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11.初登場の光秀と多賀と信長上洛

基本的に私のこの投稿の欠陥は、六角氏と明智家がつながっていたという仮定を元に書いていますし、そもそも、殆ど専門家の本などを読んでいないのと、戦国好きという訳ではなかったので、基礎的な事を全く知らず辻褄が合わない所も出てくるかもしれません。

又、光秀はじめ、地元にかかわる方はエコ贔屓しますし、近江出身説に無理やり持っていこうという深層心理も働いてしまう事をご理解の上(笑) 、温かくゆるやかな気持ちで読んで頂ければ、幸いです。

1.足利義輝 暗殺される

1565年(永禄8年)
 第13代将軍足利義輝(大河ドラマ「麒麟がくる」では、向井理)が松永久通や三好三人衆らによって暗殺されます。

松永久通は、松永久秀(「麒麟がくる」では、吉田鋼太郎)の息子

三好三人衆は、前年1564年に亡くなった三好 長慶(「麒麟がくる」では山路和弘)の後を継いだ三好長逸・三好宗渭・岩成友通。

この二人は、暗殺に参加していなかったのですね。

それまでの背景としては、将軍足利家に力がなくなり、細川晴元(「麒麟がくる」では国広富之)が実権を握ったけれど、三好 長慶にとってかわられ、その時、細川晴元は 将軍足利義輝 をつれ、妻の父である六角定頼を頼って近江に逃げています。

六角定頼がなくなり跡を継いだ六角義賢も、足利義輝・細川晴元を応援しており、将軍方と三好方の和睦に尽力したり、細川晴元を若狭武田氏に嫁いだ姉妹(定頼娘)の元にかくまったりしています。

その後、将軍義輝は全国の大名の紛争の調停を行なったり幕府の役職や自分の名前の一字を与えたりして、将軍権威の回復にがんばって行きます。「麒麟がくる」の光秀との出会いにつながるのですね。

それにしても義輝が、やたらと名前の「義」をあげているので、これ以降、名字を書かないと、とてもややこしくなりますの(笑)

 気になる名前、進士氏 発見

この将軍が暗殺された事件は、永禄の変と言いますが、この中に「進士」という名が出てきます。将軍家に仕えていて、この時亡くなっています。

多賀と鈴鹿山脈を挟んだ隣村、時山(土岐山)のある上石津町に

「明智氏に子供がいなかったので、進士氏に嫁いだ妹の子を養子としたその子が光秀だ」と、いう伝承があります。

この伝承は、岐阜の生誕地説の中で唯一文書として書き残されているものだそうで、佐目の伝承を否定するものではなく、生みの親が進士氏で、育ての親が叔父にあたる明智氏だとすれば、光秀の父が誰かわからないという事も、なんとなく理解できるなと思っていました。

もちろん、光秀は明智家の血をついでいますが、もしこの進士氏が親族だったなら、六角氏ルートだけでなく、幕府とつながるルートがあった事になります。そして、三好三人衆は、仇という事なのですよね。真実はいかに。

2.弟・足利義昭を将軍に。細川藤孝 登場

第12代将軍義晴義輝も近江六角氏一族(朽木氏等)を頼っており、大和で仏門に入っていた義輝の弟  後の義昭(「麒麟がくる」では滝藤賢一)を将軍にするべく、三淵藤英(同、谷原章介)・細川藤孝( 同、眞島秀和)兄弟などの幕臣の援助を受け、又も近江、守山に移り、矢島御所としました。

先に松永久通(同、吉田鋼太郎) は、義輝暗殺に参加していないと書きましたが、久通は大和を治めており、三好三人衆が将軍家の跡取りを殺したのを知り、義輝の弟である義昭は幽閉するだけで、その後義昭擁立に動き、三好三人衆と戦う事になります。

細川藤孝は、三淵家に生まれますが、父が細川家から三淵家に養子に入り、藤孝が再び、細川家をつぎます。

★★★  藤孝の姉妹は、近江高島氏にお嫁に行ってるじゃないですか!

1566年(永禄9年) 
信長が上洛の兵を起こしましたが失敗し、六角氏にも不穏な動きがあるとの事で、足利義昭は 近江から越前の朝倉義景のもとへ9月に移り、上京の機会をうかがい暫く越前にいました。

六角氏の不穏な動きが何か気になりますが、先に進みます。 

3. 光秀 初登場! 最古の記録 高島田中城に籠城

1566年10月以前のあたりに、光秀が高島田中城に籠城していたというのが、現在、光秀最古の確かな一次資料と言われています。

当時、浅井長政が高島に攻撃をかけています。六角氏と二分されていた近江京極氏を乗っ取り、国盗りに動いていた時です。光秀が田中城に籠城していたという事は、反長政に仕えていた、つまりは六角方だったか、細川藤孝の要請で姉妹の嫁ぎ先の高島氏の応援に行って、争いごとを鎮めようとした幕府側なのかのどちらかのように思われます。

