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フィクション:遠きはるかなる珠海 ~再会の果てに

  この作品はフィクションであり、#創作大賞2022の応募作品です。
登場人物はすべて架空の設定です。実在する人や企業等とは一切関係
ありません。

この物語は、主人公の久家正雄が50代半ばで、夜の世界で出会った
19歳ほど年の離れた中国人女性春麗との1年間余りの物語です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1,再見(サイチェン)

            1

  (ああ、まだ1時間もあるのか・・・)
2002年(平成14年)の師走も間近い11月下旬の福岡空港。
もう55歳を過ぎて初老の域に入った久家正雄は、待ちに待った若き妻春麗の乗った中国東方航空機が到着するのを待っていた。
寒々とした師走の風が時折吹き込む建て替え前の古びた福岡空港の片隅の
小さな国際線待合室で、イライラする気分を紛らわしながら、すでに1時間あまり時折り吹き込む寒さに耐えて身を縮めていた。

 到着機の案内板がパタパタパタと気ぜわしくめくれて到着を知らせた。
待ちに待った中国航空機が空港に降り立ったことを告げた。
先行の乗客が数組ほど、足早に重い荷物を引きずり立ち去った。
男も女も、次の目的地に向かって気ぜわしく出口へ真っすぐに速足だ。

来ない、まだか!まだか!・・・やっと今日の日が来た!うれしい。
正雄の心は、まるで堰を切った水のように熱き想いがこみあげてきた。

乗客の一塊の大きな集団が立ち去り、また小さな集団が、
とぎれとぎれに足早に立ち去ってゆく。
乗客の塊が途切れてぽっかりとひとつの間をおいて、やっと来た!見えた!

「春麗!お帰り! 久しぶり!」
「・・・・行くよ!」
再会の喜びを満面にたたえて出迎えた正雄の気持ちに反して、
春麗はちらっと正雄を一瞥したきり、まるで見知らぬ他人に接するかの
ように、能面のようなにこりともしない表情のない顔を正雄に向けて
一言だけつぶやいた。

何だ、このギャップはどうして?・・・うれしくないのか春麗は?
この時の春麗の態度は、正雄にとって後のちまで解けない全くの謎だった。

あれっ男の子がいる!
彼女を出迎えて前に立った時に、新妻の春麗の陰から顔を出した利発そうな
男の子が顔をのぞかせた。
何と!彼女は私に一言も告げないまま、子連れで来日したのだ!
今の今まで子供がいるとは知らないし、また、突然何の前触れもなく
日本に連れてくるなんて?
正雄にとって、ほんの1分に満たない時間の中で、もう2か月も前に籍を
入れて、やっと来日した春麗の緊張をはらんだ心の変化と、見知らぬ子供の存在という重大事が、頭上からドサッと襲いかかってきた瞬間だった。
仕事のことなら何でも自分で対応できるけど、私事になると大変だな。。。
正雄は否応なく押し寄せた不可解なことに当惑するしかなかった。

正雄は、1989年(平成元年)に北九州市小倉北区で飲食店専門の経営
コンサルタントとして創業した。貯蓄はなく、コンサル経験もない環境からの独立だった。前職で飲食店に食器を売る仕事を10年余りしていて、飲食業界の赤裸々な有り様が単に「正直でおもしろい」と感じたことが、この
世界に関わりたいと思うきっかけになった。
飲食店の新規開業のサポートや売上を上げるための新たなメニュー作りなどの活動した。正雄は、赤字や黒字など月々の収支を無視して、ひたすら仕事の実績づくりを行い、学びそして強くなることだけを目的にした。
 その後、契約金の高い北九州市から契約金の安い大分県大分市に拠点を
移して収支の改善を行った。住み心地の良い大分の地は、自然が多くあり、多くの食材を生産する生産県であり、各地に温泉があり、ゴルフ場も多数あった。今から歳をとるのだから、この県に住むべきだなと思った。
飲食店専門の経営コンサルタントという稀有な仕事をしていて、不規則極まりない生活を送る久家正雄にとって、新たに家族として生活をする春麗の
存在は大きな喜びであると同時に、新たに再会時に感じ取った未知の違和感というか不可解さは、その後の避けることのできない試練に変っていった。

                2
  福岡空港から正雄の住む大分県大分市までは、車を使って高速道路と
一般道を利用して約2時間半ほどかかる。
正雄と春麗と男の子の3人は、国際線ターミナルビルの広すぎるほどの駐車場を通り、正雄の愛車のトヨタマークⅡのトランクに荷物を納め、春麗と
子供を後部座席に乗せて、2人とも再会の融和さを微塵も感じさせない緊迫
した空気を孕んで、無言のまま福岡空港の駐車場を出発した。

