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伊川津貝塚 有髯土偶 20:将門の首の在処

愛知県大府市(おおぶし)共栄町 神明社の北東5.9m以内にある名古屋市の丹八山(たんぱちやま)に向かいました。何度も登っているこの山は標高11mで愛知県最低峰ですが、なぜか標高27mの潮海山(ちょうかいさん)の方が“愛知県最低峰”として知られています。個人的には丹八山は古墳ではないかと考えていますが、古墳の可能性のあることが“自然山”として見なされていないことも考えられます。丹八山の山名はこの山の所有者だった高名な易者である通称丹八氏の名前に由来していますが、かつては鳥居山と呼ばれ、現在は麓を含めて名古屋市に寄贈され、丹八山公園となっています。

愛知県名古屋市南区笠寺町 丹八山
名古屋市南区笠寺町 丹八山
笠寺町 丹八山
笠寺町 丹八山 迦具土社/平将門首塚

国道23号線を使って北上したが、丹八山の登り口は山の北西側に位置している。
山麓の北側と南側には平地の公園スペースがある。
昭和期にはこの山と平地のスペースが盆踊りの会場になっていたようだ。
当時の丹八山所有者の石川丹八郎氏(通称丹八氏)は郷土史家で、ソング・ライターでもあり、易者として以下のような伝承がある。
丹八氏はプロ野球史上最高の日本シリーズと言われている長嶋&王選手を擁した巨人vs中西&稲尾選手を擁した西鉄戦で巨人の3勝0敗のスコアから鉄腕稲尾投手が4連投して西鉄が4勝3敗で逆転優勝したシリーズ全7試合の得点数をすべて的中させたことで、一躍全国区となった易者でもあります。
「4勝3敗で西鉄優勝」なら素人でも予想を的中させた人もいるでしょうが、全14試合のスコア得点である14の数字を全て的中とは尋常じゃない。

●丹八山と将門の首
昭和期にはそんな丹八氏所有の丹八山も平安時代には熱田神宮の御旅所(おたびじょ)として特異な役割をしました。
「御旅所」とは祭礼において神の乗った神輿(みこし)を巡遊して、しばらく休息を取る場所のことだが、もし、ここが古墳であったら、熱田神宮に祀られた一族に属する人物の墳墓だった可能性も考えられる。
丹八山は熱田神宮の南々東4.2kmに位置しているので、平安時代にはスケールの大きな祭りをしていたことになる。
ある年、坂東(ばんどう:関東)にいた平将門(たいらのまさかど)が朝廷に対し、いわゆる「平将門の乱」を起こした。
平将門の乱とは935年(承平5年)に上総介(かずさのすけ:上総国長官)を務めていた平国香(たいらのくにか)を殺害した形になってしまったことに端を発し、940年(天慶3年)には「新皇(新たな天皇)」を名乗り、東国の独立宣言をした反乱のことだ。
将門も私にとっては親族の一人ですが、平国香がご先祖に当たる。
そして国香は将門の叔父に当たり、桓武天皇の孫の一人でもある。
国香は直接、将門と戦ったわけではないのだが、朝廷の官僚なので、後に新皇を名乗ることになった将門とは敵対関係となってしまい、国香の居館は将門側(坂東地元勢力)の焼き討ちに遭い、焼死している。
将門も5年後に新皇を名乗って2カ月たらずの幸島郡(現・茨城県幸島村)での朝廷軍との戦闘で、矢が額に命中し、討死した。
将門の首は平安京で晒し首となったが、平安京に運ばれる経路の複数ヶ所(10ヶ所以上?)、少なくとも全国区になっている東京都千代田区大手町の「将門塚」と、ここ丹八山の「平将門首塚」には塚が残っている。
丹八山は旧東海道(飛鳥時代後期には断片的に成立していた)から600m以内に位置している。

ところで、将門が上総介を倒し、朝廷に対して反乱を起こした5年の間に熱田神宮は熱田の七神を神輿に乗せて丹八山に渡御し、将門調伏祈願をしている。
七神となったのは将門の7人の影武者に対応するためだったとする伝承もあるのだが、将門の生存中にこうした神話が成立するのは考えにくく、元には将門の所属する坂東桓武平氏の妙見信仰と習合した北斗七星信仰があると思われる。
江戸に天海僧正が将門のパワーを利用した北斗七星結界(大手町将門塚もその1ヶ所)を張ったとする説も関係がある。
そして、ここ丹八山自体が北斗七星祭祀と無関係ではないことが熱田の七神に反映された可能性も考えられる。
これに関しては長くなるので、次の記事として後述するが、将門調伏祈願が成就した翌941年(天慶4年)に丹八山に七社の神が祀られたとされている。

さて、愛車を丹八山の北側の公園内に駐めて表参道を登った。
現在も丹八山の七神を祀った七所神社(しちしょじんじゃ:2つ後の記事で紹介)からの渡御の神事は行われているので、神輿が登りやすいように山道は幅が広く改修されている。

