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今朝平遺跡 縄文のビーナス 71:ケルト・シュメール他の線刻

愛知県豊田市平戸橋町胸形神社(むなかたじんじゃ)脇を流れる矢作川(やはぎがわ)の河床には巨石岩盤が存在するということでした。『古代史の謎を解き明かす“モード・タ”』(2000/5/1 文芸社)の著者、田中一恵という人物は、この巨石岩盤を「平戸橋巨石祭殿遺跡」と呼んでいました。そして、この著作の帯には「エジプト・シュメールと古代日本とのつながり」という キャッチ・コピーが踊っていたのです。それで、ネットにUPされている頁を読んでみたのですが、 そこには「遺跡」である根拠は何も書かれていませんでした。 ただ、次のような重要な情報があったのです。「この巨石岩盤は昭和35年に上流にダム(越戸ダム)ができるまでは水面下に没していた。いつの頃だろうか、今と同じように岩盤が地上に出ていた時代があったのである。」それで、巨石岩盤を見ていくことにしたのです。そこには胸形神社の祭神市杵島姫命(イチキシマヒメ)に関わる重要なものが存在したのです。

愛知県豊田市平戸橋町 胸形神社/波岩
豊田市平戸橋町 胸形神社/波岩(剛尺岩/お亀岩)
愛知県豊田市平戸橋町 胸形神社/波岩(剛尺岩/お亀岩)

2012年8月、平戸橋町の胸形神社の社叢はさほど、濃くなく、境内は暑かった。
境内に水道の蛇口があったので、タオルを濡らして首に掛け、矢作川の河原に降りられる通路を探しながら、南(下流)に向かうと、太鼓橋の架かった池の東脇から河川敷に下って行く通路が設けられていた。
その坂道を下っていくと、河川敷にには広い駐車場があった。
駐車場から巨石岩盤に向かうと、駐車場の端に矢作川研究所の設置した大きな案内板が設けられていた。
その中に巨石岩盤に関わる項目が二つあった。
「波岩(はいわ) 」と「剛尺岩(ごじゃくいわ)」だ。
自分が向かおうとしている大岩盤は波岩と呼ばれていることを知った。
その名称から、波が掛る岩なのだろうと思ったのだが、波岩は表面が波打っている岩であることが解ってきた。
波岩は河川敷から水路で離れているので、波岩に渡れる場所を探しながら北に移動した。
河川敷と波岩の間の水路は以下のようになっていて、川床に巨石が橋状に頭を出しており、波岩の南側に、少しジャンプすれば、波岩側に渡れる場所があった。

愛知県豊田市平戸橋町 矢作川河川敷/波岩

上記写真左側が胸形神社下の河川敷、右側が波岩だ。
上記の航空写真を見ると、波岩は西を向いた三角翼のステルス爆撃機のような形をしており、南半分は標高が高く、表面はほぼ一枚岩のままになっており、雑草で覆われ、潅木も多かった。
つまり、波岩の表面を観ることはできない状態になっていた。
その三角翼機の北側に向かうため、水路に沿って、北上した。

途中、やはり川床に橋状に横たわる巨石のある場所があったが、その帯状に横たわる巨石は対岸までは届いておらず、よく見ると、その帯の対岸側の河川敷縁に巨石が組んであることに気づいた。

豊田市平戸橋町 矢作川河川敷(写真奥側)/水路

側面が人為的に平らにカットされた複数の石が人為的に組まれており、橋を架けるための橋台だと思われた。
かつてはこの水路の水量が多くて、橋が架けられていたのだろう。

そこから三角翼の北側に抜けると、一気に視界が開けた。

平戸橋町 矢作川 波岩/平戸橋/左岸

南側と繋がった1枚岩だが、雑草は岩の隙間に見えるのみで石の表面が露出している。
その代わり、北側は名称通り表面が複数の石に分かれ、波打っていた。
日差しが強くて、長時間いられない岩場だったが釣り人はいた。
案内板の「剛尺岩(ごうじゃくいわ)」の項目には以下のようにあった。

●剛尺岩(ごうじゃくいわ)
波岩大岩盤の一番高い大きな岩は剛尺岩と呼ばれており、その東側に横たわる岩はお亀岩と呼ばれていました。大洪水の際にはこの二つの岩が激流を遮り、水の流れを左岸側に押し流して越戸村(こしどむら)を洪水から守っていました。

案内板「剛尺岩(ごうじゃくいわ)」 矢作川研究所

上記写真手前の波岩の左奥のもっとも高い黒っぽい岩が剛尺岩だと思われる。
剛尺岩とお亀岩を上空から拡大したのが下記写真だ。

越戸町 矢作川 波岩(剛尺岩/お亀岩)