 久しぶりにミラーに映る春麗は、以前と同じ色白の若くてやや鼻の高い顔立ちで、肩下まで垂らした長い髪がきれいにストレートで、洗い髪のようにサラサラしてすっきりしているのが印象的に見えた。
春麗の色白の顔に映えるリップクリームの鮮やかな赤い色もすごく印象に
残った景色だった。

高速道路を運転中の正雄の心には、移り行く周りの景色が目に映らず、
以前の春麗とは全く違う他人のような態度が何を意味するのか?
何故、自分に知らせぬまま子連れで来日したのか?
国際郵便で受け取った戸籍には、連れ子としての彼の名前すら書かれて
いなかった、なぜだ?なぜだろう?
正雄の脳裏に疑問ばかりが次々と押し寄せてきた。

(何か気を悪くさせたということも何一つ思い当たらない・・)
何よりも、この数か月間の異常なくらいの正雄の頑張りを、ねぎらってくれるはずの春麗の微笑みを心から期待したのに。。。という思いが、
強く深く正雄の心に刻まれたのでした。

そして夕刻に、人口14万人、温泉の湧出量日本一を誇る別府市の何十か所もの立ち昇る湯けむりを眼下に見下ろす明礬温泉前の高速道路を走り抜けて、大分県の県都人口45万人の大分市のインターを降りて行った。

空港から大分市のほぼ中ほどにある、なだらかな高台の中級住宅地にある、地域では名の知れた少し古びた分譲マンションの前に着いた。
別棟の1階には天然温泉があり住人に人気があった。
ここは分譲マンションを賃貸している物件で、正雄が頑張ってやっと手に
入れた春麗の希望を叶えた4LDKの新居であった。

  正雄が元気に5階の部屋の重い頑丈なスチールドアを開ける。
「ここが一緒に住む部屋だよ。春麗!」
「おいで」
正雄は、欧米人が新居に入るときに行うように、新婦を抱きかけて部屋に
入るのをまねしようとして春麗に声をかけた。
「・・ しなくていいよ!」
春麗は余計なことをするなとばかりにキッと正雄を睨みつけ、さっさと
正雄の前を通り抜けて、開けたドアから部屋の中に入って行った。
正雄は彼女のしなやかな背中に向かって、
「何だよ、その態度は!いい加減にしろ!」
「いったい何だと思ってるんだ!」
空港で久しぶりに出会って、新居に着くまでの間に溜まりに溜まった感情の抑えが利かなくなった正雄は、ついに怒鳴ってしまった。
ああ!とうとう言ってしまった!
正雄と春麗の本当は楽しいはずの新婚生活は、この一言で天国から地獄へと一変してしまった。

2,電話

                1
  同じ年2002年(平成14年)の夏の盛りの7月、
正雄は、商業都市でもあり工業都市でもある大分市の海岸沿い一帯を
社有地とする、新日本製鉄大分工場の最寄り駅JR高城駅の近くの住宅街の
一角にある、12畳あまりのワンルームマンションに住んでいた。
もう住んでかれこれ10年目になる。広い窓は一つあるがベランダは備わっていない。
かって福岡県の北九州市内に家庭を持っていた正雄は、独断で脱サラ独立をして、妻のひんしゅくを買い2年を経て離婚になり、それを機に住みたいと思っていた癒しのある大分県に住んだのだった。
正雄にとって、かってあった家庭がなくなった空虚感が、いつまでも
心にぽっかりと穴をあけていた。一番淋しいと感じることが嫌いだった。

正雄の持っているものは、北九州で創業時に購入した横幅が1.6mもある高価なコクヨの木製デスクと、20歳ごろに関西の阪神デパートで初任給で買ったクラシックギターと、パソコンと小さなテレビと粗末なソファベッド、
そして10冊余りの料理などの仕事関連の本と、愛車の白のマークⅡだけが
すべての財産でした。
大分に単身で来て、ワンルームの敷金を払ったら10数万円しか残らなかった。わずか3~4軒の契約先を持つだけだったが、寝食を忘れて契約先を
求め、がむしゃらに仕事をこなした。
正雄は、お金は必要な時に稼げばいい。お金は持っている人と契約して必要な分をいただけばいいという割り切った考えを持っていた。
江戸っ子は宵越しのお金は持たないというところまではゆかなかったが、
お金に執着する性格でもなかった。

この頃の正雄の楽しみは2つあり、一つはご飯大盛りの手作り弁当で、
晩ごはん用と朝ごはん用に、好んで2個同時に近くの弁当店で買っていた。
ボリュームのあるおかずと炊き立てご飯がおいしいところが気に入っていた。
タルタルソースたっぷりのチキン南蛮や鶏の唐揚げ、とんかつなどが好み
だった。もう一つの楽しみは、大分市の中でも外食産業が盛んな高城エリアのJR高城駅の近くにある、愛嬌がよく歌がうまい30代の笑顔が素敵で長い髪のママが経営するスナックで、飲んで歌うことでした。
そのお店は、面倒見のいいママの知り合いの人たちが常連さんで来る小さなスナックでした。カラオケのマイクの音がクリアでエコーもしっかり効いていた。正雄は週に3~4度通うくらいの常連さんだった。

