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『共同幻想論』から社会は生まれ得るか?

結論:それだけでは、ムリ

結論から言うと、「その理論だけでは、社会を創生することは、どうしても無理があるだろう」。こう指摘せざるを得ません。

根拠:なぜならば

「感情」「同情」「共感」(まとめてシンパシーと呼びましょう)、「共通感覚」(コモン・センス)という要素がなければ、社会は成立しえない。そのことが、反証をとおして分かったからです(背理法という思考法ですね)

根拠の根拠:なぜ、そのような根拠を主張できるのか

前回まで、この問題を考えるに際して、アニメ(映画)『新世紀ヱヴァンゲリヲン』を取り上げて来ました。そこで、「シンジとアスカとレイ」の間に、または、「シンジとアスカとミサト」の間に、はたして社会はあったのだろうか?という問い掛けをしました。そして、このような問い掛けをするということは、答えはもちろん「否」です。

エヴァの登場人物の間にはシンパシーが少ない

彼らの間には、シンパシーと呼べるようなものが、あまりにも少ない。確かに、シンジはレイに対して「そんなこと、言うなよ」といって、愛情を示しました。また、ミサトはシンジに対して「生きて帰ってきたら、続きをしましょう」と伝える。けれども、それだけです。シンジとアスカ、アスカとレイ、レイとミサトという、主要な4人の登場人物の間に、各人が各人に対等で等量なシンパシーを与えているとは、思えません。

庵野秀明が映画の聴衆を挑発した理由

映画の中で、「映画のエヴァを見に来ている観客たちを映像として流すシーン」があります。これは、はっきりと言い切ってしまうと、「お前たちが、シンジであり、アスカであり、レイであり、ミサトであり、ゲンドウだろう。あなたたちは誰も、他人とシンパシーを共有していないだろう」ということです。「エヴァ」の悲劇は、「聴衆であるあなたたちの合わせ鏡だ」というわけです。

庵野秀明の皮肉めいた指摘は、当たっている

なぜか。観る者の心をつかんだからです。しかも、大勢の心を、つかんだからです。観客に支持されると作品は、控えめに言っても、大きな真実がひそんでいます。

社会契約論の限界

社会契約論は、「合理的に考えた場合、社会はどのように生まれて来たのか」を考えます。その際、合理性とか合理的思考以外のものごとは、捨象します。そうして、社会契約論の場合は、「双方の契約=合理的取引の成立」が、社会を生み出す基礎になる、と主張します。一見、正しいように見えます。けれどもこれは間違っています。

共同幻想論の限界

共同幻想論は、「3人以上の人間が、同じような幻想を抱いたときに、社会が生じる」と考えます。ある程度、当たっています。しかしこれも、すべてが正しいわけではありません。

限界の理由は、シンパシー概念の欠如

なぜそれらが正しくないか。登場人物たちの間に、シンパシー(共感)がないからです。敷衍すると、社会創生の理論のために捨象した要因である、シンパシーという要因が、実は、社会が成立するための必要条件である、ということです。

社会創生における保守思想の復権

そういうわけで、社会契約論的な考え方から、現実の社会を構成していくとこは、「なかなか難しい」と、結論せざるを得ません。ちなみに、「なかなか難しい」と譲歩したのは、ジョン・ロールズがいるからです。ジョン・ロールズについては、機会をあらためて、話します。

社会創生の必要条件は「共感」

今まで見てきたとおり、社会創生のための必要条件は、理性ではなくて、共感応力でした。そして、共感能力の重要性を強調したのは、アダム・スミスです。つまり、正統の哲学である保守の思想です。

社会契約論と保守は接続可能か

社会契約論と保守を、結びつけることはできないでしょうか。両者は「水と油」の関係に見えます。しかし、それは本当にそうなのでしょうか?この辺のことを、どこかの機会に、考えてみたいと思います。。

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