いつも将軍家がお世話になっていた高島一族の朽木氏の所に寄れず、朝倉氏を頼ったという事は、単純に戦地となっていて危なかったからか、不穏な動きのあるという六角の息がかかった所には世話になれないと判断したのか。

悩ましい限りですが、その後の光秀の動きを見ると、この時期に六角氏と決別したのではないかと。( 基本、光秀と六角氏とが関係あったならという前提で素人が書いています。あしからず) 

4.近江、六角はバタバタだった。

時を少し戻すと、1563年 近江では 観音寺騒動がおこっていました。

既に、浅井氏は離反し、長政は嫌な結婚を六角に強いられ、そのあおりを食って、多賀の久徳氏は長政にやられています。

この時、六角氏は高頼、定頼、義賢と続き、家督を嫡男 義治に譲っていました。この義治が暴走します。

光秀ルーツの土岐家ではない斎藤義龍と勝手に同盟を結んだり、六角家臣の中で信頼の厚い後藤賢豊と長男を殺してしまいました。離れていく家臣も多く弱体化しています。もし、光秀が明智家の再興を願っていたらと考えると、やってられんわ! ムリ! という状況です。

そういう時期に1565年足利義輝暗殺、1566年光秀田中城籠城になります。
そして、1567年、とても近江・滋賀県らしい事がおこります。他国とは違い、家臣が主君の権限を抑える分国法を作ったのです。六角氏式目と言います。すばらしいのは、権限を抑えるだけでなく、六角氏を中心とした秩序も回復させようとしています。高頼の時代から築かれた強い自立性を垣間見る事が出来ます。が、それも束の間。1568年を迎えます。もし、この時の不甲斐ない対応がなければと、滋賀県人としては、悔やまれます(笑)

   うっ、この後藤氏って、もしや!!

暴走した六角義治に殺された後藤賢豊と長男。その後、家督をついだのが次男の高治です。
その後は父らの仇として六角氏と敵対したが、1567年に和睦し、先の六角氏式目に連署して義治の専制に歯止めをかけています。

この後藤高治の通称が、喜三郎 なんです。きゃー。
『淡海温故禄』に、光秀の山崎の合戦に、昔の旧い好みとして、多賀氏や久徳氏と共に参戦した 後藤喜三郎ではありませんか!!!
多賀大社に関りのあった近江国士36人衆にも あります! 確かに、昔の旧い好み。

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おまけに、山崎の合戦に敗れた後、蒲生氏郷に仕え、名前を変えているんです。「戸賀十兵衛尉」と名を改めているのです。光秀の十兵衛ですよ! 

負けたのに、ワザワザですよ。どんだけの思いがあったのでしょう。きっと、とてもお世話になって、尊敬していたのだと想像してしまいます。

泣ける。

5.光秀、信長と出会う。

1568年(永禄11年)6月22日 付

細川藤孝の使いで、光秀が信長に足利義昭の書状を届け、その返事に、「詳しくは、明智(光秀)に申しわたした」とはじめて名前が出てくるそうです。(『信長文書』280 号) 原文が確認できないのでわかりませんが、少なくとも文書的には、光秀と信長のはじめての出会いとなります。

つまり、この時はまだ、光秀は信長の家臣ではないという事ようです。しらんけど(笑)

この事がきっかけで、信長は足利義昭を岐阜に招き、上洛へと動き出します。 
越前 → 近江 → 美濃 → 京都 というルートです。

6. 多賀大社と細川藤孝と光秀

確か、この足利義昭上洛の時に、多賀が関係していたというのをどこかで読んだ事があったのですが、全く思い出せずにおりましたら、お友達が貸してくれた『明智光秀の正体』咲村庵著 にありました! 

細川藤孝からつながる『細川家記』『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』です。これは、本能寺の変から200年後に書かれていますので、軍記物にも汚染されている部分も多々あるそうですが、逆に軍記物には載っていない所は、独自の資料に基ずくと考えてもいいかもと、抜粋されていました。
原文が、国会図書館デジタルコレクションにありました。

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7月10日藤孝は、光秀と密かに計画して、光秀家人溝尾庄兵衛・三宅藤兵衛20余人を添て、阿波ケ口で待ち、信長の迎えの使者として不破河内守・村井民部・嶋田所之助 千余人にて江州犬上郡多摩(多賀)で待っていた。又浅井長政を警衛の為に向かわせ、長政は自ら浅井福寿庵・赤尾美濃守、五百余人をつれ越前の境に向かった。