別居して10年、離婚して2年間は、ちょっぴり寂しくもあり、大分県と
いう親族のいない場所で生きるための仕事をこなすため、1日4時間半の睡眠時間が俺の決めた時間として、頑張っている日々が正雄の普段の生活でした。
その癒しが、徒歩5分余りでゆけるスナックで、お酒を飲みながら女性たちと過ごすひと時でした。
デュエット曲を一緒に歌うと、とても楽しい気分になったものでした。
大切にしているクラシックギターを弾くよりも、まだマイクを持って歌う
ほうが得意な正雄でした。
                
当時、大分市の歓楽街の都町は、今のように24時を過ぎると1時間おきに
人影が減る時代とは異なり、飲食店やホテル、カラオケ、夜の蝶の女性たち
向けのブティックや酔客の爆買い目当ての深夜型のベーカリーや怪しげな
媚薬も売るドラッグストアなども点在して、早朝3時、5時まで酔客が動く、
数百メートル四方の土地に1,500店舗がひしめき合う歓楽街だった。

 久家正雄は100人余りで集った異業種交流会で春麗と初めて出会った。
その店は都町のメイン通りにあり、若き経営者中心のメンバーの人気を博すカジュアルなクラブの数多くの女性の中で、春麗は妙に笑顔が濃いめの印象的な中国人女性だった。源氏名はエミといった。
正雄よりはるか下の19歳年下だった。特別に違和感は感じなかった。
(これも奇遇か?昨年別れてしまった朱夏と同じ国籍、同じ年齢差だ!)
当時これと言って付き合う女性がいなかった正雄にとって、
春麗との出会いは、まるでのどの渇きを癒す砂漠で出会ったオアシスのようなものでした。特別な存在、気になる大切な存在になってゆく瞬間でした。
それからのち、正雄は春麗と付き合うようになり、同伴出勤したり、
休みの日はドライブやご飯食べに出かけたりと楽しい日々を送った。
いっぱい笑い、いっぱい抱きしめ、いっぱい愛した!
付き合う女性がちゃんとできたことが正雄の一番の喜びだった。

春麗は正雄のことを「先生」と呼んだ。
別府大学を卒業して、日本人と結婚をして1年余りで離婚していた。
独り住まいの春麗の家に迎えに行った時も路上で待ち合わせた。
愛車で送っていった時も迎えの時と同じ場所で車を降りてさよならした。
住んでいる建物はわかっても、部屋を教えない慎重さは、夜の仕事で身に
着けた保身術なのだろうかと、正雄は思った。
他国に住む外国人だからこんな警戒心があるのだと勝手に理解した。

ある日、突然春麗と連絡が取れなくなった。不思議な気がした。。。
この時に春麗は何らかの理由で中国に帰国していた。

               2
リリリリリリーン!
蒸し暑い7月の夜半、ワンルームのデスクに座ってパソコンで資料作りを
していた正雄の携帯電話の呼び出し音が、気ぜわしく静かな部屋に鳴り
響いた。

「先生元気にしてる?」
。。。消息が途絶えて久しい春麗の声だった!
嬉しさと懐かしさが正雄の胸にこみ上げてきた。

「春麗?」
「ああ、元気にしてるよ!元気?」
「ねえ!結婚してくれる?」
一呼吸おいて、唐突に春麗は結婚という言葉を口から出した。
いったい全体ナニコレ!突然の重大な結婚という言葉にどう反応すべきか?
戸惑い、びっくりした正雄は、
「いいよ!」と後先をまったく考えないまま、思わず返事をしてしまった。
NO!と言える考えもよぎったが、懐かしさが勝ってしまった。

まるで瓢箪から駒の、びっくり事だった!
青天のへきれきとはこんなことをいうのだなと正雄は思った。

中国の深せんの近くの都市の珠海にいる春麗から、結婚の承諾をしたその日
以降に何度も国際電話があり、いろいろと日本で行う手続きに関して説明が
あった。

「本当に結婚してくれる?」
結婚を承諾した電話の次にあった電話でダメ出しを受けた。
正雄は、男が一旦言葉にしたことだから、了解しているつもりだと改めて
春麗に言った。
本当はこの時に断ることもできたと後日正雄は思わないでもなかった。
しかし、それはあくまですべて後から思い返したときに思ったに過ぎない
ことだった。
「一緒に住むのは大きい部屋がいい!」と春麗は伝えてきた。
(このワンルームじゃ話にならないね、別に探さなきゃ)
と正雄は思った。
正雄にとって、改めて10数年ぶりに家庭を持てる嬉しさとともに、
これからすべき春麗の望む彼女からの複数のミッションが是非もなく
覆いかぶさってきた。

