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今朝平遺跡 縄文のビーナス 2:縄文人のロマンチックな科学技術

直前の記事で、豊田市(とよたし)の今朝平遺跡(けさだいらいせき)から出土した渦巻土偶(仮称)を国宝の棚畑遺跡(たなばたけいせき)出土の縄文のビーナスに刻まれた3つの渦巻と関連づけることで、トチノミの神霊として祀った土偶である可能性を紹介しましたが、この渦巻土偶はもう一つトチノミと結びつく要素のある土偶である可能性が存在することに気づきました。
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豊田市足助町 今朝平遺跡 渦巻土偶

上記写真の渦巻き土偶は太腿の先が破損していますが、もう1ヶ所、渦巻破線の沈線の入った、胎内を表現したと思われる受皿形状の背中側(上記写真奥側)が断裂しており、何かがくっついていたことが推測できる。
何がくっついていたのか推測すると、思いつくのは下記図版左のような、お腹の上部分の上半身だ。

豊田市足助町 今朝平遺跡 渦巻土偶

ちょうど、椅子の背もたれのように平面的な上半身像がくっつていたのでは無いかと想像した。
そして、受皿状の部分は上記右のようにトチノミの殻をかたどったものと推測できる形状であることに気づいた。
つまり、この渦巻き土偶はサイズ的にも受皿の上記写真左右の直径が5cmほどで、実物のトチノミの殻の直径で同じサイズのものが実在する寸法なのだ。
そして、渦巻土偶の受皿に実物のトチノミを入れると、上記図版右下のように、そのトチノミをマムシの神霊で囲って守護するような形になるのだ。
この推測を確定するには、足助町に約90カ所存在するという縄文遺跡から集中的にトチノミやトキノキの痕跡が出土する必要があるのかもしれない。
ちなみに足助町にある足助病院ではマムシ咬創の診察を受け付けているが、ネット上には特にトチノミやトキノキに関する情報は見当たらない。
だが、日本列島全土に分布するトチノキはWikipediaに以下のように説明されている。

日本の山村地域の暮らしを支えた重要な樹種で、実は食用となり栃煎餅や栃餅に、また材からは臼やこね鉢などが作られる。

Wikipedia 「トチノキ」

トキノキは山村地域に位置し、自前で餅をつく習慣のあった足助町にはぴったりな樹種なのだ。

トチノミをかたどった土偶の存在を提唱した書籍が以下の『土偶を読む』(竹倉史人著 晶文社刊)だが、そのカバーには栗と栗をかたどったとする、現在の北海道函館市尾礼部町から出土した著名な中空土偶の頭部の写真が使用されている。

『土偶を読む』竹倉史人著 晶文社刊

●今朝平遺跡 縄文のビーナス

話を今朝平遺跡 縄文のビーナスに戻そう。
こうした何の記号も刻まれてなく、ただ、女性の裸体を造形した土偶は各地で出土している。
『土偶を読む』の著者 竹倉史人氏が現行の中学・高校の教科書をチェックしたところ、14冊のうち10冊が「土偶は女性をかたどっている」という趣旨の説明をしており、そのうち2冊は「妊娠女性」と明記してあったという(『土偶を読む』P21)。
今朝平遺跡 縄文のビーナスの場合は「妊娠女性」あるいは「豊満女性」のイメージなのだが、小生も、こうした土偶は再生・多産・安産祈願のための祭祀を行うためのツールとする通説があることは知っていた。
そして、足助資料館に展示されている土偶群のように、縄文のビーナス以外の土偶は、すべて破損した状況で出土していることなどから、土偶一般には病気・怪我・治療のための祭祀ツールとする通説も存在する。
そして、小生は縄文遺跡を巡っているうちに、破損していない土偶も多いことを知り、今朝平遺跡 縄文のビーナスのように単に女性の裸体をかたどったと思われる土偶を見ているうちに、現代でも使用されている形代(かたしろ)の存在と結びついた。
以下は足助町を含む三河国一宮砥鹿神社(とがじんじゃ)の形代である。

三河国一宮 砥鹿神社大祓人形袋

このパッケージの封筒では「形代」ではなく、一般の人にも解りやすい「人形(ひとがた)」という用語が使用されている。
下記のように並べてみると、両者の相似性は明らかだ。 

今朝平遺跡 縄文のビーナス | 形代    

頭部が縄文のビーナスとまったく同じ菱形の形代も存在する。
形代は各神社で行われる年間を通じて最大の祭祀行事である大祓(おおはらえ)などの前に神職と社務所が機能しているレベルの神社で発行される。
それは上記写真のように和紙を人形(ひとがた)にカットしたもので、神社から頂いてきた人形に息を吹きかけたり、体の調子の悪いところを撫でて穢れを遷した後に使用した形代を封筒に戻して、お布施とともに神社に戻してお焚き上げしていただくものだ。
つまり、まるごと病気・怪我・治療のための祭祀ツール説のある土偶と重なるものだ。

