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麻生田町大橋遺跡 土偶A 174:アマテラスを示すもの

岡崎市秦梨町(はだなしちょう)の産婆神(うばがみ)の社頭から鏡山弁財天に向かうのですが、社頭から鏡山弁財天のある坂道の上を見通しても、それらしきものは見えていませんでした。愛車に戻って、愛車で鏡山弁財天に向かうことも考えたのですが、産婆神の社頭から先の上り坂は150ccの愛車では登れないのではないかと思われるほどの急坂でした。登れない場合はUターンして戻って来ればいいのですが、Uターンできないくらい道幅は狭いものでした。それで徒歩で鏡山弁財天に向かうことにしたのですが、弁財天に遭遇した時に使うために、愛車にワンカップの御神酒を積んでありましたので、いずれにせよ愛車まで戻り、御神酒を持って坂道を登って行きました。

岡崎市秦梨町 鏡山神社(旧鏡山弁財天)
岡崎市秦梨町 鏡山神社(旧鏡山弁財天)

細くて急だった坂道は70mほど登っていくと、道幅が倍近くに広がって傾斜も少しなだらかになった。
そこから10m以内の右の路肩に上記ヘッダー写真の石が置かれていた。
上面に窪みがあって、手水桶に使用するための石ではないかと思われる。
底面には空き歯のような歯型があるが、これはこの岩を切り取るための矢穴の痕だ。
かなり旧い石なので、実際には使用されることはなかったのだろう。
この石から10m以内で道は左に折れており、その角の右手の路肩には「寶聖院 鏡山大辨財天」と刻まれた社号標が建てられていた。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 社号標

行く手には高い石垣と建物が見えている。

社号標を通り過ぎて、坂道を登っていくと、L字形に連なっている6mほどの高さの石垣の前に東向きの石造神明鳥居が設置され、鳥居の奥には石垣上に登っていく石段が設けられていた。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 鳥居

石段の上の正面には瓦屋根の建物が見え、それを深い社叢が包んでおり、右手に赤い幟が林立しているのが見える。

石段を上がると、さらにもう一つ、短い石段があり、その上には向拝屋根と3段の階段を持つ横に広い拝殿が設けられていた。
拝殿は瓦葺切妻造平入で、正面は白壁にガラス格子戸が閉め立てられた大きな社殿だった。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 拝殿

拝所に上がり、持ってきた御神酒をガラス戸の桟に上げて参拝した。
この神社の地図上の表記では「鏡山神社」となっており、拝殿の軒下に掲げられた扁額にも「鏡山神社」とある。
祭神に関する情報は社内にもネット上にも見当たらないのだが、社号標からすると弁財天が祀られているのは間違いないと思われる。

拝殿内を見ると、拝殿内の奥には机が設けられ、机の上中央にはよく磨かれた鏡、その両袖には金色の御幣(ごへい)が立てられ、その前の3つの三方(さんぽう)には水玉と高杯(たかつき)が、それぞれ乗せられているのが見える。

●アマテラスにつながるモノ

問題なのは鴨居の上に金色の天台宗輪宝紋(りんぽうもん)のレリーフが取り付けられていることだ。
これは、この神社の前身が天台宗寺院であることを推測させるものだ。
弁財天は天台宗寺院の天部の神として祀られていたものなのだろう。
仏教の天部の神は、もとはヒンドゥーの神であり、寺紋や仏の持物として多用される輪宝もヒンドゥーに由来するものだ。
その輪宝の部分に十六菊花紋(朝廷の使用紋)を当てているのが天台宗輪宝紋なのだが、朝廷の元になっている神アマテラスを祀った皇大神宮(こうたいじんぐう)の神体が鏡であることからすると、「鏡山神社」という名称は本殿の背後にそびえる山をアマテラスに見立て、その中腹にアマテラスの御子神であるイチキシマヒメor宗方三女神(ムナカタサンジョシン=弁財天)を祀った神社という形になっているとも受け取れる。
さっき寄ってきた産婆神には神体をアマテラスの隠れた岩戸とする説もあり、前回乙川を辿って参拝した神社も岩戸神明社だった。

