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今朝平遺跡 縄文のビーナス 23:赤土の丘陵

愛知県知立市(ちりゅうし)の上重原八劔社(かみしげはらやつるぎしゃ)から北東7.8 km以内に位置する愛知県豊田市若林西町の若林八幡宮に向かいました。国道155号線と県道239号線を経由したので、東側から若林八幡宮に接近する形になりました。

愛知県知豊田市若林西町 若林八幡宮
愛知県知豊田市若林西町 若林八幡宮
豊田市若林西町 若林八幡宮

菱形の広い社地を持つ若林八幡宮の社頭は南側に位置する鋭角の角地が若林西町六反ヶ坪交差点に面している、珍しい雰囲気の神社だった。

愛知県知豊田市若林西町 若林八幡宮

小さな若林西町六反ヶ坪交差点に大鳥居が面しており、境内を囲う玉垣は鳥居の向かって左手には設けられているのだが、右手にはステンレスのポールを林立させて、鎖が張ってあるだけだった。
鎖が張ってある側には鎖の切れ目があり、鳥居の奥の白っぽい砂利が敷き詰められた広いスペースに車が駐車できるようになっていた。
ただ、このスペースは毎月の朝市に使用されたり、祭のためのスペースになっているようだ。
珍しい雰囲気の神社だと感じたのは、周囲は住宅街になっており、砂利が敷き詰められた広いスペースは平地になっているのだが、その奥は丘陵になっており、その丘陵を高木の社叢が覆っていたからだ。
現場では認識できないが、この丘陵の東側から南側にかけて逢妻男川(あいづまおがわ)が蛇行するように流れており、鳥居から逢妻男川まで100mあまり。
逢妻男川は若林八幡宮を中心とした丘陵を避けて蛇行しているようだ。
境内に建てられた岡崎御影石の『社記・由緒沿革』の板碑によれば、この板碑を建てた時点(年月不明)の氏子数は2,956戸であり、その産土神(うぶすながみ=鎮守神)だという。

大鳥居の前に立つと、鳥居の東側の柱の手前には「八幡宮」とだけ刻まれた社号標。

若林八幡宮 大鳥居

大鳥居は石造の台輪鳥居で、掛かっている社頭額にも「八幡宮」とある。
レイラインKM(仮名称) はこの大鳥居を通過してしていた。

大鳥居をくぐると、砂利を敷き詰めた広場の奥には重ねて玉垣を巡らせた場所があり、拝殿らしき建物に向かって上がって行く、どちらも幅の広いスロープ(左)と石段(右)が丘陵上に向かって延びている。

若林八幡宮 杜

石段には朱の幟が立っている。
スロープと石段の間には時計塔のある、不思議なスペースがある。

その不思議なスペースに近づくと、スロープと石段の間に存在する矩形のスペースにも白っぽい砂利が敷き詰められ、そこに石と剪定された灌木が配置されていた。

若林八幡宮 庭園

石はほとんど、黒く焼けており、そうとう古い時代のものであることが解る。
小型の石が線状に二重に並べられているのを観ると、白っぽい砂利と合わせて、枯山水や渓谷を表現したものに思える。
若林八幡宮の社殿の設置されている現実の丘陵を山に見立て、2つの登り通路の間を谷に見立てているようだ。
そのスペースには古木の根っこ部分が残っていたり、コンクリート造の太鼓橋も見える。
庭園になっているようだ。
こうした観賞用の庭園は旧い神社に残っているものを見かけることがある。

階段の方を上がって行くと、階段上の境内にも白っぽい砂利が敷き詰められていた。
階段を上ったすぐ脇にガラスケースの掲示板が設けてあって、そこに少女たちが紅白の巫女の正装をして巫女舞を奉納した時の写真が複数掲示されていた。

