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「普通の範囲がせまくなっている」という指摘の息苦しさ

通の人、マジョリティに属している人には
「普通じゃない」と言われることに
潜在的な恐怖があるのかなと思います。

神経発達症(発達障害)が有名になるにつれて
・普通の範囲が狭くなっている
・昔はそういう人がいても、病気や障害とは扱われず、ちょっと変わった人というぐらいだった。(だからそんなに気にしなくていい)
と言った主張も目にするようになりました。

発達障害で困っている人にとっては、
普通じゃないことが日常なので、「普通」かどうかは、あんまり問題ではないというか…それより困ってる事をなんとかしたいんですけどね。

普通の範囲が狭くなってるって主張を
どこで感じるかというと、
例えば、いのちの言葉社のメールマガジンで
紹介されてたこちらのセミナーや本とか、

・コミュニティ(共同体)で支える「こころの育ち」
https://m.facebook.com/photo.php?fbid=795429685485360&set=a.711908497170813&type=3&locale=ja_JP

発達障害、愛着障害、うつと「診断」される子どもたちが増えていることから、この社会の「普通(通常)」の概念が狭くなっている現実があります。 そして、三年にも及ぶコロナ禍で、子どもたちの「こころの育ち」に深刻な影響が出てきています。 子どもたちにとってますます生きにくくなっているように感じるこの社会で、家庭だけでなく、教会をはじめとするコミュニティー(共同体)全体で子どもたちの育ちを見守るために今できることを考えます。

上記URLのFacebookページより


・「発達障害とその子「らしさ」 児童精神科医が出会った子どもたち」田中哲
https://www.gospelshop.jp/smartphone/detail.html?id=000000002968

発達障害のある子どもたちが、自分をどう思うかということを考えたときに、「伸び悩んでいる自己像」という表現がぴったりくるように思います。
発達障害のある子どもたちは、自分はみんなとどこか違っていて、みんなからは「劣っている者」と思われていると感じています。自分自身がそう見えてきたときに、子どもはさらにがんばれるでしょうか。「そんなもの、はねのけてやる!」と、ほかの子ども以上にがんばりを見せるというのは、なかなか難しいではないのでしょうか。

発達障害とその子「らしさ」本文より抜粋


最近だと、山口周さんの記事とかです。
(山口さんの記事はいつも発見があって有意義な記事ばかりで、この文脈で書くのは心苦しいですが…)

#071 「普通でない」はなぜここまで忌避されるようになったかhttps://note.com/shu_yamaguchi/n/na32573566e1c

昔から「普通」の人たちが気づいてなかった
「普通じゃなさ」があるだけでは。
恐れてるのはマジョリティ側の人で、
「普通ではない」人は、「普通ではない事」を恐れてはいないのでは。
人間の精神的性質の解像度が上がったので、困りごとの解像度も上がったのかもしれません。
DSM5の病名が増えるのは、解像度が上がったからだと思っています。
普通じゃなさの解像度が上がったというような。


普通は、フツーに単純に努力をしたらいいような話なんだと思います。
なにかの「病気」のせいだと思う方が解決から遠のくというか。

でも、不運にも少数派だったばっかりに
問題が増えている発達障害の当事者にとっては、

病気と認識できた=問題解決の道筋が見えた

みたいな事になるんじゃないかと。

たぶん、普通をせばめないでほしい派の人たちの中では、「発達障害」は存在していないのかもしれないですね。
「発達障害ではない=定型発達」の人が
自分の事を発達障害と疑うことがあるとしたら
どう考えるか?が思考の中心にあって。
「それぐらいのことで発達障害とか名前を付けられるのは、私だったら嫌だ」みたいな思考から言ってるのかなと。

定型発達の人は、定型発達OSで考えるから
情報を入力しても出力されてくるのは、「定型発達の人がどう考えるか」に置き換わっているように思います。だから、普通を狭めないでほしいといったニュアンスの意見が出てくるのかもしれません。

お互いメタ視点から話せると
良いんですけどね。

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