっている。でもやっぱりほとんどのロックバンドは参照できない、かといってトライバルとかそのまんまやっても仕方ないという微妙な温度感のなかでぼくらはトライバルというものを捉えています。この温度感はぼくらの民謡的なものへの位置付けや、アジアサイケの位置付けとも共通しています。

 要はロックバンドであれ、トライバルであれ、「まんま」はダサいという価値観があるという話ですね。とはいえ、もっと思いっきり民謡っぽくしちゃってもいいかな、とも最近は思っています。

なぜ日本のサブカルチャーは擬似的な日本のイメージを反復するのか

3LA: 僕はあえてまだZINEの内容はほとんど読んでいないんですが、参照できるバンドがいない、というのは、自分たちがかっこいいと思える音楽がほとんどないっていうことでしょうか?逆に民族音楽やトライバル(同じ意味かもしれませんが)が響いた理由をもう少し詳しく教えていただけませんか?

 そして、帯化を通して聴いてみて思った「空虚さ」という印象もありました。タイトルには「擬似縁側」というワードが使われているのでそれは意図的なのかなと思うのですが、民謡的な音に見せかけてはいるけれどそこには郷土への哀愁とか、民族アイデンティティへの回帰などではなく、たぶん表現が向いているのはこの現代だと思うし、そこにあるギャップにすごく違和感を覚えました。「縁側」ってすごく昭和日本的なキーワードだと思うんですよね。それが「擬似」であり「ステルス」であるっていう。現代には参照するものがない、という感覚であると同時に、かといって過去のものにも強烈な憧れとか共鳴は抱いていないんじゃないかなと思った。

帯化: そうですね。ロックバンドのなかにはかっこいいと思える音楽はあまりないですね。いても80年代や70年代とかですね。あ、トライバルと民族音楽って同じ意味か…笑

 なぜ、民族音楽かって言ったらなんでしょうね。流入経路はフォースワールドとかが再評価されて、いろんなレコがリイシューされていたところから遡って民族音楽自体(フォースワールドにおける3の部分)を聴くようになったという感じだったのですが、一番響いたのは、そのぼんやり感ですかね。曲の展開もぼんやりしてるし、ボーカルも音質もぼんやりしてる。だけどよくわかんないけど良メロだったりする感じ、それがすごく今の時代のテンション感に合ったんですね。特に熱心に聴いたのは俚謡山脈が出している民謡系のレコードやタイのポップスや、街のレコ屋で投げ売りされている民謡の7インチとかですね。ぼくらにとって「トライバル」は「土着的なエネルギー!!」みたいなニュアンスではなく、もっと不気味でぼんやりしていて、ベタッとした感じのニュアンスですね。

 『擬似縁側型ステルス』という謎の造語のニュアンスは大体指摘いただいた通りだと思います。民族主義的なものへの回帰は唾棄すべきものだし、かといって現代に何か意味や意義があるかと言ったらそうでもない、そんなふわふわした感覚が根本にはあります。それはアルバムの内容にも通ずる話です。ポストパンク的な要素や、サイケ的な要素もあるけど、まんまそれではないし、エスノっぽいノリもあるけどまんまそれでもない。このふわふわ感。

 しかし同時にぼくは擬似的にではあれ、要所要所で日本のイメージ(歌詞、メロディ、フレーズ、発声方など)に頼らなければ自分の中で「これは新しい!」と感じられるものを作れなかったんですよ。ぼんやり感、ふわふわ感、あるいは空虚さのなかにわずかに残る「たこ」のようなものとしての日本的なイメージをぼくは表現のとっかかりにしているのかもしれません。この点は見過ごしてはいけないな、と感じています。なにせ日本的なものへの回帰は、サブカルチャーのなかでずっと繰り返されてきたことですからね(アニメ、ゲームにおける妖怪、巫女、幽霊、祠、蔵、井戸など)。しかしぼくはどうもそのような日本的イメージを表現のなかに「雑に」流用することを国粋主義の萌芽だという風にいう気になれない。むしろなぜ日本のサブカルチャーはそのように擬似的な日本のイメージを反復するのか、ということを考えたい。そしてそういった問いは、なぜグローバリズムがここまで全面化しても、国家に人は縛られようとするのか、という問いともつながるので、意外とアクチュアルなものかもしれませんね。

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3LA: ありがとうございます。ちなみに録音のほうでKlan Aileenの方(澁谷亮)をエンジニアに迎えて制作されているのはどういう経緯なのでしょう。
帯化の言う「ロックバンド」観と関連しているような気もしますが、彼らはまさに今の現行のロックバンドの形の1つを提示しているとは思うんです。