義昭公7月16日一乗谷を出で、朝倉義景は使者をだして近江の境まで見送り、そこからは浅井・不破等がお供し、藤孝は江州大野(犬上)郡より阿波谷に行き、穴間の谷を経て、若子橋より仏ヶ原に御出、明智光秀五百余人にて迎えた。
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と、いうような事が書いてあるようですが、私が知ってる範囲で、犬上郡(彦根市含む)に多摩はなく、大野郡もありません。つまり、他の地名も怪しく200年もたつと、こんな風になってしまうのかと少々あきれましたが(笑) 1000人も滞在できる場所といったら、多賀大社しかないように思います。

なぜ、多賀大社か。

最初に、細川藤孝と光秀が密に計画をしたとあります。
そもそも、領地があったと聞かない光秀に500人も集められたのか、不穏な動きの六角氏のおひざ元で、そんな事が可能なのかという疑問がうかびます。

1.光秀が多賀出身

これは、今まで無視されてきた説なので、誰も検証していてくれませんでした(笑) 

・ちょうど、六角氏にはウンザリしていて、さりとて、死んでも浅井につきたくない武将がいっぱいいました。このあたりの土豪を味方につけるという事は、美濃から京への道も確保できます。昔の旧き好み。この後すぐに多賀氏や久徳氏が『信長公記』にも登場してくる事を思うと、光秀が動いたと考えるとすんなりガッテンできます。

・近江の歴史を偽りで翻弄したと有名な『江源武艦』にも、多賀の武士(楢崎氏、種村氏、久徳氏)が上洛に同行したとあります。が、人数が飛びぬけて違いますので検証は必要ですが、全く嘘とも言いがたいので、参考までに。

2.細川藤孝と吉田兼見は、いとこ。多賀大社は断れない。

光秀関係の本には、必ず登場する 吉田兼見 と光秀研究にはかかせない『兼見卿記』ですが、ここに多賀大社もよく登場します。何せ、多賀坊人がはじめて文書に登場するのが、1336年の吉田神社なんです。長いお付き合いです。

又、吉田兼見の父と、細川藤孝の母 智慶院 とは兄妹なので、二人は従兄弟という事になります。

余談ですが、ほんとか嘘かはわかりませんが(ある意味、本質をついてるかも) 、智慶院は将軍足利 義晴の寵愛を受け身ごもっていたけれど、正室が決まり、三淵晴員と結婚し生まれたのが藤孝という話があります。つまり、足利義輝も義昭も異母弟という事になりますね。すごっ。

吉田兼見は、京都吉田神社の神主で、明治維新で変わってしまいましたが、吉田神社は、今で言う所の神社庁や伊勢神宮のような立場でした。

そんな、吉田兼見から「今度、藤孝が世話になりたいって言ってるんだけど、よろしくね」なんて頼まれたら、「イエッサー!」と言うしかありません。元々、天皇家や将軍からの崇敬もあり、足利将軍の上洛をサポートさせて頂けるなんて、「はい! 喜んで!」という具合だと思われます。

多賀大社不動院門主が兼帯する 京都尊勝院から吉田神社まで歩いて30分。
前回10.に書きましたが、将軍家とガッツリかかわりのある日野家の子息が門主になっています。

又、これも光秀研究でよく出てくる『言繼卿記』(ときつぐきょうき)ですが、ここにも、多賀大社の坊人がチョクチョク出てきて、山科言繼の奥様などは何度も多賀大社にお詣り頂いている事がわかります。

つまり、多賀と光秀が関係していれば、幕府と関係があった氏族というブランドを持ちながら、多賀大社の使いとしてフリーの武士の立場で、吉田兼見山科言繼と会う事も可能だったのではと思います。あくまで、妄想ですが(笑) 

7. 多賀大社に信長からの禁制が!

この後、六角氏が信長にやられてしまうのですが、突撃の前に 多賀大社に信長の禁制が届きます。

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私の手元には、これしかありませんが、多賀大社には本物があります。
誰が頼んだのか、仕組んだのか考えると、もちろん多賀大社不動院ではあると思うのですが、かなり強引目の妄想ですが( 笑) こんなご縁もあります。

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私の先祖は、佐治氏の氏神の社僧をしながら、多賀坊人をしていました。
調べてみて、この豪華ラインナップに驚いたのですが、どんなご縁も、きめ細かく(笑) 営業していたと思われます。多賀坊人と戦国については、改めて書こうと思いますが、信長の妹の「犬」、後に信長により強制離縁させられますが、全く縁のない他国の武将同志の縁を結んだり、内緒の文書を運ぶのも得意分野だったと思われます。

もし、光秀が多賀出身だったら、こういうルートも活用できたという事です。
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今回は、光秀が歴史の表舞台にたった頃の多賀との関係を中心にお話しました。次回は、本願寺門徒と佐目と、光秀のやさしさについてまで、行けるといいなと思っています。
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