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今朝平遺跡 縄文のビーナス 34:役行者生誕地訪問

愛知県足助町(あすけちょう)に存在した足助宿の目抜き通り、中馬街道(ちゅうまかいどう)の街角に位置する本町地蔵堂から中馬街道を西に800mほどたどり、足助宿の長野県側の出入り口脇の壁に複数の石造物が祀られているのに遭遇しました。ここからレイラインの東の起点である今朝平遺跡までは直線距離で180m以内です。

愛知県豊田市足助町 中馬街道 石造物群
足助町 中馬街道 石造物群
足助町 中馬街道 石造物群/今朝平遺跡

下記写真は足助宿の東の外側から足助宿に向かって撮影した中馬街道。

愛知県豊田市足助町 中馬街道 足助宿出入口

かつての足助宿出入口、すぐ右手には屋根を葺いた足助宿の大きな案内板がある。
中馬街道を挟んだ向かい側のスペースはすぐ上流に架かっている橋の旧橋で、車が通れないようにガードレールで車止めされているが、人は渡れるようになっている。
この橋の下を流れるのは足助川だ。
上記写真右手、電柱の向こう側の土手は崩れないように硬化剤とコンクリートで防壁されていて、その壁のところどころに、石造物が設置されている。

壁はデコボコで、その凹凸を利用して、もっとも東側に設置されているのは鉄製の祠のようなものなのだが、何なのか不明。

足助宿 中馬街道 右から:不明の祠?/案内板/石祠/石碑

壁が緑青を吹いたように斑らになっているのは、地衣類が繁殖しているためだ。
鉄製の祠のようなものの左に足助町文化財保護委員会の製作した案内板『庶民の生活がいきづく石仏』が掲示されている。
以下のような内容だ。

弁財天役行者馬頭観音がまつ られています。町内には、このような石仏が多くありますが、ここには常に香華が手向けられ、今になお生活の中に信仰が生きているといえましょう。

石仏案内(足助町文化財保護委員会)

案内板の左側には石祠と石碑が並んで奉られているが、石祠の内容は不明。

石柱を間近で見てみると、珍しい円柱の石碑で、案内板にもあるように「弁財天」と刻まれていた。

足助宿 中馬街道 弁財天

周辺のため池などに祀られていたものだろうか。

弁財天石碑左側のかなり高い場所に3体の石仏が並べて祀られていた。
その一番上の左端に奉られていたのが、役行者だった。

足助宿 中馬街道 役行者

奈良県吉野では弁財天役行者が祈り出した関係にある。
法衣を着用し、頭巾を被り、右手に錫杖、左手に経巻を持った椅像(いぞう:椅子に腰掛けた像)のようだが、明治時代初期の廃仏毀釈で胸の部分で割られたぞうらしく、割られた部分で継ぎ合わせてある。

役行者像の右下に2体の馬頭観音が並べて奉られていた。

助宿 中馬街道 馬頭観音2体

馬頭観音としては珍しく、一面二辟(いちめんにへき:頭が1つで腕が2本)の像だ。
中馬街道は塩の道なので、三河湾で製造された塩は馬で長野県に向かって運ばれた。
使用された馬は塩を運んでいる苦役の途中で寿命を迎えることが多いので、そうした街道脇には、その馬を供養するために馬頭観音が奉られた。
そうしたことから、馬の苦役による流通に使用された街道には馬頭漢音が多くなった。

