いつだって、答えはシンプルだ。
わたしたちは、日々選択をしながら生きている。
目が覚めた瞬間、何をしようと、誰と会おうと、自ら意思決定のできる朝が始まるのだ。
ある人は、その状況を自由と表現する。またある人は、その状況に気づかぬ日々を過ごしているのかもしれない。
とはいえ、自由を手に入れたら、何もせず満足して過ごしていけるのだろうか。
どうも、そうとは限らなそうだ。
だから私たちは、溢れかえった情報の中から、何が正しいのか探そうとする。さまざまな視座を手に入れては、あちらから、こちらから、分析をする。そして複雑化したものを正当化させようと点と点を結ぶ。
なんだか、意図も複雑化されていることが正しいかのように。
こじつけて物を語ることに、美徳が生み出されるかのように。
必死で自由という名の暗号を所有しようとする。
もちろんそれが間違いとは思わない。
問い続けることはにんげんの宿命だと思うし、向き合うことで気づけたことが私もこれまでたくさんあったから。
でも、それって自分の「本当にありたい姿」なのだろうか。
時に複雑化しているうちに、目的と手段の入れ違いが起こったり、何かをこじつけで結びつけてしまったり。
そんなふうに、私は何度もなんども、社会に居場所を見出そうとしていたのかもしれない。何者かになろうと必死でいたのかもしれない。
でも、本当にすきなものって、もっと、もっと単純で良いんじゃないだろうか。
前置きが長くなったが、こんなふうに思えたのは、灰谷健次郎さん著書『兎の目』を読んだことがきっかけだった。
***
新任の小谷先生が、問題児の鉄三をあきらめずに育てていく物語。
そもそも鉄三を問題児と表現するにも違和感を感じるのだが、
“みんな一緒がいいね” の教育社会の中では鉄三は確かに問題児と揶揄されるかもしれない。
しゃべらない。ノートも広げない。授業中はぼーっとする。人をひっかく。問題児と言われるような行動を繰り返してきた鉄三。
それでも自分がすきなものに純粋で、まっすぐで、追い求める姿。どれだけ授業を受けても文字が書けなかった鉄三は、自分の飼っている大量の「ハエ」を覚えるために、文字を書き始める。絵を描き始める。そして誰よりも詳しく、研究する。
なんだか今の自分が本当に憧れる姿だったように思う。
私たちは世間からの評価を気にして生きているわけではないし、逆に世間からの評価で何かを選んでいるわけでも、肩書きで人を選んでいるわけでもない。
ただ、すきで、心が動くことを感じられるのかどうか。
難しいこともこれならやり抜きたいと思うのかどうか。
本当に何かに夢中になる原動力は、それだけでいいんじゃないかと思う。
小学生のころ、土が気持ちよかったから裸足で走り回ることを覚えたように。高校のころ、みんなで歌いたかったからギターの猛練習をしたかのように。
そうやって、何か純粋に、シンプルにやりたいことのためにどういう方法で進んでいくのか。
それを考えることに時間を費やセル自分でいいんじゃないかな。
この好きなことに考える時間を費やすという覚悟が、一番むずかしかったり怖かったりするんだけれど。
怖くてもやりたいと思えることに、どれだけ熱量を捧げられるのか。そういう判断基準で物事を行っていきたい。
いつだって、私たちは自由であるから「やらなくてもいいんだよ。」そんな問いかけをしていきたい。
そして、その返答に「それでも、やりたい。」と思えることに熱意を注いで生きていきたい。
最近忘れかけていた話。
もっと、もっと頭を柔軟にして生きていかないと、頭でっかちのまま終わっちゃうね。
深呼吸。しんこきゅう。