帯化: Klan Aileenはぼくにとってロックバンドを続ける(そして始めた)きっかけです。ブラックミュージックの勃興によってインディーロックが全滅した2016年に彼らが出した『Klan Aileen』は決定的でした。ギターとドラムのみという編成もそうですし、インディーの残り香もありつつ、もっと別の何かへなろうとする意志や気概、ロックバンドの意地みたいなものもとてつもなく影響を受けました。またこれはあまり注釈をつけずに書きますが、澁谷さんの書く(音楽的にも政治的にも)後進国になりつつある日本に生きる実存が微妙(この「微妙さ」が大事)に反映された歌詞には、「ああまだ音楽で実存をやっていいんだ」というブレイクスルー感がありました。それに続いて2018年に出した『MILK』も名作でしたし、レーベルを抜けてからのインディペンデントな活動もとても影響を受けています。 

 録音の経緯としては、澁谷さんが出張レコーディングというサービスを始めたため、そこにメールを送りつけたのがきっかけです。面識などはありませんでした。それでぼくらの1stシングルの『末梢変異体/群島理論』のレコーディンやプロダクションをやってもらって、そこから仲良くなってアルバムも録音してもらったという感じです。

ロックバンドの矜持はどこへ?

3LA: アルバムは2020年の1月にリリース、そしてそこからコロナの騒動が徐々に大きくなってきて、おそらく2月の終わりから3月くらいまでにほとんどのバンドは身動きとれなくなっていったのかなと思います。コロナはバンドにとってどういう問題となっていましたか?この時期に考え方ってなにか影響がありましたか?

帯化: ぼくもコロナの影響で5〜7月の東京のスーパーイカしたポストパンクバンドAnisakisとのライブが3本ほど飛びました。個人的にはコロナに関するライブハウスやアーティストの対応にはがっかりしました。何にがっかりしたかといえば、まず緊急事態宣言が出てすぐに国に補償を求める動きが活性化したことです。ライブハウスというのは色々な意味でグレーな場所です。そこに何らかの形で公金が入ることに、違和感が非常にあったし、公的な措置が介入されてしまって良いのだとライブハウス側が思ってたという事実に少なからずショックを受けました。それと普段ライブハウスにきてくれているお客さんからドネーションを募るより前に国に助けを求めた点も気になりました。だって普段きてくれているお客さんから信頼を得られていない(ドネーションを大してもらえない)と思っているからまず国に助けを求めたわけでしょう? 

 アーティストたちの対応も、家で大人しく宅録、ライブハウスでライブをやらないことで公衆衛生に寄与しましょうというキャンペーンを張るなど、正直ロックバンドの矜持はどこへ?という感じでした。ライブハウスであれ、ロックバンドであれ、コロナ以前も公衆衛生や社会的な価値に適う存在として自らを定義していたんだな、というのがハッキリしてしまったなと感じています。だって、そもそも公衆衛生や社会的な価値に適う存在ではないと自分たちのことを考えているのなら、こんな状態でも何かをやるはずでしょう?いや、もちろんぼくもガンガンライブやりまくろうぜとは思わないですよ。そんなことしたらボコボコに叩かれて、ライブハウスもバンドも続けていけなくなってしまう。でも長期的な視野をもって上手く身を潜めつつアイロニーや密かな闘争を仕掛けるという戦い方ならできたはずです。ライブハウス側からも、ロックバンド側からもそんな反応もほとんど見られなかった。 唯一、アナーキズム系の思想に影響を受けた関西のノイズミュージシャンたちが面白いことはやっていたようですが。それを見てロックバンドは誰も悔しいとか、カッコいいとか思わなかったんですかね?

 と、まあこんな鬱屈と不満を抱えた結果、ぼくらはアホでバカで反社会的で暴力的な存在たるロックバンドの矜持でもって、5月上旬に、多摩川にスネアとメタルパーカッションとマイクとギターを持ち込み、『河原結社』の制作を始めるにいたったわけです。ぼくらの変化としては、正直そこまではないというか、まあある程度予想通り周りは腰抜けばっかだったので今まで通りボヤんと過激に、反社会的にやっていこうという感じですね。

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石という無価値なものが局所的に批評性を持ちうる

3LA: 確かに「公金が入ること」その重大性について思うことは僕もあるけれど、多くの音楽関係者はこの感性症の拡大防止のために動いたと僕は思ってます。それは政府のためではなくお客さんの安全のため、バンドもライブハウスも色々な動きがあったと思うし会社内で上が決めた方針に従わざるを得ない場合もある。関係者は出来ることと出来ないことをジャッジしながらそれぞれが難しい判断をしていたとは思いますよ。初期段階でライブハウスからの「クラスター」を出してしまったという事実がある以上、「ライブハウスは危ない」という見られ方は100%風評被害と言い切ることは出来ない。ここ日本においてはライブハウスは特に近隣住民たちと折り合いをつけながらでないと「存続すること」は難しい、社会的な仕事なんだよなと改めて思いました。
 だから僕の意見としてその回答に対して全面同意することはできない。だけどその一方で「そもそも俺たちの存在ってどんなだったっけ」という問題が突きつけられたというのも事実。インディペンデントであることを闘う前に降りてしまっているという意見に反論できる人もまた多くはないと思います。そしてドネーションやクラウドファンディングも、"既に持っている人たち"は生き残れるかもしれないけど"持たざる人"にとっては救いになるものではなくコミュニティ全員で生き残ることが難しい... という格差を浮き彫りにしているようにも見える。自分自信がそういうもやもやした疑問を抱えていたこともあって、石の音源でもある『河原結社』のコンセプトが響いたというのはあります。
 この石という全く無用とも思える"フォーマット"でのリリースは、つげ義春氏の『無能の人』にインスパイアされているものと思われますが、ロックとは「石を売る」行為に近いものがあると思いますか?