愛知県名古屋市南区笠寺町 丹八山 迦具土社表参道入口

登り始めてすぐの曲がり角の両側に石碑が建てられている。
かつて丹八山には50基以上の石碑が建てられていた。
それらのほとんどが丹八氏によって造立されたもので、それらの板碑の多くに郷土史家とソング・ライターとしての丹八氏の資質が反映されている。
造立の動機は郷土史家としてのものなのだが、表現はソング・ライターとしてのものになっており、おそらく、史実を膨らませすぎたものの多くが近年になって撤去されてしまったのが残念だ。
特にハワイ国王に関する板碑は米国がハワイ諸島をハワイ王家から収奪した悪事に関わるものだっただけに、残しておいて欲しかった。
それはともかく、最初の右手の板碑には以下の記述が刻まれている。

名古屋市南区笠寺町 丹八山 迦具土社表参道 笠寺観音霊木表着之地碑

星崎浦 是ヨリ南 喚 續濱
 笠寺観音霊木漂着之地
松巨島 是ヨリ北 呼續濱

丹八山 板碑『笠寺観音霊木表着之地』

笠寺観音とは丹八山の北北東740mあまりの旧東海道沿いに建立された真言宗寺院のことで、丹八山のあった海岸に流れ着いた観音像の姿をした流木を奉ったとする寺院のことだ。

この笠寺観音霊木表着之地碑のあたりは貝塚だったようで、この日もヘッダー写真のように現在の日本ではあまり見られないが貝塚ではよく見られるハイガイの殻が舗装路に露出していたのには驚いた。

さらに参道を登る。

笠寺町 丹八山 迦具土社表参道

ハワイ国王に関する板碑は上記写真の右手あたりに存在した。
参道の正面にも複数の背の高い板碑が林立している。

コンクリートでたたかれた坂道部分を上り切ると開けた丹八山山頂にでるが、その南西側にこの山唯一の建物である迦具土社が北北西を向いて祀られている。

笠寺町 丹八山 迦具土社

瓦葺の神門の左右に延びて、黒壁の瓦葺回廊を持つ迦具土社だった。
平安時代にここに祀られた七神は1040年頃には遷座してしまっているので、迦具土社は関係のない神社だ。
どうも江戸時代に祀られたも神社らしいのだが、幼児期に丹八山に登った折には山頂に建物があった記憶が無いのだ。
「神社」が理解できてなく、建物にも興味が無かったので記憶から抜け落ちているのか、当時は小祠や板碑が奉られていただけなのかもしれない。

神門をくぐると中央に炊き上げ所が設けてあり、正面に瓦葺入母屋造棟入の迦具土社覆屋が回廊と繋がっている。

笠寺町 丹八山 迦具土社

覆屋の木部は栗皮茶に染められ、回廊の内壁は軒下の黒以外は藍白の金属板が巡らされていた。
拝所前で参拝したが、祭神は迦具土命。
迦具土命は紀記神話では「火の神」となっており、母親のイザナミから産まれる際にイザナミに火傷を負わせて死亡させたことから、怒ったイザナギに首を落とされ神だ。
社殿に多用されている「黒」は火が燃えた後に残る炭のイメージだろうか。
迦具土命はスサノオの別名ともみられる。スサノオは熱田七神の中の主神であり、そのことが、ここに迦具土社の祀られた由来になったのだと思われる。

ここ、迦具土社は、いかにも神社らしくない建造物で、鳥居・狛犬・拝殿・常夜灯といった神社的要素のすべてが存在せず、江戸時代には権現とか明神として奉られていた可能性もある。

笠寺町 丹八山 迦具土社

迦具土社の左隣(北側)には石碑の林立する円墳状の塚が設けられており、これが平将門首塚だった。

名古屋市南区笠寺町 丹八山 平将門首塚

上記写真右端の板碑が以下だ。

笠寺町 丹八山 平将門首塚 塚号標

この塚号標の裏面には以下の案内文が刻まれていた。

平将門ノ首ヲ下総ヨリ京都ヘ送ル途中腐ッタノデコゝニ埋メタ髪ノ毛ハ京都ヘ送ル

丹八山 塚号標 『平将門首塚』

なんと、首はここにだけ埋められていて、平安京には髪だけが届いたことになる。

塚の上から丹八山山頂を見下ろしたのが以下で、この右端(北端)で七神の神輿渡御の祭祀が行われている。

笠寺町 丹八山 平将門首塚 塚上から見た丹八山山頂

同じく、平将門首塚塚上から北方向を眺望したのが以下。

笠寺町 丹八山 平将門首塚 塚上から見た北方向

上記写真奥右端の白くて横に長い建物が本城中学校の校舎だが、この校舎の右手に現在は七所神社(しちしょじんじゃ)が祀られている。
丹八山に七神を祀った社が残っていれば、七所神社の元宮ということになるのだが、現在残っているのは表向きには関係のない迦具土社のみだ。

丹八山を降ってくると、登口の少し南に以下の板碑が設置されている。

笠寺町 丹八山 塩付街道碑

     右 知多郡へ渡シ
塩付街道
     左 信州の善光寺

丹八山 塚号標 『塩付街道』

この塩付街道碑は丹八山の西の麓を抜ける路地に面しているが、この路地が塩を信州に運んだ塩付街道(しおつけかいどう)だ。

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次の記事では私見では古墳ではないかと考えている3ヶ所と塩付街道に関して紹介します。

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