それから10日後くらいに春麗から手紙が来た。
そこには、
結婚の条件がいくつか綴られていました。
1,部屋は4LDKで洋室と和室があること
2,洗濯機・冷蔵庫・テレビ・電子レンジなど家電製品は完備すること
3,部屋はきれいな花柄のカーテンとレースのカーテンをつけること
4,生活費は毎月25万円くれること
5,個室の洋間でドアがある部屋をくれること

何だこれは?
これをすべて実現させるお金などこれっぽっちもないよ!!
だけど、
2歳上の前の奥さんと別居10年でやっと離婚手続きが済んで2年余り。
仲の良かった19歳下の中国人の朱夏と疎遠になって1年余り。
改めて、19歳下の春麗という女性と結婚して住めるのなら、日本人でなく外国人でもいいじゃないかという安易な想いが、正雄の心を強く支配して
いった。
実現できるようにやるだけやってみよう!
正雄の男としての固い決心だった。男54歳の決心だった。

  後から思えばこの春麗の要求は、子連れで来日して日本で暮らすことが最大の目的であり、強いて正雄との結婚を望んで電話をしてきたものでは
なかったことが、ずっと後日に正雄自身が自覚することでした。
中国での生活よりも、留学時代に体験した日本の快適な生活を手に入れて、
保証するための要求内容でした。

              3
正雄は男が一旦言った言葉は守らないと、男の値打ちが下がると、
父親の生きざまを思い起こしながら、改めて思いを強くした。

  まさに、鬼神のごとく正雄は仕事の中で春麗の要求を満たすための
200万円以上のお金を手に入れることに奔走した。
まさに人生に2~3回しかないほど全力で頑張った出来事のひとつでした。
新規のコンサルタント契約を周りの仕事仲間の設計屋さん、厨房屋さん、
内装屋さん、食品卸の営業マンさんたちに声をかけてもらって、契約候補先の紹介を依頼して回った。そして条件を甘くして、ようやく3本契約した。

無理して本数を取ると、こなすのは結構大変だぞという思いがした。
月々の契約料とは別に、契約金を設定して見込み客に提示した。
「当初の1~2か月間に大きな負荷がかかる仕事」という理由で契約金を
取り込んで目的を果たす原資とした。
隠れたもう一つの理由は、簡単に最初の1か月だけで解約されないための、
解約防止を兼ねた「契約金」であり、入金は「月額報酬」の2本立てで
仕事の前に前受け金として振込してもらった。

相手を見て、お金を持っている見込み先には80万円~100万円を、
持っていない見込み先には30万円~50万円を請求した。
貧者からは半額請求、富者からは倍額請求が、正雄の契約上の信条だった。
それまで、60万円~70万円位だった収入が、その後わずか2か月間で、
合わせて320万円の奇跡のような現金収入を得た!
半分が契約金で半分が前払いの月額報酬だった。特別に集めた資金だった。

これで春麗の望む新居を準備するお金ができた、よかった!!と
正雄は、自らの頑張りをひとりで称賛した。

3,予兆

               1 
  ここは大分市のはずれにある大分県産品・工業製品の輸出入港になっている大在港の一角にある福岡出入国管理事務所大分支所を訪ねた。
春麗から夜中に突然の電話をもらって3か月後の10月半ばの午後だった。
久家正雄は、白い建物の人気の少ないビルの狭い階段を2階に上がった。
こんな入管みたいなところに初めてきたというドキドキ感でいっぱい
だった。

「入国の手続きに来ました。書類の審査と手続きをお願いします。」
「はい、少々お待ちください。」
若い女性が、正雄と春麗の婚姻と入国手続きの書類の入った封筒を
受け取ってくれた。

しばらく待った後に、窓口の女性から「久家さん」と名前を呼ばれた。
「支所長がお話があるそうです。」
50代後半のいかにも熟練公務員風の男性が、デスクから立ち上がりカウンター越しに目の前に立った。初めて会うこの責任者の方は少し気難しい顔つきをしている人だなと正雄は感じとった。

「久家さん、ご相談ですが、この春麗さんを入国手続きされるのですか?」
「結婚を辞めるということはできませんか?」
おもむろにその支所長さんは、春麗の在日記録の乗った分厚いファイルブックをカウンターの上に置いて、来日が適切でないということをやんわり、
しかしダイレクトに相応しくないこととして伝えてきた。
正雄にとってこの理由もわからず、これという心当たりもないことでした。

