村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)を読む①
はじめに ーー村上春樹の”読み方”
はっきりと言ってしまえば、私は、村上春樹の小説がよくわからない。
文学部生だった頃は、冗談で「彼の小説はコーヒーを淹れ、パスタを茹で、熱いシャワーを浴び、女性を抱いてばかりいる」と、よく友人に言っていたものだ。
実際、村上春樹の小説はどこか掴みどころがなく、まるで身体を抜けてゆく風のようで、読後にはぼやけた印象しか残らない。ただ、日常のふとした瞬間に、彼の世界が立ち上ってくるような瞬間がある。
村上春樹も自身の書く小説の難解さについて、以下のように話している。
今回は、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の感想を、ここにつらつらと書いていこうと考えている。
新潮文庫で全3巻の構成となっており、上巻【第1部泥棒かささぎ編】が373頁、中巻【第2部予言する鳥編】が429頁、下巻【第3部鳥刺し男編】が600頁と、まさに「年代記(クロニクル)」とも言える長大な物語である。
そして、新潮文庫のあらすじが、意味深長に見えて、なにも具体的な内容を伝えていないということ(まさかの本文からの引用!)からもわかるように、内容を要約するのは難しい。
まさに、村上春樹自身の言うような多読を可能とする物語であり、おそらく読み方に正解はないのだろう。学術論文ではないので、自分の好きなように、この作品に”登って”ゆこうと思う。
なぜ、いま「ねじまき鳥クロニクル」なのか?
出会い
「ねじまき鳥クロニクル」の上巻と出会ったのは、大学の学部生の頃。文庫本の奥書には「平成二十六年十一月十日 五十二刷」とあるので、購入したのは今から(おそらく)8年近く前のことだ。
それまで、村上春樹は「ノルウェイの森」と、いくつかの短編集を読んだくらいだったと記憶している。生協の文庫本コーナーに平積みされていて何となく目を引いたのと、ねじまき鳥(だと思われる)が銀で箔押しされた表紙がうつくしかったので、上巻だけ手にとりレジに向かった。
そして、近頃にいたるまで、このクロニクルは丁重に本棚にしまわれていたというわけである。
大学院以後
大学院時代には、ゼミ生が研究対象にしている関係で初期三部作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」)を読み、また、比較的近年に書かれた作品群(「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」『女のいない男たち』)も読んだ。
どれもおもしろく読めたが、村上春樹の文章は私の身体を心地よく通り抜けていった。不思議なことは起こるものの、静謐ともいえる空気に満たされ、主人公は(ややもすれば、単調で退屈ともいえる)日常を繰り返していた。その後ゆるやかに、私は村上春樹の世界から離れていった。
再びの邂逅
そして、2022年の秋、突然私は精神の不調で苦しむことになった。
ちょうど30歳となる節目の年だった。
現在は適応障害と診断され、休職の状態にある。
突然の動悸から始まり、手足の痺れ、呼吸が浅く感じられるなど、様々な身体的不調が襲ってきて、心身ともに参ってしまった。
そんな中、私が本棚から引っ張り出してきたのが「ねじまき鳥クロニクル」だった。理由は、村上春樹作品の文章・内容はスムースだという印象があり、しんどい状態でもおもしろく読めそうだから、という軽いものだった。
ただ、実際に本をひらいて読み始めてみると、主人公の岡田亨は次のような状態に置かれていることがわかった。
年齢的にも状況的にも人生の岐路に立ち、「何もない」と途方に暮れていた私は深い共感を覚えた。
誤解を恐れずにいえば、これは私のための物語だと思いさえした。
学部生の頃、批評家・随筆家であり詩人でもある若松英輔さんの「詩学」という講義を受講していたが、そこで「本に呼ばれる」ことがある、とおっしゃっていたのを唐突に思い出した。私には、この「ねじまき鳥クロニクル」のみならず、それを事実として思い知らされることが時折ある。
次回更新にむけて
なにはともあれ「ねじまき鳥クロニクル」とは、岡田亨をはじめとする、何者でもない(あるいは何者でもなくなった)様々な人間が絡み合い、内省を深めていくうえで、喪失のなかから新しい世界を立ち上げてゆく物語ではないかと考えている。
難しい言い回しとなってしまったが、次回以降、私の感想を自由にたのしく紡いでいきたい。
少しでも興味を持っていただけるのであれば、この”登山”にお付き合いしてもらえると嬉しく思う。(つづく)
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