ついでなので、小生の形代コレクションの一部を下記に紹介しておこう。

東京都新宿区 市谷亀岡八幡宮 大祓形代

上記は東京都市谷亀岡八幡宮の大祓(おおはらえ)形代で、長袖の切れ目が入っているものの、畳んであれば、◻︎と○を組み合わせただけの極めてシンプルなもので、和紙かどうかは不明だ。

以下は東京新宿歌舞伎町にある稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)の大祓形代。

東京都新宿区 稲荷鬼王神社 大祓形代

おそらく、男性用と女性用のセットなのではないかと思われる。
左の男性用と思われる方の形代は縦に二つ折りになっており、立体になるようになっている、珍しい例だ。

以下は東京都湯島天満宮の形代。

東京都文京区 湯島天満宮 大祓式 形代

人形(ひとがた)だけではなく、交通事故に対応するための自動車やモーターサイクルもセットになっている。
そして、これらの造形が非常にプリミティブなものであり、機械の構造を知っていたら、絶対に造形できないデザインになっていて、面白い。
形代はシンプルな形体であるにも関わらず、神社それぞれに異なり、オリジナル性がある。
湯島天満宮の形代はごく薄い和紙を使用しており、かなり透過性が高いものだ。

当初、小生は土偶と形代の相似性には自分だけが気がついているものと思っていたのだが、土偶の病気・怪我・治療祭祀ツール説は、その相似性に気がついた研究者から提示されて、支持を受け、通説となったものなのだろう。

ここまで、形代を紹介してきたのだが、肝心の竹倉史人氏は「病気・怪我・治療祭祀ツール説」「再生・多産・安産祈願祭祀ツール説」の両方の説に懐疑的だ。
その理由として縄文人の人口の増減と、土偶の製造数の増減が一致していないことを指摘している。
もし、上記両方の目的で土偶が製造されたなら、縄文人の人口の増減で出生・出産・治療の機会も増減し、それにともなって土偶の製造数も増減するはずなのに、統計データでは縄文人の人口と土偶製造数の増減が一致していないのだ。

それでは縄文時代前期以前の土偶に近い形態の今朝平遺跡 縄文のビーナスも竹倉氏のいうようにやはり特定の植物をかたどったものなのだろうか。
見かけでは、今朝平遺跡 縄文のビーナスは縄文時代中期の土偶のような奇妙な形態ではないし、竹倉氏も縄文時代前期以前の土偶に関してはその出土点数が例外的な少ない点数でしかないことから、具体的に特定の植物を割り当てる作業はしていない。
そして、竹倉氏自身も例外的な別の目的で制作された土偶の存在を否定しているわけではない。
例えば、今朝平遺跡 縄文のビーナスが病気治療に使用されたり、特定の個人を示すものであったりする可能性は否定していない。

一方、土偶が人間の身代わりとして使用された形代の機能を持つものから外れると、形代の起源は土偶から人物埴輪に移ることになるが、人物埴輪には葬送儀礼を表現するためのモデルとする説や生前の祭政の様子を再現するためのモデルという説はあるものの、確定された説は無く、治療祭祀とは結び付けられていない。
治療祭祀と結びついている最初の人形(ひとがた)としては以下のような平安京から出土した木造の人形代(ひとかたしろ)が存在する。

上記写真右側のものはコケシに近い形態をしている。
人形代としては上記のような木造のものの他に藁で制作されたものがあるが、共通しているのは、川や海に流しやすい材料を使用していることだ。
下記のヒノキの枝を飾った舟に乗せた3体の藁と和紙を使用した人形は小生の氏神の天王祭で川に流される人形代で、病気や災厄を人形代に遷して流すものだ。  

七所神社天王祭 人形代

素木で体軸と両腕を構造とし、頭と体を藁で包んで造形し、衣は和紙で制作され、頭部も藁を和紙で包んで、墨で頭部を描いたものだ。
現在でも行われている行事で、氏子たちによって、毎年制作されているが、流石にこの大きなものを川に流す行事は現在は行われていないようで、天王祭の翌日1日、拝殿前に飾られ、お焚き上げされているのではなないかと思われる。


ところで、足助資料館には紹介した土偶のほかに下記のような奇妙な土製品が展示されていた。

豊田市足助町 今朝平遺跡 土製品

寸法は目測だが、長辺が7cmくらいのオブジェで、近い形態のものはメロンパンなのだが、縄文時代に存在したものとしては亀だろうか。
しかし、亀にしては底部の側面には串で刺したような穴がほぼ等間隔に並んでおり、実際に何なのかは不明だ。

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竹倉史人氏が土偶に対する通説に異議を唱えたのは、英国の人類学者ジェームズ・フレイザーの著作『金枝編』で紹介されている植物に宿る精霊を祭祀する風習がアフリカ、ヨーロッパ、メラニシア(オーストラリア大陸の北〜北東部)、アジアなどの広範囲に存在することを知っていたことが大きかったようです。竹倉氏の言うように、現代人が自然界を科学技術をもって制御しようとしているように、古代人や未開人は栽培植物に対する祭祀という呪術で栽培植物を制御しようとしていたという発言は古代人や未開人は未文化な野蛮人だとする思い込みのベールを剥がしてくれるものでした。


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