若林八幡宮 掲示板 写真

50cmほどの高さの土壇上に設置された瓦葺入母屋屋根を持つ鉄筋造の建物はやはり拝殿で、軒下の白壁以外は撫子色(なでしこいろ)に染められている。

若林八幡宮 拝殿

ガラス格子戸とガラス窓、「八幡宮」と金箔押しされた扁額は旧来の拝殿のものが流用されている。
拝殿前に上がって参拝したが、祭神は『社記』によれば以下のようになっている。

 主神 誉田別尊(※ホムダワケ)
相殿右 大目孁貴命(※オオヒルメムチ)
相殿左 天一箇命(※アメノマヒトツ)             (※=山乃辺注)

『社記』

八幡宮の総本社である大分県宇佐神宮の祭神は以下なので、主神以外は大きく異なる。

一之御殿 八幡大神[誉田別尊(応神天皇)]
二之御殿 比売大神[多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]
三之御殿 神功皇后[息長帯姫命]

宇佐神宮 公式ウェブサイト

『日本書紀』にみえる大目孁貴命とは天照大神の別名である。
また、天一箇命とは『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する神で、ひょっとこ(火男)の原型とも伝えられているように、鍛冶の神であり、このことは『鬼滅の刃』の「刀鍛冶の里編」にも利用されている。
大目孁貴命、天一箇命ともに遭遇することがめったに存在しない神であり、若林八幡宮の素性は額面通りには受け取れないところがある神社だ。
若林八幡宮の『由緒沿革』によれば、この地は天喜二年(1054)に開発され、八幡宮が勧請されたという。
文安三年(1446)には千葉三十郎(後、都築三十郎)道如上人の請によって、石川政康らと共に村が武州(武蔵国)都築から移住している。
「都築」とは織田信長が安土城を築いた際、その築城に携わった人たちに与えた名字であり、そのことから中部地方に多く見られる名字だという。

拝殿の西側に回ってみると、拝殿の裏面には比較的新しい祝詞殿と本殿が連なっていた。
本殿は瓦葺流造で、金箔押しされた装飾金具がまだ眩しく輝いていた。

若林八幡宮 本殿

本殿の破風(はふ)飾りは若林八幡宮の神紋右三つ巴に菊花を組み合わせたものだ。

若林八幡宮 本殿 破風飾り金具

本殿瑞垣の西側には本殿側から以下の境内社3社が並んで祀られていた。

・秋葉社
・稲荷社
・稲荷社

境内社の石造の設備を利用して蟻が赤土の蟻塚を形成していた。

若林八幡宮 境内社 蟻塚

この地の赤土は道路敷設に苦労する粘土質主体の痩せた土壌だというが、その赤土を蟻が拾い集めて、石のコーナーを利用して円墳を4分割した塚だった。
ヘッダー写真はその蟻塚の頂点部分にヒグラシの抜け殻を分割して、羽を運び込もうとしているところだ。実際、若林西町の北西に位置する折平町(おりだいらちょう)には「上赤土(かみあかつち)」と「中赤土(なかあかつち)」という字名が残っている。
長澤壮平氏による矢作川研究資料『愛知県豊田市旭地区周辺を対象に』(No.19:119〜129,2015)によれば、矢作川流域のこの赤土の地には水源が存在し、比較的なだらかな地形が多く、そのために民家が均等に点在し、比較的多くの耕地が拓かれ、これに隣接する山林は薪炭林と採草地という、生活に密着した利用形態が江戸時代から広く定着していた。

それはさておき、境内社は拝殿の東側にも1社、津島社(建速須佐之男命)が祀られていた。

若林八幡宮の境内には神馬舎(しんめしゃ)も設けられており、白馬の神馬像が納められていた。

若林八幡宮 神馬舎 神馬像

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若林八幡宮は多くの八幡神社と同じく、この地元特有の境内社は見られませんでしたが、本殿相殿に珍しい神が祀られ、高低差のある地形を利用して祀られた神社であることにも惹かれるもののある神社でした。

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