見出し画像

不登校は学びのチャンス!?自由とは何か?

今から4年前、10年続いた指導するクライミングスクールを止め、自由を学ぶ場として子供たちと関わってきました。クライミングスクールも、子供クラブと名を変えて、なるべく行動を規制する事なく、競争ではなく調和を目指すクラブにしました。その活動の中で一つだけ気づいたことがあります。それは自由は物凄く難しいという実感です。

自由とよく勘違いされやすいのが自分勝手です。理由としては、自由を追求して生きている人がほとんど居ないことが原因な気がしています。自分らしい生き方、スローライフ、自分の人生を生きよう、など魅力的な言葉をそのまま表面的に受け取って自分にだけ都合の良い解釈をしてしまうと自由からは遠ざかり自分勝手な生き方になります。自分勝手な生き方はたくさんの素晴らしいものを失います。

そういった間違った伝わり方を避けるため、このワークライフバランスも具体的な内容よりも観念的な内容が多くなっています。マガジンの後半にはお金や仕事、人間との付き合い方など、具体的な例を私の経験も交えて紹介していこうと考えているので暫くお付き合いください。

自由とは何か。言葉から見ていきます。自由の「自」は自分を指します「由」は拠り所を意味します。自分を拠り所にして生きている状態。それが自由です。自分で立つと書いて「自立」にも似ている概念です。もともと仏教の言葉のようですが、深い真理を突いている言葉で私はとても好きです。

人間だけでなく、生き物は自由に生きていくのが地球全体にとってバランスのよい状態だと考えます。これを自分勝手に生きていくと考えると、自然破壊や戦争などの言葉が浮かんできます。

仏教には自力仏教と他力仏教という考え方があり、自力仏教は(絶対ではないですが)出家するなどの物理的な難しさも加わってなかなか敷居が高いです。全ては色即是空「無」である、と言った考えや、諸行無常「全ては常に変化する」を受け入れる作業は社会的な営みの中にあってなかなか到達が難しい。そこで他力仏教の出番となり「南無阿弥陀仏」と一言唱えれば極楽浄土という概念を拡げました。他力というのは拠り所に近いですね。この場合の拠り所とは南無阿弥陀仏です。自力仏教では、拠り所となる自分自身の器を清浄にし、またそれを維持するための修行が必要となります。

拠り所としての清浄な器となる自分自身を作るためには出家だけが方法ではないと言います。道元禅師は著書「正法眼蔵」の中で洗顔について事細かに作法を記しています。「いまだ洗顔せずは もろもろのつとめ ともに無礼なり」清浄な心身で表に出ることは礼儀なのです。なんの礼儀か、自分自身への礼儀です。だから耳の穴の中まで日頃から耳が働いていることに感謝して洗う。まさに自分自身という器を磨く修行です。

多様性が叫ばれる時代ですが世間的には自由にあまり良いイメージがありません。学校では先生の言うことを聞く輪を乱さない普遍的な生徒の評価が高くなり、先生もより良い授業内容に変えるなど今までのルールを変えようとするとどこからか足を引っ張られます。会社員のことはよく分かりませんが、出る杭は打たれるので言われたことだけやっている、という人の話はよく聞きます。その理由は自由=自分勝手=人に迷惑をかける=いけないこと、と言う図式が勝手に出来上がって一人歩きしてしまっているからです。なぜそのような図式ができるのか、自由を生きようとしないからです。

多くの人は外に意識が向いています。テストの点数、会社の成績、年収、身長、容姿、これらは全て他人がいないと成立しません。全て人との差、他人の評価が軸になっています。でもそんなものは最初から無かったんです。私はそのことに、アメリカでのフリーソロクライミング(ロープをつけないで登る事)をきっかけに突然空から降ってくるように気づきました。フリーソロは手を離せば死ぬだけです。1か0。その状態に他人の入る余地などありません。自分自身でもって自分の精神肉体と向き合うのです。これが自由です。

ある不登校に悩む家族は子供が不登校である状態に困り果てていました。普遍的なレールを外れることが何かとてもいけないことをしている気になってしまっているのでしょう。学校は社会と密接に繋がった普遍的な生き方を訓練する場所です。算数ができなければ買い物もできません。字が書けなければ不便です。そういった人間社会の営みの中で必要な普遍的技法を学ぶ場所なので「そんなんじゃ満足できない」「肌に合わない」「人間関係が嫌」という人が一定数出現するのは当たり前の現象です。

普遍性を外れることは特殊性の気づきです。これは役割のようなもので、普遍性に安心を覚える人は普遍的な作業が向いています。公的機関での仕事や、工場など定量を安定的に製造する活動などです。特殊性に安心を覚える人はイノベーションを起こしたり、社会に対して新しい価値を提供するような活動に向いています。私は完全に後者なので、日本だけでなく海外でも色々と変わったことをやってきました。これからもやっていくでしょう。

まずこの家族に伝えたいことは、上下の価値観で考えるのをやめましょう。これは想像の域をでない私の推察ですが、この家族の場合は普遍性が最も価値が高い位置に来ているんじゃないでしょうか。それは普遍性を拠り所にしている状態です。故に普遍的でない行動をした時から拠り所を失い、困り果ててしまうのです。拠り所は自分自身です。学校に行きたくない自分も、行きたいと思っていた自分も、その価値に何も変わりはありません。またそういった悩みも恥ずかしくて打ち明けられないと言う人は他人の評価が拠り所になっています。何度も言いますが拠り所は自分自身です。

自由な状態というのは、外側がどんなに変化しても自分の行き先、生き方を自分なりにデザインして実行する力を持っています。そしてその自由の力は生きている限り続きます。その力が消えそうな時、消えかかっている時は、だいたい他人の評価を気にしている時なのですぐに気づきます。私もそういう時があります。しかし私の場合は、クライミング、サーフィン、座禅、1人でキャンプに行ったりと、自由への戻し方を知っています。

普遍性を外れることは特殊性への気づきと書きましたが少し注意が必要です。それは覚悟です。少数派として日本で生きていくことはとても難しいです。刺激的で楽しい日々ではありますが、他人からの攻撃や普遍的世界からの拒絶に出逢う確率が上がります。そんな環境で他人の評価や普遍性を気にしていたらとてもじゃないけどメンタルが持ちません。故に自由に生きる覚悟が必要になってきます。

私にとって他人の評価は最も価値の低いオブジェクトです。訳のわからない評価にイラつくこともありますが、そういう時はサーフィンでもして気分を変える。そうするとこの手の評価は、本人の寂しさや私に対する羨ましさなんかが基盤になっていたことに気づきます。Googleの口コミなんかで文句を言っている人は普段の生活に満足できない憂さ晴らしをしているだけです。試しに悪い評価の店なんかに行ってみると、ちょっと変わった店主がいて面白かったなんてことはよくある。他人の評価なんてその程度のものです。

さて、まとめです。困り果てている時は、自分を磨くなんて厳しいことはできないでしょう。そういう時は好きなことをしてください。ゲームでもなんでも、好きなことをやって遊んだら良い。でも自由のことは常に頭のどこかに置いておきましょう。そうすれば、必ずその自由への思いがあなたに問いかけます。「本当は何をしたいの?」その疑問があなたの人生を導いてくれます。自由とは導きの灯台であり、他人に左右されず自分の人生を生きる力です。

ここから先は

0字

自然と関わる中で辿り着いた『禅』その学びから得た日常生活に役立つゆっくり生きるヒントを発信していきます。

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

よろしければサポートお願いします。いただいたサポートはクライミングセンター運営費に使わせていただきます。