「はい、それはちょっと。・・・とにかく入国させてください。」
正雄は窮地に立ち、もう日本の婚姻届けは済ませていると説明した。
中国にもすでにその写しは送っているし、今更なんで聞かれるの?と困惑の極みに陥った。
このまま入国できなかったら一生婚姻の戸籍はあれど、離婚の手続きが異国であるためにできなければ、誰とも結婚できないことになりはしないか?
正雄の心に、にわかに暗雲が広がっていった。

「実は春麗さんはこんな在日の業歴がある女性です。」
「考え直すことはできませんか?」
と言って記録の載ったファイルブックを見せてもいいというようなそぶりを見せた。
正雄は、見たら最後、この結婚は不可能と思うだろうなと直感した。

「もう今まで準備をしてきて婚姻届けも出しているので、入国させてください」と正雄は支所長に希望を伝えた。
この時、一瞬、もしこの判断が後で間違っていた場合であっても、
正雄は、一切後悔はできないのだと覚悟をした。
目の前の2本の紐のうち、自分で選択した1本の紐を選んだのだからと
思った。

支所長は、要請を受け入れられなかったことに不快感を露わにした。
手続きは、奥の席に座っていた若い男性が交代して行ってくれた。
手続きを終わり出入国管理事務所を退出した。

税関の見解では、入国が喜ばしい人物と思われていないことに
一抹の不安がよぎる正雄だった。
(何があの分厚い書類の中に書かれていたのだろう?)
おそらく書類を見たとしたら、これまでの努力も、一緒に住む念願の夢も
水泡に帰す内容だろうなと正雄は思った。

             2
  正雄は入金した契約金などを元手に、新居の準備を始めた。
まず新居を決める!
次に家電製品を買う!
そうだな足りないものは、洗濯機、電子レンジ、掃除機、冷蔵庫か、
結構あるな。。。
ベッドは新しく買ったセミダブルがあるから、カーテンを揃えなくっちゃ。
正雄の心は、春麗との2人で暮らす和やかな光景をイメージした。

新居の敷金や仲介料1か月分に加え、多くの家電製品やカーテンの購入
やワンルームからの引っ越し費用を加えると、
あっという間に200万円の現金が消えた。
正雄の2か月間の鬼神のような頑張りがなくては、できないことだった。         

春麗の希望する条件を満たした4LDKの部屋に、家電製品を配置して、
ベランダ側の大きな窓に、地元の有名デパートで購入した大きな花柄の洋風カーテンを飾り付けた。レースの華やかな模様のカーテンの取り付けた。
足りない分は、カードローンを利用した。全部で約200万円使った。
お金を作るのは大変だけど、使うのは実に簡単であっけなかった。

部屋は知り合いの不動産屋さんが、会社契約の形で了解を得て借りた。
あと2か月余りか、待ちとおしいな!正雄の心は浮き立ってきた。
あの優しい笑顔と豊満な乳房の春麗と一緒に住むことができるという希望が今の正雄にとって大きな張り合いだった。
付き合っていたころの春麗の優しい笑顔がすごく愛おしく思えた。

4,生活

              1
  朝8時、正雄は「おはよう!」と声をかけて春麗と子供がいる洋室の
ドアをトントンと軽やかにノックした。
ドアの目張りがバリバリと引きはがされて、やっとドアが開き春麗親子が
顔を出した。
2002年(平成14年)11月下旬の大分市の賃貸マンション。
久家正雄55歳、春麗36歳歳の差19歳の新婚生活2日目の朝が明けた。
男の子の名前は俊英といい、4歳の歳になるということだった。
中国名での呼び名は知らない。勝手につけた名前だろうか?
日本語は話せないようで、どちらかというと無口という感じだった。
もしかすると、母親から近寄るな、話すなと言われているのかもしれない。
俊英は見た目は活発な利発そうな男の子だった。

(こりゃたまらん、何とかしなくちゃだめだ)
正雄は、春麗が作った朝ご飯を見て唸った。
春麗と付き合っている時と同じ感覚で食事内容をイメージしていた正雄は、
朝昼晩ともまさかに、ピーマンと大豆もやしと青菜と、たまに鶏肉の入る
薄めの味のごま油炒めを食べさせられることになるとは思ってもみないことだった。

「先生、ごま油だけだと香りがきついから、サラダ油で半分の香りにした方が美味しいよ。」笑顔で春麗が告げた。
この日から、日本食とは一切おさらばになってしまった。
春麗は、何とごま油炒めしか作れなかった。嘘ッ!嘘だろッ!
九州の田舎で自家製味噌や漬物で育った正雄は、心の底から食べ物のこと
まで思いめぐらすことをしなかったことを大きく後悔した。
まさにここに至ってから知っても後の祭りだった。

実生活において、感情のあり方も大切だけど、日本人が外国人と暮らす場合は、「文化の違い、風習の違い」と「食生活の違い」は頭に入れておくべきことだった。
わずか3日で毎日朝昼晩が中国食にはギブアップした。
みそ汁が食べたい。チャーハンでなくおにぎりが食べたい。
大好きな肉じゃがが食べたい・・!茶碗蒸しも。。。

