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中条遺跡 土偶A 4:三ッ井戸

このページから愛知県刈谷市の中条遺跡(なかじょういせき)の位置する重原(しげはら)に存在する弘法大師の関わった井戸に関わる場所を2回に分けて紹介します。

●中条遺跡 土偶A

中条遺跡の存在する重原(しげはら)の三ッ井戸関連地を巡ることにして、改めて7月の初旬に2ヵ所目の三ッ井戸弘法堂に向かった。

1三ッ井戸

三ッ井戸弘法堂は顕教寺院浄福寺の山門脇に祀られていた。

2三つ井戸弘法堂

それは瓦葺切妻造妻入で向拝屋根が付き、小さな格子窓を持った黄土色の板戸にかんぬきの掛かった建物だった。
最初に重原を巡った時に浄福寺の前は何度も通っていたのだが、その時には未だ、三ッ井戸の存在には気づいていなかった。
その三ッ井戸のうち、廃止になった乞井戸(こいど)と慕井戸(したいど)に祀られていた弘法大師像がここ三ッ井戸弘法堂に納められているとネットに情報があったので、2体の弘法大師像がここに奉られているものと思っていたのだが、格子窓から堂内を覗くと堂内には1体のみ、像高40cmほどの着彩木造坐像が奉られていた。

3三ッ井戸弘法堂弘法大師像

弘法大師像は定型があるので、よく見る像が主になるのだが、井戸の脇に奉られていた像ということで、もっと小さな石仏を想像していた。
1体しか大師像が存在しない事情に関しては情報が無かった。

この堂内に掲示されている『重原弘法大師三ッ井戸縁起』には以下のようにあった。
この縁起は旧仮名遣いで、旧字を使用した文なので、英文の不得手な日本人が英文を眺めるような気持ちで読みとばすのがコツだ。その方が文意が取りやすい。

抑當地に遺る三井戸の由来を案ずるに人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁十三年六月、大師御歳四十九歳の御時勅命により富士権現 御参詣の御帰途 重原の里へ御巡錫あらせられし折 頻りに渇きをおぼえ給ひ とある家にお立ち寄りあらせられ水を請わせ給ひければ 老翁即ち家の裏手に行き、しばらくして冷水を汲みて奉りしに、大師はよき水なりと御賞美あらせられ、尚問い給うに 今汝の水を汲み来る事の餘りに遅かりしは何故にやと仰せられければ老翁答えて當地は土地高きが故に井戸深く、縄釣瓶によりて汲むより外せん方なければ、甚だ手間のかゝりて且難儀の由申し上げるに 大師は、そは定めて困ることならむ、我汝にによき水を近くに得させんと、家の前のやや低き所に、おり立たせ給ひ、しばし瞑目して加持し給ひ、杖にて大地に穴を穿ち給うに忽ち玉の如き清水瀼々として流れ出でにけるぞ老翁随喜の涙にむせび永く御留錫を乞ひ奉りしに三七日の間御とまりあらせらる 其の折の大師は、尚里人の乞ひにまかせ外に二つの井戸を御授けあらせらる。

 〜この行は読み取れず略〜
口碑に遺る、乞井戸、佐次兵衛井戸、慕井戸即ちこれなり

當地浄福寺往時の性を三井と申さるること三井戸に因める由傳へらる。
其後星移り年變るに連れて人家も多くなり水を汲む術も講ぜらるに至り氏より各戸毎に井戸を設けしため大師の井戸は只徒らに、荊棘の覆懐となれるを今回かかる由緒ある御遺跡の廃滅に近き有様を嘆き、其地を清浄にし尚小宇を建立して大師の尊像を安置し永く大師の御徳を傳へ奉らんとす 希はくば十方有縁の輩よ、大師の霊場に詣り此霊水によりて其の心を洗滌せられんことを。
 