この尾根には複数のアマテラスを示唆するものが存在していることになる。

拝殿の奥もガラス格子戸になっていることから、拝殿の奥に3つの社が祀られているのが透けて見えていた。

拝殿の裏面に回りこめるようになっているので、裏面に回ってみた。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 拝殿内

拝殿の裏面には石段に屋根を葺いた渡殿が設けられ、石段上の屋外には正面に銅板葺で3つの扉を持つ神明造の本殿が祀られていた。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 本殿

3つの扉からすると祭神は宗方三女神とみていいだろう。
それを示すように屋根の鰹木は陰数の6本になっている。
この本殿の両袖には1社づつ銅板葺流造の社が祀られていたが、それに関する情報が無い。
中央が宗方三女神なら、最初に想定できるのはその両親神であるアマテラスとスサノオなのだが、向かって左側の社の屋根を見ると、千木は外削ぎで鰹木は4本。
陰陽混合しており、神名は不明。
反対側の向かって左側の社の屋根を見ると千木は内削ぎで鰹木は6本。
女神を示しているので、これをアマテラスと考え、向かって左側の社はスサノオと考えれば、想定と一致はする。

拝殿前に戻って石段を降り、左手にある建物に向かうと、左手に本殿とは逆の「高隆寺別院 宝聖院」という表札の掛かった建物があった。
岡崎市高隆寺町には高隆寺が存在するが、その関連の建物なのだろう。
ちなみに高隆寺は天台宗延暦寺の末寺で、寺伝では草創を聖徳太子の開基、行基の中興、弘法大師の開基と様々に伝えられている。
足利尊氏も伽藍を造営したとの記録もあり、弘治元年(1555)に戦乱により焼失した歴史がある。

宝聖院の向かい側には上りの石段を持つ銅板葺宝形造吹きっぱなしの屋根の高い建造物があった。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 観音堂

石段脇には5重の屋根を持つ石塔が建てられており、ここは宝聖院関連の建物のようだ。

石段を上がると、高い屋根の中央には聖観世音菩薩銅像が奉られていた。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 観音堂 月精観音

ただし、仏像を乗せた石の基壇には「月精観音」のネームプレートが取り付けられている。
この月精観音の左右には毘沙門天と大黒天の銅製仏像が奉られていた。

観音堂を下り、拝殿の東にある幟の林立している方に向かうと、白い砂利を敷き詰めた中にコンクリートでたたかれた参道が通してあり、幟には「伏見稲荷大明神」の文字が白抜きされている。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 境内社神宝社 幟/鳥居

参道の先には朱の鳥居が設置され、その先は暗い森に包まれている。

参道を進んで鳥居の前に至ると、鳥居には「神宝社」の社頭額が掛かっており、鳥居の先には使いの狐像が向かい合っている。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 境内社神宝社 鳥居/社

狐像の奥には3段の石段が設けられており、その上に社が祀られている。

その社は銅板葺流造で屋根は千木が外削ぎ、鰹木が4本と、陰陽混合したものだった。

岡崎市秦梨町 鏡山神社 境内社神宝社

この社は頭貫(かしらぬき)や階段などの風化したと思われる木部が改修されており、その木部だけ珊瑚色に染められているので、それと判った。

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産婆神と鏡山神社に向かった日は新たに購入したオフロード・スクーターで初めて林道に入る可能性のある場所に向かった時で、急坂を登る能力がどれほどのものか、まだ把握できていなかった時でした。それで、愛車のパワーを過小評価していたことから、鏡山神社には徒歩で登ったのですが、そのおかげで、ヘッダー写真の石を見つけることができたのかもしれません。今では愛車のオフロード・スクーターで高速道路の巡行も何無くコナせることも判明しています。

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