これは思ってもみなかった青天の霹靂(へきれき)事だった。
仕事先のランチで食べる日本のご飯と手作りの日本的なおかずが、こんなにおいしいとは思わなかった正雄だった。
正雄は矢も楯もたまらず、食べたい料理の材料を自分で買ってきて、自分で
調理することを始めるようになった。

              2

生活を始めて2月目ごろに、春麗は見知った都町に働きに出ると言った。
子供は夜間保育所に預けて、自分は伝手を頼ってどこかのスナックに
勤め出した。それがどこなのか店名を春麗はなぜか教えてくれなかった。
ある時、デスクで仕事中の正雄に「少しおかしい?」と言ってきた。
「どうした?」
「お店の人が私を馬鹿にする。」
「昨日薬を飲まされて変なことされたかもしれない」
はっきりとした自信がないが、体のどこかが思い当たらない違和感を告げているのかもしれなかった。
もっと聞いてみたかったが、春麗は途中から口ごもってしまって会話は
途切れてしまった。春麗の態度から、かなり情緒不安定な感じも受けた。

似たようなことが再度あったとのことで、それを機会にそのお店を春麗は辞めてしまった。全部で1週間も勤めただろうか。
一体全体以前知っていた春麗とは違う春麗の有り様が、ベールが一枚づつめくれるように新たな春麗が見えてくる、なんとしたことだろうか?

しかも、これという確かなことは本人もわかっていないようだ。
そのあとからは、マンションの近くのベーカリーショップに手伝いに
行くようになった。それも長続きはしなかった。
何はともあれ、一応の結婚生活は動き出したと正雄は感じていた。

5,破綻

                1
  1月目の結婚生活は慣れないせいもあり、アッという間に過ぎた。
2月を過ぎたある日、春麗から言われた。
「お金がないから頂戴」
「嘘だろ!」
1月分の生活費25万円を現金で渡して、今日で5日目だろ、どうして?
正雄はまたまた混乱してしまった。

聞くと、トイレットペーパーは1袋づつ買ってもしばらくはあるのに、
1度に10袋も買いだめしてくる。歯磨きもシャンプーもそうだ。
まともに常識で考えた数量じゃない!
結局、毎日2,3万円づつ使ってお金が無くなったということが分かった。

春麗が言った。「じゃ毎日1000円くれたらいいよ。」
まさしくそうするしかなかった。
聞いてみると、まだ家賃の78,000円も払っていないということだった。

正雄は、家賃も電気水道ガスも春麗を当てにせずに自分で支払うことに
改めて決め直した。
もはや、春麗は主婦としての能力もない感じになってきていた。

                2
  春麗と一緒に来日した活発な男の子俊英は、4LDKの一番端の洋間で寝起きした。玄関横の窓の付いたクローゼットのある6畳間の部屋だ。
彼女はこの部屋で寝る前に、必ずドアの上下左右にガムテープで目張りを
した。
「寝ている間に毒ガスを撒かれたら困るから」と説明してくれた。
それって変でしょ!正雄は聞いてすぐに思った。
正雄にとってバラ色の楽しい結婚生活が、こんな食生活に変ってしまい、
今までと違う知らない春麗の行動になってしまったことに、ますます失望
した。月を経るごとに、臨んだ理想の結婚生活が遠く離れてゆくのを
感じた。

正雄は数年前の1995年1月17日に起こった、この世の地獄のような阪神淡路大震災の炎に焼かれる商店街の燃え落ちる家の激烈なシーンを夢みた。

その当日早朝に起こった強烈な振動で目が覚め、ただ事ではないと感じた。
テレビをつけて神戸の街に多大な地震の災害が起こったことを知った。
街の上を数機のヘリコプターが旋回している。ところどころに炎と煙も見える。事の重大さを感じて録画のセットをした。

それから2時間あまり、食事も忘れて画面にくぎ付けになった。
テレビのニュースで、商店街のはずれの店舗兼住宅が真っ赤な炎を上げて
建物ごと道路の上に崩れ落ちるのを見た。
地震で崩れ落ちた家で閉じ込められて逃げられずにいる人が、無情な火炎で焼かれて亡くなったことを知った。地震の死者のうち半数はこの火災による被害者ということだった。
生きたまま焼かれるなんて惨すぎると正雄は強く感じた。
強烈な炎の映像が正雄の脳裏によみがえった。