 三河国重原
 重原弘法大師三井佐次兵衛井戸執事
            〜この行は読み取れず略〜             

弘法大師には杖を使って列島各地で湧き水を掘り当て、そこに設けられた井戸が残っている伝承が各地に存在する。

《役小角の系譜》
弘法大師は平安時代初期の人物だが、奈良時代初期の僧行基や飛鳥時代の修験者役小角(えんのおづぬ)の影響を受けている。
この3人を結ぶものは水流に関わる土木工事の事業と山岳修行だ。
役小角の修行した山に後に行基が登って修行した後、寺院を開基し、その寺院が衰退した後に弘法大師がその山に登って修行し、衰退していた寺院を真言宗寺院として再興した例は列島各地に存在する。

《開湯伝承》
また、弘法大師には湧き水伝承とともに開湯伝承も各地に存在し、Wikipediaには和歌山県の龍神温泉ほか24ヶ所が紹介されているが、同様に行基も草津温泉を始めとした18ヶ所が紹介されている。
しかし、実在が確認されている人物による最初の開湯は大化三年(648年)12月に有馬龍宿山(川崎市中原区)で役小角が発見した霊泉源だった。また小角は熱海温泉の元になった走り湯の発見者でもあった。

《土木事業》
井戸、溜め池、用水路、橋の築造には土木工事の技術が必要になるが、役小角には葛木山と金峯山(山頂間の距離32.7km余)の間に石橋を架けようとした伝説があるが、これは完成していない。
しかし、行基は朝廷が禁止していたにも関わらず、日本最古のダム式貯水池である狭山池(大阪狭山市)ほか2池造成に関わり、2橋を架橋し、最後には朝廷にその作業を公認されている。
そして、空海(後の弘法大師)は唐への留学中に『工巧明(くぎょうみょう)』という技術書を書写するなど、土木技術や薬学をはじめとした多分野の知識を学んで帰国し、香川県の満濃池(まんのういけ) を最新の工法で改修し、嵯峨天皇の代には朝廷から築池別当(つきいけべっとう:池を造る最高責任者)の勅命が下りている。

《江ノ島と江ノ島電鉄沿線》
このように空海が役小角や行基を意識していたことは、先達の二人と同じ場所を選択して修行を行ったことでも分かる。
前のページで紹介した江ノ島弁財天の元になった

役小角が修行した江ノ島岩屋では空海も修行を行っている。
行基は江ノ島には直接関わってはいないものの、関係する寺院は鎌倉&江ノ島電鉄沿線に複数存在する。

《佐次兵衛井戸》
三ッ井戸弘法堂から、唯一残っている佐次兵衛井戸に向かった。
佐次兵衛井戸は南側に水田の広がる重原の丘陵の麓に位置していた。

4佐次兵衛井戸

それは地元民しか通らないような水田と灌木に挟まれた裏道に面しており、竹垣で囲われた中に「卍 弘法大師三ッ井戸霊場」の霊場号標が立てられ、井桁の組まれた井戸が残されており、井戸には銅板葺の屋根が掛かっていた。

5佐次兵衛井戸

思ったよりも大きな井戸だった。
井戸の手前には線香台、常夜灯、手水桶が並び、井戸の奥には真っ赤な涎掛けをした像の納められた祠が祀られている。
祠の中を見てみると、規格から外れた珍しい石造の弘法大師立像が奉られていた。

6佐次兵衛井戸弘法大師立像

生垣の一部にはほとんど見たことの無い、絡みついたノウゼンカズラが百花繚乱となっていた。

7佐次兵衛井戸ノウゼンカズラ

ノウゼンカズラは漢方薬として利尿や通経に使用される植物だという。

佐次兵衛井戸前の道を挟んだ向かい側は畑地になっており、その畑の端に様々な珍しい花が少しづつ栽培されていた。
ノウゼンカズラといい、同じ人物が管理しているのではないかと思わせるところがあった。

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三ッ井戸の中で唯一残された佐次兵衛井戸は緑に囲まれ、ちゃんとメンテナンスがされ、形だけの三ッ井戸弘法堂よりずっと素敵だった。やはり、気が入ってないと、何事も死んでしまうものだということがよく解る。
この次はすでに慕井戸の無くなっている一色町
(いしきちょう)2丁目に行ってみることにします。

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