また、焼けた波岩の表面には複数の白っぽい帯が表面の起伏に関係なく通っていた。

平戸橋町 矢作川 波岩 弁天の帯

これに関しては、案内板の「波岩(はいわ)」の項目に以下のように説明があった。

●波岩(はいわ)
ここ一帯の大岩盤は波岩と呼ばれ、中央部には白い条痕が数本あります。その内の一本は東の川から頂上に至り、更に西へと進んで弁天の森(胸形神社)へと繋がっています。
 弁天の森へと繋がる白い条痕は弁天の帯の跡であると言われています。

案内板「波岩(はいわ)」 矢作川研究所

矢作川の本流水路に近い場所から西方向を撮影したのが下記写真だ。

平戸橋町 矢作川 波岩

波岩奥のもっとも高い黒っぽい岩が剛尺岩。
胸形神社は画面の左外に位置している。

北側の波岩にはき裂が多いことから、どの線もペトログリフに見えてしまうのだが、その中の巨石の一つに複数のペトログリフを見つけた。
下記写真の撮影をした12年前にはシュメールのペトログリフに関しては牡牛神ハルと蛇女神キくらいしか認識できていなかったのだが、この巨石に複数の蛇女神キのペトログリフを見つけてしまったのだ。

平戸橋町 矢作川 波岩 ペトログリフ
平戸橋町 矢作川 波岩 ペトログリフ

12年前には3種類5点のペトログリフしか認識できなかったのだが、12年後の現在は同じ写真から7種類14点のペトログリフの存在の可能性を感じている。
もちろん、現物をもう一度見るまで確定できないものも含んでいるのだが、再度現場に行けば、さらに見つけるものが増える可能性がある。
上記7番まで番号を記入したペトログリフの名称は下記の通りと判断した。

❶ハイクロス(ケルト十字)
❷牡牛神ハル(シュメール)
❸海洋男神(12年前にはこのペトログリフを甲骨文字「父」と判断していた。日本神話で言うならイザナギに当たる)
❹蛇女神キ(シュメール)
❺バアル(古代ケルト、シュメールで祀られた神)
(12年前にはこのペトログリフを古代エジプトのホルスの目であり、左目であることから月の象徴と判断していた)
❻雨乞い(古代ケルト オガム文字)
❼ピコ(ハワイやポリネシアに多く見られるペトログリフ)

ペトログリフ名称(山乃辺 時久)

上記の写真の大きさではペトログリフの認識は困難なので、下記写真は見本として、左目のバアル神、2体の蛇女神キ、ピコの部分を拡大したもの。

平戸橋町 矢作川 波岩 バアル神・2体の蛇女神キ・ピコ

人為的に刻まれた線が含まれていることは一目瞭然だ。
左目に関する日本神話ではイザナギが左目を洗った時にアマテラスが化生したエピソードが存在する。
日本神話が海外の神話の原型と考えれば、バアルの左目のペトログリフがここに刻まれていても、何の不思議もないことになる。
また、イザナギに結びつくペトログリフ2種が同じ岩に刻まれているのは偶然ではないことになる。

下記写真は平戸橋下流の波岩で、舟を使用して釣りをする人。

平戸橋町 矢作川 波岩/平戸橋/釣り人

波岩の表面は滑らかで、花崗岩だと思われる。
平戸橋の右の橋脚だけ赤白の帯になっているのは装飾ではなく、水位を見るためのメジャーになっている。

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波岩を航空写真で計ってみると、南北の長辺が140mほどあり、胸形神社の境内がゆうに4社分収まる広さがあります。波岩に蛇女神キが雨乞いを目的として祀られており、その西の岸に同じ蛇神である弁財天が廃仏毀釈で市杵島姫命となって祀られているのは偶然とは思えません。

ヒラム+ケル=平戸

波岩の存在する町名である平戸橋町ですが、波岩に刻まれた目のペトログリフ、バアルは石工の神でもあります。目の記号を使用する石工の組合フリーメイソンリーの始祖とされるのが、ソロモン神殿建築を指揮した職人ヒラム・アビフなのです。平戸橋町の周囲には「ヒラ」で始まる地名と「ト」で終わる地名が、ざっと見ただけでも、平井、平池、太戸、越戸、安貝戸、井戸、笹戸と、集まっています。日本全国の「ヒラ」で始まり、「ト」で終わる地名で海運に関係のある場所であれば、古代イスラエル人と古代ケルト族、あるいはその文化を持った人たちがやって来ている可能性があるとみています。

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