帯化: ぼくの意見は所詮、自分で場所や店を運営していない外野からの意見なので、ちゃんと現場に場所を持ってる人が全面同意しないのはもちろん当然だと思います。しかし今回の問題点はみんながみんな当事者に寄り添い、優しい言葉ばかりを語ってしまったことだと思います。外野は外野で好きなことを言い、主張しても良かったはずです。そんなふうに、「所詮は外野」というレベルで当事者たちの理想を外野側(無産者としてのアーティスト)が担保する道もあったのではないか、と思ってしまいます。 

 ロック、というか文化一般の働きとして、ぼくはローカリティという要素が必須だと考えます。ローカリティというのは要は、全体(社会)における普遍的な価値ではなく、局所的(ローカル)に価値を担保するようなレベルのことです。文化を担うものは、昔から「ならず者」(河原者とも言えますね)的な要素を持ち、多くの人間にとって無価値にもかかわらず、一部の人間からは支持される。それはある種、石という無価値なものが局所的に批評性を持ちうる(販売されうる)、という現象と同じなのかな、と思います。と同時に、石にはこういった価値相対主義では汲み尽くせない絶対的なモノとしての要素もあり、そっちの要素が『河原結社』においては大事かもしれません。 

 指摘いただいた『無能の人』の主人公は、多摩川で石を拾って多摩川で屋台を構えて売るというあまりに無意味なことをやっているわけですが、彼の行動は無意味であり、無能でも、「無」ではないわけです。彼の存在は石と同じくらい無意味にしても、石と同じように物理的に身も蓋もなく存在しているわけです。物理的身体はどうしようもなく身体的接触の温床となる。コロナ騒動で白日の下に晒された通り、物理的身体の接触は本来的にリスキーなものです。コロナ対策による公衆衛生の整備やそれに伴う集会の自由の規制とは、接触の温床であるその身体性の無化を目指したと言えます。しかし文化とは、国家や人類などの大きな枠組みを分割し、なおかつ個人を集団のレベルで縫合する「密室」を生み出すものです。そして特にロックバンドはこの密室と身体の接触を自身の住処としていたはずです。強引にまとめるなら、密室/集団の中心には石/身体が存在し、その販売(パフォーマンス)を巡って集団が発生する、という感じでしょうか。そういう意味で「石を売る」とロックは近いんじゃないでしょうか? というか、少なくとも近いものとして改めてロックを再定義する必要があるとぼくは考えます。

3LA: 好きなことをそれぞれが言える環境って、信頼関係が成り立っていないと難しいですよね。お互いにムカつき合うかもしれないけど、お互いが好きなことを言うべきだという前提の共有というのは。今回の音源は2作品入荷させていただいたんですけど、どちらもソールドして今取り扱っている分は再入荷分になっています。正直3LAというディストロは基本的には90年代ハードコアからの文脈にあるEMOやScreamoをメインに売っているところなんですが、帯化のようなジャンルですぐに売り切れるとは、事前にもお伝えはしていたんですけど想像していませんでした。それってある種の無意味性に対して「これって意味があるんじゃないか」という問いを発生させたんだなと気づきました。たぶんモノが届いたお客さんもその質量感に、普通の音源とは異なる何かを感じたはず。面白い幻想だなと思ってます。
作るほうも幻想だし、流通させる自分も幻想を抱いて、お客さんもその幻想を共有していく。それぞれの持っている幻想は別々のものだけど何かがお互いを繋いでいて、そこに「問いかけ」があるっていうものが僕の原体験でもある。
このインタビューも若干無理矢理な感じもするんですけど、面白さを感じてます。「なぜ石なのか」という僕の問いもこれで成仏できたし。あまり文字数が長くなってしまっても読む人が疲れてしまうのでこのあたりで締めていきたいのですが、最後に言い残したことはありますか?

帯化: そうですね。ぼくの今までの回答も自分の作品への幻想(偏見)の一つですからね。まあ好きなように聴いてくれたらそれが一番ですね…笑

 言い残したこと、というか、インタビューのなかで、自分たちの姿勢を「ぼやんと過激」と表現しましたが、これは口をついて出た表現に過ぎなかったのに、個人的にすごいフィットしています。今後も「ぼやんと過激」にやっていきたいです。

帯化

3LAサイト内販売ページ:
河原結社​ / 帯化 (石 + ZINE)
擬似縁側型ステルス​ / 帯化 (CASSETTE + ZINE)

Official bandcamp:
https://taikafasciation.bandcamp.com/

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