春麗は通常の夫婦の暮らしを、自らの力で普通の妻の生き方をする力がないことを正雄は受け入れるしかなかった。

 翌年2003年4月の春のある日、正雄は初めて俊英と一緒だった。
ベランダの椅子に座って、膝の上に男の子を乗せて暮れゆく陽を眺めて
いた。
来日してしばらく経ったころから男の子は日本の幼稚園に通っていた。
2、3か月すると何と、片言の日本語が話せるようになっていた。
すごい!小さい子は頭が柔軟だね、それにしてもこの子は頭がいい。
正雄にとって、接見禁止?のこの素直な男の子のほうが春麗よりも余程
心が休まる思いがした。
戸籍上は親子ではないが、正雄は自分の子のように感じて俊英を可愛く
思った。

「だめ!こっちにおいで」(中国語で言ったようだ)
正雄の膝に抱かれた男の子は母親の方を振り向き、今度は春麗に手を引かれて洋間に連れていかれた。
俊英を膝に抱いたのは、この一度きりでした。
正雄は、ひとり暮れなずむ夕日を見ながらひたすら孤独感を強くした。

              3

「離婚して」
春麗が言った。もう一緒に住めない、限界が来たことを春麗は悟ったと
思う瞬間でした。

「いいよ!明日市役所に離婚届の書類をもらいに行く」
「そうして」
2003(平成15)年9月、ついに正雄は春麗と離婚届けに署名した。
国際結婚までして手に入れた今の生活だったが、正雄にとっては、事ここに至っては、もはや思いつく打開策すら思い浮かばなかった。
春麗にとっても、楽しくない生活を送っているはずだった。
意思疎通の叶わなくなった不安定さを、お互いに解消するべき時がついに
巡ってきていた。

春麗は離婚した日から離日の日までに日本を退去しないで済むように、
代わりに結婚相手を探して籍を入れたいという意向のようでした。
これも後でそうだったんだとはっきり分かったことでした。

実に離婚は思ったより簡単に決まった。あっけない終わり方だった。
翌日に2人の署名で離婚届けも出来上がった。
かって、出入国管理事務所で、ダメな時にはちゃんと離婚できればと
思っていたことが、たった今本当に実現したんだと正雄は思った。
でも実感はわかなかった。

数日後に、春麗は子供を連れて出て行った。もう他人同士になって
しまった。
彼女の衣類や小物や大切にしている”本物という”直径20cmもある水晶玉を、取りに来るまでここに置いておいてと言い添えた。

また、正雄の一人暮らしが翌日から始まった。
季節はもう秋に変わってきていた。まだ外は午後の陽のせいで明るかった。
正雄は退屈しのぎに、デスクの脇のボックスからスコープ付のおもちゃの
バネ式のライフル銃を取り出し、15m先位の目の高さの電線に留まって
いる2羽の鳩の中の右の太った1羽の鳩に照準を合わせた。
鳩の羽の付け根当たりにスコープの十字を重ねて引き金を引いた。
見事に羽の太い根元近くにBB弾が当たり、ボコッと弱い音が聞こえた。
驚いた2羽の鳩は、何事もなかったかのようにカーブを描いて飛び去った。正雄は、ちょっぴり可哀そうなことをしたと心の中で思った。
ほどなくして秋の日が暮れていった。

               4
  離婚して他人となった春麗と正雄は再会した。
目当ての男や結婚してくれる都合のいい男を求めて10日余りも知り合いの男の家を転々としていたとのことだった。
その間子供は誰かが預かっているのだろうか?今日も一緒には来ていない。
見る限りちゃんとした行動をしているようであり、ちゃんとした言動に
感じる春麗のありようだった。
見込みの相手はどこにもいなかったようだった。
外国人であり、遊びでは付き合っても、いきなり結婚を振り回しても
誰も相手にしてくれないのが当然だと正雄には想像できた。

夜になって、春麗は全裸になって正雄の前に来て、抱いてくれと
せがんだ。そして、もう一度、結婚してくれと言った。
すべて見込み先がダメだったから、離婚直後の正雄にまた結婚を
迫ったのでした。

「あなたの知ってる花屋のところに泊まっていたら、やらせろと何度も言って寝かせてくれないからさせた。もう夫婦でもないしいいかと思った。
腰振ったらすぐに相手は果てた。」
正雄は何てことだ!これって一体全体どうなるのだと、尚更のことに腰が
引けてしまった。

春麗は許しを乞うためにあったことを言ったのか?
正雄はやりきれない気持ちに陥った。
春麗との再婚はもう100%無理と決めて、彼女の要求には反応しなかった。
相変わらず、秋にも関わらず蒸し熱い夜が続いた。

6,入院

  突然朝9時ごろに、大分市の中央警察署から男性の声で電話があった。
元妻の春麗と子供を、前日の深夜に保護して一晩留置したとの連絡だった。
地元のタクシーの運転手が夕方も夜になっても同じ場所に、親子が道路際の
植込みの前にいるから様子がおかしいと警察に連絡があり、近くの大分県警の大分中央署に保護されたのでした。
警察の話によると、春麗の言動におかしい点があるとのことで、
春麗は丘の上の精神病院に移送され入院の措置を取り、子供は母親と引き
離されて児童収容施設に入れられた。

