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麻生田町大橋遺跡 土偶A 171:フトダマが見えない

岡崎市才栗町を流れる乙川に架かった平成大橋の親柱には、ここまで乙川に架かった橋の親柱としては、初めて彩色された銅板の浮き彫りが装飾されていました。

岡崎市岩戸町
岩戸町 乙川 平成大橋/岩戸神明社

平成大橋の親柱は50cmほどの厚さの岡崎御影石をJ形にカットして側面に「平成大橋」と浮き彫りされた銅板のネーム・プレートと、白い2匹のチョウザメのようなフォルムの魚が水面の網目模様の下で泳いでいる銅板のレリーフが取り付けられていた。

平成大橋 親柱

この辺りではコイやナマズ、大型のアユ、オイカワ、カワムツ、カワヨシノボリが獲れるという情報がある。
この中でシルエットが銅板レリーフの魚に近いのは口先の尖っているアユ、オイカワ、カワムツの3種だが、この3種の魚の口先が尖っているのは山間部の速い流れに対応する形態なのだろう。
以下の平成大橋の下流は山間部に位置している。

乙川 平成大橋下流側

上記3種の中で体色がもっとも白っぽいのが、上流から流れて来る水生昆虫や水辺の木から落ちる陸上性昆虫などを主食としているカワムツだ。
平成大橋の下流部分は流れがあり、両岸は潅木に覆われており、カワムツが食料を捕食するには絶好な環境だ。
ただし、レリーフに刻まれているような前後に長い背びれを持つ淡水魚は該当するものが存在しないので、“単なる魚のイメージ”をレリーフにしたに過ぎないのだろうか。
ちなみに乙川では1日300円の漁業券が発行されていて、券があれば自由に漁獲ができるようだ。
ただし、毎年9月〜11月の3ヶ月間は禁漁区になっている部分が存在する。

平成大橋の北側から県道35号線の北方向を見ると、こちら(南)を向いている鳥居が35号線脇の丘陵上に見えたので、そこに向かった。
それは平成大橋の真北50mあまりに位置していた。
社頭には1対の幟柱が建てられ、間に9段の石段が立ち上がり、その上に石鳥居。

岩戸神社 社頭

鳥居の奥にも石段が立ち上がっていて、その石段の奥に瓦葺の屋根がのぞいている。
社叢は少なく、高木はスギかヒノキが数本見えているだけで、あとは潅木だ。
左手の丘陵上に立っているのはケータイの電波塔のようだ。

社頭脇の砂地に愛車を駐めて、最初の石段の下に立つと、石鳥居は伊勢鳥居で、大きな房が3つ下がった注連縄が張られていた。

岩戸神社 鳥居

石段を上がって鳥居をくぐると、丘陵上は広い平地になっていた。
鳥居から平地の奥にある石段までは30mあまりある。

岩戸神社 拝殿

上記写真では画面から左に切れているが、鳥居をくぐるとすぐ左手に横幅10m以上ある切妻造平入の、この神社でもっとも大きな建物があったが、後で調べてみると、この建物は回り舞台を持つ歌舞伎が演じられていた舞台であることが解った。
三河では回り舞台を持つ舞台は豊田市でも見かけたことがあるが、ほかにも劇場を持つ神社は存在したようだ。

鳥居の正面の二つ目の石段は5段だが、石段は石垣を組んだ土壇に設置されている。
石段の上の瓦葺の拝殿にはすでに照明が入っていた。
拝殿の瓦屋根の奥には濃い樹木に埋まった尾根が左右に延びている。

奥の石段下まで進むと、拝殿は切妻造平入左右4間幅の建物で、正面は板壁の中央に縦格子窓を持つ戸が閉め立てられていた。

岩戸神社 拝殿

石段を上がり、拝殿前の大きな踏み石の上に上がって参拝した。
ここまで、社名の判るものが何も存在しなかったのだが、格子窓から拝殿内を見ると、幣殿の入り口の桟に達筆で「神明社」と墨書きされた扁額が掛かっていた。

岩戸神社 拝殿〜本殿

奥には本殿の扉が見えているが、祭神を調べてみると、祭神は以下の三柱となっていた。

・天照皇大神(アマテラス)
・天児屋根命
(アメノコヤネ)
・手力男命
(タヂカラオ)

天照皇大神は岩戸神社という社名から推測できていた神だ。
創立は不詳だが、明治11年(1871)、神明宮に岩戸村字大久後の苔丸社(天児屋根命)と岩戸社(手力男命)が移転し、大正2年(1913)に3社が合祀されて岩戸神明社となったものだという。
『古事記』の「天の岩戸」では天照大御神が天石屋戸(あまのいわやと)に隠れたところ、外が騒がしくなったので、屋戸を細く開いた際に天児屋根命と布刀玉命(フトダマ)は鏡を差し出し天照大御神にお見せになったとある。
その鏡を不思議と思った天照大御神がそろそろと戸から出ようとされたその時、天照大御神の手を取り、引っ張り出したのが天手力男命だった。
つまり、天照大御神が天岩屋戸から出てくる際に岩戸の前で遭遇した四柱の神のうち、布刀玉命だけが、岩戸神明社には見えないのだ。
このことには天児屋根命の子孫(藤原氏)と布刀玉命の子孫(斎部氏)の力関係が反映されている。
愛知県には天児屋根命を祀った神社が15社存在するのに、布刀玉命を祀った神社は存在しないのだ。
そして、現存する天児屋根命を祀った15社はすべて尾張地区の神社だ。

拝殿前から西側に回ると幣殿、本殿覆屋とも瓦葺で、本殿覆屋は切妻造平入の建物だったが、拝殿〜本殿覆屋まで全て白壁で、格子状に組まれた柱と梁を烏羽色の防腐剤で染めてアクセントにした寺院のような建物だった。
拝殿前から西側に回ると幣殿、本殿覆屋とも瓦葺で、本殿覆屋は切妻造平入の建物だったが、拝殿〜本殿覆屋まで全て白壁で、格子状に組まれた柱と梁を烏羽色の防腐剤で染めてアクセントにした寺院のような建物だった。

岩戸神社 拝殿〜本殿

社殿の設置されている土壇を降りると、表参道の西側、歌舞伎舞台の建物の隣に並ぶ形で、土段の上に宝形造の堂と思われる建物が建てられていた。

岩戸神社 社殿

ただ、この建物に関する情報は無く、収納物も扉内に収められているので、何か祀られていた建物なのか、あるいは倉庫になっているのかは不明だった。
確かな記録は残っていないというが、岩戸神明社のある場所には天野左衛門佐遠貞以来の居館であった岩戸城が存在したと言われているので、そのことに関連する堂であった可能性も考えられる。

岩戸神明社の丘陵上から南方を眺望すると、眼下には35号線が通っており、その35号線が渡っている平成大橋が鳥居のすぐ右脇に見下ろせる。

岩戸神社 境内から南方向の眺望

乙川の川筋は35号線と直角に延びる白いガードレールから推測できる。

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才栗町はここまでの乙川沿いと同様に住宅地・水田が河川沿岸に形成され、その他は森林となっています。2015年まで連続して増加してきた才栗町の人口は2019年には大幅に減少しており、世帯数は87、人口は216人となっている。この3年でコロナがこの状況に追い打ちをかけているのかどうか…


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