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幸せについてまだ本気出して考えられてない

自分で自分を幸せにするのって難しい。特にこの情報化社会じゃ一層難しい。物で溢れているから一見簡単に見えるけれど、物で溢れているからこそ自分にとって大事なものが埋もれてずっと見つからなかったり、大衆的な喜びに流されてしまったり、他人と比べて、上限の無い唯物的な幸福に途方に暮れてしまったりするだろう。「自分の幸せはこういうものだ」と納得できていたつもりでも、自分では想像できないようなケタ違いの幸福を抱えている人間を見て、腰を抜かすこともある。それも情報化社会の一面だ。

そして幼少期からしんどい人生だったりすると、幸せになるのはとっても怖い事なのだ。私の場合何か良い事があっても「この後ひどく悪い事が起こるんじゃないか」とか「罰されるんじゃないか」なんて思う。多少しんどいぶんにはいつも通りだから「まあいいか」って具合に。
(これ、わからない人には“自分から好きで不幸になりにいってる”って思われがちだけど、当事者から言わせるとそういうんじゃない。仕組みとしては脳味噌がそう能動的に防衛しているからなので、勝手でやってるように見えるだろうけど、その自ら動いているものは無意識や反射であり本人の意志とは関係ない事が多いのだ。少なくとも私はそうだ…。(そして多くの人は本人も含めてそこに気付かない)大衆は見えないものに疎いので、幸、不幸以外の問題でもこの手のケース(脳のシステムで結果として打ち出された行動を、意志があるものだと思いこんで自責したり糾弾されたりするの)はよく見る。)

ただ自分が不幸なのをずっと長い間許していると、それこそ自分の意志とは関係なく他人を攻撃してしまう日が来てしまう。自分が嫌いで心底憎んでいる人は多いけれど、身体はそうじゃない。本能的に自分の身を大事にするし、無意識ではみんな自分の事が(程度の差はあれ)好きだ。
生き残って子孫を残す事は(本人の意志や思想とは関係なく、生き物として)最も重要だからだ。

ゆえに自分が損をすること、もしくは生存競争に不利になることを人間は嫌う。(まあ人間だけでなく大体の生き物はそうなんじゃないかと思うけれどここでは割愛する)

だから主観的な幸せがしっかり自分の中にないと、幸せそうな人を見て酷く惨めな気持ちになったり、足を引っ張ったり、その幸せが壊れればいいのにとか思っちゃったり、酷いと本人に言っちゃったりするわけだ。

自分は「小さい頃からずっと思うように遊べていない」というコンプレックスがある。
幼少〜児童期は、教育虐待があったやら機能不全家庭で育ったやらで遊べていない。
思春期は、禁欲的かつカルト臭の強い全寮制の学校に6年間親にブチ込まれて、脳を終末論で洗われていた。
遊び盛りの大学以降は、病気をして遊ぶどころじゃなくなってしまったし、親や環境の縛りがなくなってからも生きることに精一杯で…だとか、そもそも遊び方を知らない…だとか、それこそ「多少遊ぶと大罰を喰らうような罪悪感」がずっとあって、いざというと尻込みして、遊びの渦中にいても心ここにあらずだったりしてダメなのである。(その所為で大きな遊園地が強烈に苦手だ。過去二回だけ行ったことがある。嫌いではないし行きたいのだけど、行ったら行ったでずっと体調が悪いし怖くてずっと泣いているのだ。ただこれすら“遊園地を普通に楽しめる人たちに嫉妬してイライラ言ってしまわないよう自分で作ったバリケード”な気すらする)

今は昔ほど縛りがない…はずなのだけれど、大学からの病気を去年一昨日で酷く悪化させてしまい、日常のことですら一つ一つの事に逐一沢山エネルギーを食わないと動けない身体になってしまった。
刺激にもより一層、随分弱くなってしまったので、自分からはなるべくフラットで楽しくも苦しくもない凪いだ場所や環境に居る、または凪いだ心で居る、ようにしている。

だが本音はしっかり遊びたい。行ってみたい場所がたくさんあるし、やりたいことも沢山ある。青森なんかは10年くらい前からずっと「行きたいけど行きたくない」等と言い続けて、幻想化しきって滔々行くのが恐ろしくなってしまった。海外に留学していた頃は人生で一番充実していたので、今度は数年滞在して生活基盤を作ってみたいなとか。実を言うと同性風俗も行ってみたいと思いつつ、遂に結婚するまで行けなかったし、色んな異性とも本当は(いけないことだと言われすぎて逆に)遊んでみたい。性的なことはもう結婚相手としかしないにしろ、異性の友達作っても釣りとか映画とかだけ行くぶんには不倫にはならんのじゃないだろうか?この辺りは要相談か。
もっと色んな服を着てみたいし、メイクもちゃんと色々覚えたい。バーベキューキャンプもまだやったことがない。フェスも行ってみたい。行く度に身が壊れるような恐怖心や寂寥感を感じなくてもいいくらい、何度だって遊園地に行きたい。

ただ本音はこうでも、実際は家でじっと本を読んだり、行きたいな〜と旅行ページを見ながら連休を見送ったり、祭りを参加するでもなく道端から傍観している方が圧倒的に楽なのだ。ちなみに調子が悪い時はこれらのことすら出来ない。遊びたいのも遊びたくないのも両方本心なのだ。
全く自分を幸せにするのって難しい。

自分を幸せにすることが簡単にできる人はある意味才能だと思う。ガツガツと幸福を求めずただあるがまま目の前に感謝ができる人達。(どうしても幸福をガツガツ求めると次から次へ幸福の定義や上限がコロコロ変わっていつまでも満たされないだろう。)ただ向上心や自己保全も一緒に捨てなければいけないような気がして、毎日あって当たり前のものたちに感謝するのは私には難しい。
なかったらなかったで適応するものもあるし、あったらあったでしんどいものもある。それは人それぞれ違うから「あなたがあって当然だと思っているものは他の人が望んでも望んでも手に入らないものだ」という通説はよくわからない。如何に恵まれているかを幸福の基準にすると、そういうざまになる。ただ、必要なものが「在るところには在って、無いところには全く入ってこない」という循環が酷いものだというのも共感できる。
「全部は揃ってなくても、これがあれば自分はハッピーだ、これはないといけないやつ」というものを自分で知っておくのが重要なんだと思う。

じゃあ、私の“これはないといけないやつ”はなんだろうか‥‥?
まだよくわからないが、早めにそれを見つけたほうがいいだろうなと思っている。







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