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貉 むじな

 間が差した。他になんといえばいいのか?思い浮かばない。蠢(うごめ)く何かが視界に飛び込んだことは、はっきりと記憶する。急ブレーキをかけるなり。急ハンドルを切るなり、その何かとの衝突を避ける手立てはいくらでも有りえた。しかし私は、敢えてそれを怠った。いや怠ったという言い方は的を得ない。むしろ意図して私は、アクセルを踏み込んだ。敵意をむき出しにして、そいつの息の根を止めるために。

 命が宿っている何かであることは、瞬時に判断がついた。犬なり、猫なり、生き物を車で轢いた経験のあるものは理解できるだろうが、無機質な物とは明らかに異なる、身の毛がよだつような独特な感覚が、たとい相手が畜生であろうとも命を殺めるときには全身を駆け巡る。

 スピードメーターにはあえて目を向けなかったので、一体どれだけのスピードが出ていたのかは分からない、しかし50キロやそこらでない事だけは断言出来よう。

 苛立っていた。

 傍から見れば何にそんなにムキになるのか?ぐらいのことかもしれないが、あの日の、正にあの時、当たりかまわず目にするすべてのもの、耳にするすべての音に腹が立ってならなかった。

 そう意味なく苛立っていた。  

ハンドルを握ると人格が変わるというのは、ある種の精神疾患なんだろうか?年を重ねるごとその兆候が顕著になるのを、身近な人間から指摘を受けるまで、自分自身、気が付きもしなかった。

 一瞬の出来事だった。くぐもった何かを巻き込む鈍い音が、脳裏を駆け抜けたが、さしたる衝撃は感じなかった。コマ送りのビデオ映像によく似た光景が眼前に広がり、次の瞬間、一塊の影が車の後方へ霧散した。

私には、敢えて車を止め、何を跳ね飛ばしたのか確認しようなどという気は起きなかった。却ってそうしたことにより鬱積した心の憂さが、どこかへ消え失せ、ほっとしたぐらいだ。

 深夜の移動はその後、何事もなかったかのように順調に続いた。つい先ほどまでの苛立ちは一体何だったのかと問いただしたくなるような、晴れやかな面持ちで,そして時に鼻歌交じりで自宅へと辿り着いた。少なからぬ緊張の糸が切れ、睡魔の襲った目を瞬かせながらバックミラー越しに後方へ目を向けると、リアウィンドウの外に、明らかに意志を持つ人間の目をした一匹の    血だらけの貉が、こちらを睨みつけていた。

「おい、おい、人のことこんな目に遭わせておいてだんまりかよ。それならそうでこっちにも考えがある」

「自分の墓穴、自分で掘らせてやらー、そうだついでに俺の分も頼むとするか」

「お前らの世界の諺とやらに、同じ穴の狢てーのがあるそうじゃねーか?」

 

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