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エビデンスのエビデンスをエビデンスして欲しい

「~というエビデンスがある」
「~というエビデンスはない」

というやり取りを見るようになったが、彼らのいうエビデンスとはどういうものなんだろうか?と思うことがある。チラっと調べてみるとエビデンスの中にもレベルやグレードがあるようだ。

専門的な正確な表現とズレてしまうだろけど、

「専門の人がそう言ってた」レベルから

「~という研究結果がある」レベル

「それは常識、みんな守るべき」レベルと、幅は広く、

この『研究』にも調べ方や規模によってランクが変わるし、
『結果』発表の場が学会なのか、論文なのか、学術誌に掲載されたのか等で、取り扱われ方が変わる(たぶん)。

ただ「これが唯一の真実」と確定するまでは同レベルのエビデンスでも相反する主張は出てくるし、追跡調査の結果によって逆の事実がわかることもある。結局は「どれを信じるか」みたいな話になってくるように思える。


それに「これが唯一の真実」と確定しても、その前提の条件が変わることによって、「その人・国にとって最善の選択」というものは変わるので、もう何がなんだか。


そんなことを思うと「~というエビデンスはないから◎◎する・しない」という主張はナンセンスで、逆のエビデンスを提示されたときには「ここの部分が今の私たちには該当しないので~」と評価しないと、傍から聞いていると何がなんだか。不毛なやり取りにしか見えない。

ちゃんとした評価が実際にはちゃんと行われているのかもしれないけど、「~と主張されたが、そんなことはありません」って回答では説明になっていないし、相手に理解されないと同じやり取りを繰り返すだけになる。


それはそれとして、

何をどう評価して、どういう行動をするのか、
自分の身の回りのことは、それぞれをちゃんと考えて決めたい。

「高齢者」と区分されていても、
「65歳以上は全員」とするのが適切でないこともある。
「強靭な70歳」と「虚弱な60歳」で対応は変わるべきだし、
複数の指標を用い、個々の状況を考慮すると何が「正しい」かは変わってくる。

これは「うえの人たち」に求めてもしょうがない。
責任のある立場の人は集団として扱うしかないので、直接自分に関わることは自分で評価して、周囲にも説明して決めていくしかないと思う。

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