旧橋上から石造物が奉られた壁の向かい側の足助川を見下ろすと
かなり谷は深くて川幅も30m近くあったが、川床には土砂の堆積が多かった。

愛知県豊田市足助町 足助川

●役行者とは

ところで、地蔵のように各地の屋外に祀られている役行者とは何者なのか。
「役行者」とは通称で、「役という姓を持つ宗教的な修行者」を意味している。
実在の人物とみられていて、実名も分かっており、「役 小角(えんの おづぬ)」という。
生没不明という説もあるが、舒明天皇6年(634年)伝〜大宝元年6月7日(701年7月16日)という説もある、飛鳥時代の人物。
大物主を祖神とする地祇系氏族とみられていて、葛城流賀茂氏から出た人物であることから、賀茂役君(かものえだちのきみ)と呼ばれたという。
律令制下で無償労働に駆り出された民を管掌した一族であったことから「役」の字をもって氏としたという説がある。
私見だが、「役(えん)」は大海人皇子(天武天皇)説のある高句麗の大莫離支(てまくりじ:大臣&将軍)である淵蓋蘇文(えんがいそぶん)の「淵(えん)」と音が共通し、「淵」は「水のふち」を意味するが、役 小角には錫杖で突いた場所から井戸や温泉が出たという伝承が各地に存在し、この伝承は後輩になる行基や空海にも当てられている。
ちなみに小角と同じ賀茂氏である江戸時代の国学者、賀茂真淵は名前の方に「淵」を使用しており、偶然ではないと思われる。
もう一人、著名な賀茂氏として陰陽師の賀茂忠行がいるが、安倍晴明の師である。
役 小角と賀茂忠行の共通点は、ともに呪術を能くする人物だということだ。
小角は国内では大和国葛上郡茅原郷(現・奈良県御所市茅原)に生まれとされ、その場所には現在、茅原山吉祥草寺(ちはらざんきっしょうそうじ)が建立されている。
吉祥草寺には3度訪問しており、2007年には息子と訪問した。
門の向かって右の柱には「役行者御誕生所」の看板が掛かっている。

奈良県御所市 茅原山吉祥草寺 山門/本堂

庫裏内を見学させていただいたが、そこにはさまざまな物が整然と並べられているものの、古物商の倉庫かと思われる雰囲気だった。
そこには役 小角二鬼像も置かれていたが、小角像はほかで見たことのない青年像のようだった。

茅原山吉祥草寺 役小角二鬼像

役 小角像の足元には小角に使役された前鬼(ぜんき:向かって右の斧を持った男鬼)と後鬼(ごき:向かって左の水壺を持った女鬼)の像も置かれていた。
前鬼と後鬼の夫婦の子孫は現存していて五鬼助(ごきすけ)の姓を名乗り、奈良県吉野で宿坊(修行者のための宿泊施設)を開いている。

上記、小角の左隣の厨子の中には小角の母親、白専女(しらとうめ)像が納められていた。

茅原山吉祥草寺 白専女像

「専女」とは「狐」のことだというから、小角は「白狐」の子供ということになる。
白専女は、ある夜、天空から金色に輝く金剛杵(こんごうしょ)が降りてきて口の中に入る夢を見て、小角を懐妊したとされている。
そのことから小角の幼名を金杵丸(こんしょまる)とする伝承がある。

吉祥草寺の庭には池があり、弁財天が祀られている。

茅原山吉祥草寺 弁財天

役 小角は蔵王権現(ざおうごんげん)を祈り出したことで知られているが、その過程で弁財天と地蔵菩薩も祈り出しており、『役君形成記』(1684)には以下の記述がある。

はじめに現れた弁財天女のような美しい女神の姿では救えない、次に現れた穏やかな慈悲深い姿の地蔵菩薩でも救えない、そこで現れた恐ろしい顔をした怒りの蔵王権現の姿こそいま必要なのだという。

『役君形成記』(1684)

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役行者像に遭遇した像数に関しては、おそらく私より多い人はまず居ないだろうと考えています。その全てを写真撮影しているので、数えれば遭遇した役行者像の数は解ります。私より遭遇数の多い可能性のある人物として、ありえるのは役行者像を巡っているマニアックな山伏ですね。多くの役行者像を巡っている山伏はいると思いますが、私より広範囲を動いている可能性は少ないので、像を奉る回数は多くても、様々な像に遭遇する機会は限定されると思われます。私は本州・四国の多くの場所を巡っています。北海道は一度も行ってないですが、役行者像が1体奉られている場所は知っています。明治期に北海道の開拓民が北海道に持ち込み、子供達の通学路に奉ったものです。基本的に役行者像は役行者の開いた山と、その周辺に奉られるのですが、役行者の開いた山はすべて富士山を眺望できる山なので最北端の福島県の山〜九州の特定の山の間に存在します。なので、富士山の見える場所のない北海道には基本的に奉られていないのです。一方、九州には、かつて富士山が見えていた場所が存在します。それは富士山と瀬戸内海を結んだ線上に存在する九州の山岳部です。かつて、瀬戸内海の富士山を遮るもののない隙間を通して富士山が見える場所が存在したのです。ただ、現在は空気の透明度が昔より落ちています。九州から富士山が見える場所としてはもう1ヶ所、熊本の開聞岳がありえますね。地図を見れば、開聞岳と富士山の間にはほとんど太平洋しか存在しません。ただし、開聞岳周辺に役行者が奉られているという情報はありません。ちなみに四国の最高峰石鎚山(役行者の開いた山)からは台風一過の翌日の空気の澄んだ時には富士山が撮影され、新聞に発表されたりしています。

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