その後、中国籍の男の子は、1月後に行政の手で大分県から中国の北京まで移送され、珠海からはるか離れた北京の地まで出迎えた春麗の父親に迎えられて、中国珠海に帰って行った。そういう連絡を関係先から受けた。
春麗の愛する俊英には、会えないままに終わった。

  入院騒ぎから1月ほど経って、久しぶりに春麗に収容先の精神病院で
再会した。
ここは途中で墓地を通り抜ける丘の上の精神病院の中の、四方がガラス張りの特殊な面会室の中だ。電話ボックスの4~5倍位で八角形のようだった。
最初に会ったときは、両腕を袖の長いひも付きの拘束服で腕の自由を奪った姿で面会した。初めて見る拘束服はすごく異様なものに見えた。
案内してくれた係りの女性は、春麗に精神を落ち着ける薬剤を注射しているとの説明をしてくれた。暴れる兆候がある患者の場合に注射するらしい。
正雄は、時として激高する春麗のあり様ではなく、弱い声色、とろんとした眼、冴えない疲労感のある艶のない顔、変わり果てた別人を見る思いがした。

今まで精神病院など縁もゆかりもなかったけど、長い人生の中ではいろいろと経験するんだな、と正雄は思うのだった。
この病院には都合3回訪問した。
2回目には春麗はもう拘束服は着せられていなかった。
普通のパジャマのような衣服で普通の話し方だった。少し笑顔もあった。
3回目には、春麗はもう少し元気になっていた。

妻でもなくなった女性だけど、異国で身寄りがない女性でもあった。
正雄は、日本にいる間のできることはしておいてあげようと思った。

7,珠海

  結局春麗は3か月余り入院をして、中国へ強制送還になった。
それもどこからかの関係先から、日本を去ったと連絡を受けた。
昨年の秋に出入国管理局の大分支所でのいきさつで疑問を持った春麗の一切のことは、これで完全に終結した。

手元にある戸籍謄本の写しを見た。
婚姻 平成14年(2002年)9月17日  
離婚 平成15年(2003年)7月8日    

日本で婚姻届けを出したものを中国に送り、中国で婚姻届けを出し、
日本への渡航手続きをする。
準備をいろいろとしたようで、日本に来たのは11月の下旬だった。

今思い返しても、時系列の詳しいことは思い出せないところがある。
離婚後も春麗は、久家正雄の部屋にわずかの間は確かに居た。
もう18年近く経つのに、特定のシーンは昨日のことのように鮮やかに
蘇ってくる。
今は、春麗も賢い男の子の俊英もいない。
春麗も今は50代半ばとなり、俊英ももう20代の若者になっている。

  春麗が送還された後のある日、正雄は中国に声が聞きたくて
国際電話をかけた。
数度呼び出しのベルがチリチリ、チリチリと鳴って受話器を取り上げる
音がした。昨年にかけた電話と同じ気がした。
「春麗いますか?久家正雄です。」
受話器を取って中国語で何か答えたが何と言っているか不明、
でも日本語だとわかるらしい。声からして春麗の母親のようだった。
何か中国語で春麗を呼んでいる。
「もしもし・・」春麗が電話口に出た。
「元気にしてるかい」
沈黙の後、こう説明した。

「付き合っていた頃の後に日本から帰ってから気が変になり、
中国の精神病院に半年間入院していた。帰った今も薬を飲んでいる。」

この言葉で、すべてのことが正雄のとって得心のゆく言葉になった。
「だから、もう私に電話しないで。」
正雄は、ハッと気が付いた。
本当にすべてがここで終わったのだと悟った!

今はあの時のように結婚する相手としての国際電話でなく、
もうこれ以上は何も生み出せない関係になった2人になったのだと
正雄は思った。。。。そうだなと思って静かに電話を切った。

目的がないのに何で電話したのだろうと思った。
本当は幸せの絵を描きたかった。そうだよねと自分に言い聞かせた。

後日、ネットの出会い系サイトに彼女が日本人の相手を探している投稿を
見つけた。でも、もう彼女は二度と日本の地は踏めない。
強制送還になったことをわかっていないのだ。
出入国管理局は絶対に許可しないであろうことはわかっていた。
正雄は、暇つぶしに見ていた出会い系サイト閲覧を止めた。
また春麗をサイトの中で見つけるのが可哀そうだと思ったからだった。

知らない珠海、深せんの近くの街と聞いていた。
遠きはるかなき珠海 さらば春麗そして俊英くん。

正雄はそれから2年後に大分市で地元の女性と再び結婚した。
彼女もまた、奇遇なことに19歳年下の女性で長い髪をしていた。

(了)






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