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東京都写真美術館「見るは触れる 日本の新進作家 vol. 19」の感想(前編)

東京都写真美術館の今年の新進作家展の感想を綴る。

昨年は入場してすぐに吉田志穂さんのインスタレーションに飲み込まれ、山元彩香さんの神秘的なポートレートに後ろ髪引かれつつ会場を後にしたのを思い出す。
渡部さとるさんもツイートしていたが、今年は去年と比較して、一見すると写真作家の展示には見えない作品の数々が並ぶ。
自分の中で整理するためにも感想を書き残そうと思い、今回の記事を書いた。
展示の順序に従って綴っていきたい。


水木塁さん

アルミにインクジェットプリントされた原色豊かなサイアノタイプ。X線画像を見るような、植物の化石を見るような、存在感のある平面。その奥のレンガのような継ぎ目のあるアルミの背景の陰影が特に目を引いた。被写体自身よりも支持体の方に関心がいく感覚があり、去年観た横田大輔さんのプリピクテの展示を思い出した。

沢田華さん


日常生活に溢れるノイズの抽出、散漫なイメージの連続、という印象。
断片的な映像と、関連性があるようにもないようにも思える生活音や環境音。端的にこれは何を表すのかという問いに答えるのが難しく、展示を観終わった後にも尾を引く感覚が残る。手がかりを探そうとして自分が必死になっているのが分かる。そんな展示。方法論に関して言えば、フレームを写し込むことで被写体を支持体から浮かせる意識があるように思われた。一例を上げれば、ネガフィルムを持った手自体を写したネガフィルムの展示のように、作品を提示しているのではなく、作品を検証するその瞬間を提示している感じ。

同じく展示されていた映像作品についても同じことが言え、デジタルカメラの液晶ディスプレイを操作してメモリ内の写真を確認する作業が映されている部分があるが、映されているのは鮮やかな生肉や高速道路の車窓から見える風景や水槽の中の魚など、日常生活で見かける場面ばかりであり、ディスプレイ上でそうしたありふれた画像の中にふと気になる点(ガラス面への通行人の映り込みや、壁の人面のようなシミなど)、それらが気になって拡大するが、拡大した結果、それらは画面上で単なるドットの集合になってしまう、という瞬間を提示しているように思われた。

後から振り返って面白いなと感じたのは、映像として構成された作品も、図録の上ではいくつかの画像として掲載されるという点。一見すると脈絡を掴みにくく感じる映像も、図録上に掲載された画像は作家本人にとっての決定的瞬間なのかもしれず、それが作品を理解する上でいくらか手助けになるのかもしれない。

多和田有希さん

今回最も作品制作への物質的なアプローチの意義を感じた展示。特に印象深いのは、写真を燃やし、その灰を練り込んだ手のひらサイズの焼き物が並ぶ "lachrymatory" (「涙壺」の意味。「涙を促すもの」とする意味もあるようだ)。

この作品は、作者のワークショップへの参加者が作成したもので、持参した写真を焼き、その灰を釉薬としてかけたという壺が並ぶ。それらは各々違う形状をしてはいるが、概ね大きさは揃っている。それらは全体としてみると、画一化されたサイズ感に収まっており、整然とした印象を与える。だが、各々の壺は各々の作者にしか真の意味がわからない写真が変容したものであることを念頭に数十個一列に並んだところを見ると、少したじろぐ。
沢田華さんの展示に感じた、素材のように無臭な日常のイメージの連鎖と反対で、これらの壺の並びは過去のある出来事への執着心が物質化したものに見え、それが見る者を後退させる瘴気(?)を放つのだと思う。
もちろんそれは作品制作の背景を知った上での、見る者の想像の上に構築されたイメージに過ぎないのだが、一見すると写真制作には見えない一群の壺が、見る者の胸中にある種の像を結ぶという機能を持つ点が面白いと感じた。

つづきはいずれ。

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